第七十二回:音楽と私


つい先日、某 ML で「ロックギターは死んだ」という話が盛り上がった。 曰く、 「ギター系のロックは既に懐メロ的存在」 「最近の若者はロックギターなんて興味がない」 「ヴィジュアル的にもギタリストのインパクト、あるいは必要性が減少」 「多くのギター弾きが思いつくカッコ良さは、既に似たようなものが出回っている」 「ギターは死んでいない、ギタリストが死んだのだ」 etc, etc …

そうですか。死んでましたか。 最近、どうも新しい音楽に目が行きにくいなーと思ってたんですが、 それが原因でしたか。自分がパワーダウンしちゃったからじゃない、 それはロックギターが死んだからだったのだ!

最近マジメにギターに取り組んでいないのは、 ロックギターが死んだからなのだ。 このところ買う CD の枚数がめっきり減ったのは、 ロックギターが死んだからなのだ。 さっき、レスポールの二弦が切れたのは、 ロックギターが死んだからなのだ。 来週頭までに整理しなきゃいけない仕事が手付かずなのは、 ロックギターが死んだからなのだ。 ついポテチを食い過ぎちゃうのは、ロックギターが死んだからなのだ。 なんでもかんでも、ロックギターが死んだからなのだ。

ありがとうロックギター。君を忘れないよ。

で、今日は Pulse のリハだったんだけど、ちょっとその話をしたら石田さん曰く 「そういう意味では『バンド』も死んでるんじゃねーの?」と。

そうですか。死んでましたか。 最近どうも自分のドラミングに著しい進化が見られないと思ってたんですが、 ってすいませんもう止めます。

まじめな話、ロックは、そして音楽は、生きてるんですか。

今日 Pulse が集まった理由は、新曲作りでもライブに向けての練習でもない。 ヴォーカル下河内氏の「新しいギター買っちゃったよぉ〜。 デカい音で弾きたいからスタジオ入ろ」である。 そして、ここ最近、Pulse の話題は「旧曲発掘」である。 ライブでは演ったがレコーディングに至らなかった曲に光を、というわけ。 ライブ音源が見つかったら、それを mp3 化したい、とか。 実際埋もれたままではもったいない、という曲もある。

けどなぁ。どうも前を見ていない気がする。 いや、mp3 化、なんて強く言ってるのはおれだし、 バンドというよりはおれ個人の問題が大きいのかもしれんのだが。

旧曲のリアレンジというのは、クリエイティヴな側面を持つ作業ではある。 しかしやはり、新しい物を「生んでいる」感じは薄い。 そして、「生きている」を一番実感するのはまさに、「新しいものを生む」 ことなんじゃないのか。で、それが「音楽は生きてる?」に繋がる、と。 今、新しい音楽は生まれてるんですか? どこで、どんな音楽が?

この間買ったドラマガに触発され、 やっぱりオラシオ・エルナンデスはチェックせねばならんのか? なんて思って久しぶりに Amazon でお買い物。

けれど買ったものは結局オラシオ + 渡辺香津美 + リチャード・ボナのトリオだったり(三人とも既に定評のあるトップ・プレイヤーだ。 実際、おれも CD 持ってるし)、 たまたま見つけたマイク・スターンの新譜、 ドラマーはデニチェンとヴィニー・カリウタってオレ的には大定番だし。 自分の知っている/慣れ親しんだ音楽が、高度な技術とセンスで美しく完成している。 それは「新しい」じゃないよな。

ひょっとしてこれが「新しい」なの? と微かに風を感じるのが Jeff Beck の新譜だったりして、 還暦間近のじじいに「新しい」を知らされるってのもどうよ(sigh)。

新しいものはどこ? なんて質問に答えられるのは、最後は自分しかいない。 だって、何かを聴いて「新しい」「面白い」と感じるフィルターは、 自分自身がコツコツと作ってきた物に他ならないのだから。 で、今自分で見つけられてないってことは、 おれの中では死んじゃったってこと? (そしてこれが一番哀しい疑問だと思うけど) だとしたら、ひょっとして、音楽が死んでしまっても、おれは生きていけるんじゃ?

でもさ。単純に楽しいんだよな。ギターを抱え、 つっかえつっかえ Donna Lee のテーマをたどってみたり、 ブラシを手に、無心にルーディメンツ叩いてみたり。 もちろん、スタジオでアコースティックドラムをガンと鳴らすのは至福の時。 そんな風な、プリミティヴでささやかな楽しみが消えてしまうのは寂しい。 その行為は何も生み出していないけれど、だから死んでいる、 という結論はちょっと絶望的過ぎるんじゃないか。

よくわからない。
どうもここ数年迷ってばかりだ。
そろそろじっくり考えなきゃいけないのかもしれない。

音楽って、何なんですか、と。


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