三角縁神獣鏡論の動向について                           2015年5月31日

                                           平松 健

 

はじめに

 第三十三回東京古田会年次総会において私のような未熟者に発表の機会を与えて下さいまして、誠に光栄でございます。題して「三角縁神獣鏡論の動向について」でありますが、三角縁神獣鏡につきましては、すでに何回も研究会や、古田会ニュースの紙面上に発表させて頂いておりますので、みなさんの中には、またかと思われる方もあろうかと存じますが、暫くの間ご辛抱賜りたいと存じます。

T 邪馬台国論争の一環としての三角縁神獣鏡論

 邪馬台国近畿説の考古学的根拠は、三角縁神獣鏡は多く、大和の地域から出る、三角縁神獣鏡には景初三年とか正始元年などという卑弥呼の時代の銘の入った鏡がある、これは魏志倭人伝に出て来る銅鏡百枚の一部だ、よって邪馬台国は近畿である。一見三段論法のように見えますが、詳しく見れば「三段跳び」以上の飛躍の論法です。

対する邪馬台国九州説の人は、三角縁神獣鏡は中国から一枚も出ない、一枚も出ないような鏡を卑弥呼が貰うわけがない。卑弥呼が貰った鏡は、北九州から多く出る漢鏡(魏鏡)である、これも九州説の大きな根拠になるというものでした。

 そのような中で今年の二月二四日読売新聞の書評が、大塚初重氏の『日本列島発掘史』を紹介していました。その中で、卑弥呼の鏡とも言われ、国産か中国産か議論が続く三角縁神獣鏡を(大塚氏は)「中国産と言ってきたけれど、去年から国産説に変えた」、と書いておりましたのでいわばセンセーションを起こしました。何しろ大塚氏は日本考古学会の重鎮で、今もご活躍で、大塚氏の教えを受けた人は考古学会にあまたおられます。

 これはたいへんだということで、大慌てで、朝日新聞が三月二日づけで、「三角縁神獣鏡『中国で発見』」という記事を発表しました。この中心人物である王趁意氏の論文は、『中原文物』二〇一四年六月号に載りましたから、遅くても去年の夏には日本で入手していたもので、それを今年の三月に発表するということは、三角縁魏鏡説側の圧力があったとしか考えられません。魏鏡説の急先鋒である早稲田大学の車崎正彦氏など、紙上では控えめな発言をしていますが、講演会などでは堂々と中国説を主張しておられます(本ホームページ論文集、中国の三角縁神獣鏡2ご参照)。

U 三角縁神獣鏡中国製説検証

 王趁意氏はこの二〇一四年六月の他、二〇一〇年四月にも同じ「中原文物」に別の三角縁神獣鏡の中国発見の記事を書いております(両記事とも本ホームページの拙訳ご参照)。また、同氏著『中原蔵鏡聚英』には神獣鏡の章で、平縁画文帯神獣鏡1面、三角縁神獣鏡8面、三角縁青龍白虎鏡1面、三角縁画像鏡1面、三角縁仏飾蓮華鈕竜虎鏡1面、三角縁瑞獣鏡1面、合計13面を中国発見として掲載しています。

時間の関係で二〇一〇年のものについてのみふれますと、王趁意氏は鏡は次の銘文であると言います。

吾(作)明竟真(大)(巧)、上(倒写)有竟母願(富)貴、原□虎右大倡亘、貝主照東須質堅、赤誦三

字そのものも非常に不鮮明である上、およそ文字として把握せず、図案と考えているフシがあり、5字目の上は上下転倒、中国人には考えられないことで、およそ漢字が読める人が書いたとは思えないものです。文書全体も、意味不明です。要するに文字の分からない人が、真似て作製したとしか考えられません。王趁意氏は「銘文は立派な隷書だ」と言いますが、非常に疑問です。

いずれにせよ、中国で発見されたとする三角縁神獣鏡については、先ず出土状況をはっきり知る必要があります。日本で青銅器を論じる場合は大半が古墳または遺跡から出土したもので、その遺跡の名前がはっきり記録され、基本的には調査報告書が作成されています。一方中国の鏡は古物商より入手とか、〇〇博文館蔵とはありますが出土がはっきりしません。洛陽出土とあっても、明細は分かりません。中国出土の場合で「洛陽燒溝漢墓」などははっきりした調査報告書がありますが、このような調査報告書がないものは出土品でないと言ってもよいのではないでしょうか。

つぎに銘文の問題があります。漢字があれば中国製とする思想は、富岡謙蔵以来多くの学者がいだいています。しかし日本にも早い時代から漢字が読み書きできる人がいたことはあきらかですし(それが中国人であるかも分かりませんが)、踏み返し方法によっていくらでも真似ることができます。さらに重要なことは銘文を漢字としてではなくデザインと見ているとしか考えられないようなものもたくさんあります。要は銘文があるから中国製とは言えないと思います。

科学的分析も重要です。科学的分析は中国ではほとんど行われていない現実があります。それは他のもので時代判定できる便利性の結果ではありますが。

最大の問題は、中国は世界に冠たるコピー国であるということです。各種の模造の伝統を有し、それが現在でもあらゆることに生かされていることを忘れてはなりません。 古物商から収得したもので時代判定する恐ろしさ。日本では類似のものを舶載鏡と認定し、それを中国製とするリスクがたぶんにあります。

V 銘文が語る時代と製作地

銘文は一つには魏鏡であることの証拠とされました。富岡謙蔵氏が三角縁神獣鏡に出てくる「銅出徐州師出洛陽」について、銅は徐州から出たものであり、師という言葉は、晋代はその祖司馬師の諱になるために晋以前、すなわち魏を意味すると、色々紆余曲折はありますが、結論的にはそう言い出して、それが学会にまかりとおりました。

一方「浮由天下敖四海、用青同至海東」という銘文から「青銅を持って日本に来た、そして、日本で作った」と解釈したのが、国産説の最初です(古田武彦氏説)。これに対して樋口隆康氏は「青銅を用いて鋳造した後に日本に来た」と解釈し魏鏡説を取ります。

鏡の編年については多くの学者が色々言っており、魏鏡説の間でも統一が取れておりませんが、多くの魏鏡説学者は、時系列的にとらえると,創出期の(T)紀年銘鏡系,しだいに(II)某氏作竟甚大好系に定型化してゆきつつ、(V)某氏作意幽律三剛系・(W)画象鏡系・(X)四言短句系も使用され,最終的に(Y)四言短句系が多数を占めてゆくとしていて、大半の学者は紀年銘鏡が最初だとします。(Y)の次に(Z)仿製鏡が来ることは大問題ですが、右の図の紀年銘鏡の銘文を見ると、とうてい中国人が書いた銘文とは認められません。百歩譲って羅振玉の『増訂碑別字』の『初』の部が『魏司空穆泰墓誌』にみられるとしても、それは小林行雄氏等のいわれる「魏」ではなく、「北魏(三八六〜五三四)」の時代です(古田武彦『失われた九州王朝』)。

銘文について、もう一つ欠かせない例は右の例で、銘文の真ん中のものは河北省易県燕下都武陽台東から採集した(出土ではない)方格規矩鳥文鏡ですが、左文字や誤字も含まれており中国人が書いたとは思えないような下手な文字です。それでもれっきとした魏鏡だと福永伸哉氏をはじめ多くの学者が主張しています。右(左図注では「左」となっていますが「右」の間違いです)にある松林山古墳出土の三角縁吾作二神二獣鏡も真ん中に負けず劣らず下手な字が書かれています。その上、「明」「奇」「訾」が原作と反対になっています。その点左の一貴山銚子塚の銘文は銘文のほぼ反対字ですので、誰が見ても仿製鏡であることは否定できないでしょう。

れらの字は中国人が書いた字ではない、(上の)紀年鏡の字も中国人が書いた字ではない、と車崎正彦氏を厳しく追求しましたが、彼は、呉鏡の中にも下手な字がいっぱいある。要するに三世紀の日本人に漢字が書けるはずがない。銘文があるのは全て中国鏡である。一部仿製鏡だといわれているがそれは誤りだと、車崎氏は主張します。

W 鏡の形式による編年

鏡の形式による編年と申しますか、形式の変遷の分析については、とくに三角縁神獣鏡単独の形式編年を古くから小林行雄氏追求してこられました(図省略)。神と瑞獣の配列と方向の変化によって、編年をしようとしたものですが(『古代文化論考』)ご存命中は敬意を持たれていたのですが、その後の学者の編年作製では小林氏提案の順にかなりの部分で従っていません。

鏡の形式による編年としては、三角縁神獣鏡に限らず他の種の鏡と総合して編年を行ったものに、岡村秀典氏の漢鏡分類があります。これは基本的には『洛陽燒溝漢墓』(中国田野考古報告集、1959)を基準にしております。この本の難点は鏡などの出土品の写真がなく、基本は拓本であることです。本の内容での問題は、同じ種類の鏡がたとえば晋代でも作られていて、名称だけでは、それが漢代か三国時代か晋代かが分からないことです。また、洛陽燒溝漢墓からは、鏡が分類されている時代より約百年新しい墓誌が出てきます。従って分類そのものが変わって来る可能性があります。

最大の問題は、三角縁神獣鏡が燒溝漢墓はもちろんのこと、中国から一枚も出て来ないにもかかわらず、これを漢鏡8期に分類して、三世紀中頃に配置しています。景初三年などの紀年銘鏡が三角縁神獣鏡の最初だという、学会の大勢の意見を取り入れての分類表でしょうが、大きな問題です。

X 古墳の編年と三角縁神獣鏡

学会としても、銘文だけも、鏡式だけでも不十分ということで、両方を組み合わせてはどうかという試みが行われていますが、紙面の関係で省略します。

また、科学技術や鉛同位体比の問題も時間の関係で省略して、三角縁神獣鏡の出土する古墳の編年と三角縁神獣鏡自体の編年の問題に移りますが、一般には、舶載鏡の製造または輸入の年代をABCDの四段階にわけ、仿製鏡の年代も四〜五段階に分けて、それらが出土するもっとも新しい時代を、古墳造成の年代にしようという試みです。ここで、実際にいわれている古墳年代との対比が必要であると思って、『日本古墳大辞典』、『同続』(ともに大塚初重氏他)の年代推定、次に『全国古墳編年集成』(石田博信編)の他インターネット記事にある編年を追加して作製したのが右の表です。

この表ですぐ分かることは、従来学者が言う、鏡の年代と、それを埋納した古墳の編年がばらばらだということです。仿製鏡と舶載鏡に別けることに先ず大きな問題があります。また従来は、三角縁神獣鏡は四世紀以降の古墳から出ることから、伝世鏡とか卑弥呼特鋳論がありましたが、うまく行かないために、古墳の年代そのものを、とくに紀年銘鏡の出土する古墳を中心に早めたということもあると思います。最近は使用期間が鏡によってバラバラだとかいって、古墳と鏡との関係を否定する学者もいます(車崎氏等)。にもかかわらず、三角縁神獣鏡の最初は紀年鏡で製造は三世紀の中頃と言います。その時に卑弥呼が貰ったから、箸墓が三世紀だと言います(この場合は使用期間がないのですかね)。鏡と古墳は関係ないと言いながら、箸墓に結びつけるなど全く合理性を欠きます。

おわりに

紀年銘鏡を三角縁神獣鏡の最初の段階に置くということはそれなりに合理性があると思われますがそれが景初三年頃に置かれることに最大の問題があります。前にも話しましたように、あの下手な図案のような字は、決して中国人の書いた「字」ではなく、日本人が後の世に真似て書いたものです。

魏の時代に作ったのでないとしたら、なぜ魏の時代の年号を入れるのだという質問に対しては、森浩一氏が、和泉黄金塚古墳出土の景初三年銘鏡の年号について、「大和朝廷の支配者が自分たちの先祖を由緒あらしめるために、5世紀頃になって作った鏡ではないか」という藪田嘉一郎氏の見解(「日本上古史研究」第6巻1号)を強く支持していることで回答になると思います。

これに対して二つの反論があります。一つは王仲殊氏の景初四年の問題です。日本へ来た呉の工人が、景初三年の次は正始元年になったことを知らなかった。当然景初四年だと思って作ったが、あとで正始元年になったことを知り、両方の年号のある鏡ができた(同一工人)、という理論です。もう一つは藪田・森説のように、もし権威付けであるならば、なぜ歴史にない景初四年がでてくるかという問題です。

これに対しては当の王仲殊氏が例の山口博氏の景初四年説を批判した論文(『季刊邪馬台国』一一九号、平松訳)をそのまま援用できます。すなわち清の欽定百科事典である『佩文韻府』に「景初四年」が掲載されているという事実です。欽定事典を編纂する学者でさえ、三国志にある記事を正始四年と読まなければならないところを、景初四年と読んでいるのです。学者でもない鏡師や工人が「景初四年があった」と理解することは、なんら不思議はないと思います。

最後に古墳の問題です。従来古墳のはじまりを四世紀としていましたが、歴博の弥生時代のはじまりの遡上説を受けて、邪馬台国近畿説の人はこれ幸いとばかり、いわば一律に古墳時代を七五年ほど溯らせようとする風潮があります。その中で断固抵抗するものはホケノ山古墳です。

二〇〇八年の「橿原考古学研究所研究成果第10冊 ホケノ山古墳の研究」によれば、古木効果のない小枝の炭素年代測定により、ホケノ山古墳が四世紀に含まれる確率は84.3%です(東京古田会ニュース一二六号)。近畿説学者に取って都合が悪いと、この資料は引用せず、二〇〇一年の「ホケノ山調査概況」の資料を引用してAD二〇〇年頃にするのです。ホケノ山が確率論でAD三五〇年頃とすると、箸墓は当然それより遅くなります。あの近辺からクルミなどたくさん資料が出ますが、彼等はつとめて炭素年代測定を避けています。当然俾弥呼の墓説は成立しません。三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った鏡だなどという説も成立しません。時々名前を出させていただいた車崎氏などは、つい最近も紀年銘鏡は卑弥呼が貰った鏡だと話していました。あの下手な字の、意味の分からない銘文の、あえて解釈しても女王にふさわしいような銘文ではない、中にはヒビが入った鏡もあります。こういう鏡を卑弥呼が貰った鏡だなどと言うと、きっと卑弥呼は歎くことでしょう。

ご清聴ありがとうございました。