第五回:ナイロン弦と私


後悔というのはしたくないものだが、これやっちゃったら後悔するだろ うなと思いつつやっちゃって後悔するというのはもっとしたくないと思 う。

やってしまった。

期待している方のために先に申し上げておくと買ってしまったわけでは ない。

面白い楽譜でもあるかなとふらりと渋谷のイシバシ楽器店を覗いてみる。 休日は活気にあふれている。人気(ひとけ)のないウィークディの早い午 後の楽器屋も好きだがこういう雰囲気もまた楽しい。

と、連れが

「ナイロン弦がいっぱいいるよ」

と声をかけてくる。楽器に対して「ある」ではなく「いる」と生き物の ような表現をしているようではこいつもかなり重傷だななどと思いつつ、 呼ぶ方へと行ってみる。

をを、たしかにナイロン弦が・・・三万円。これはまぁきっと敵ではな いと油断したところへ、

「あれはこのあいだ見てたやつだよね?」

の一言。壁を見るとそこにはをを、先日横目で見て、くるものを感じて 逃げたアスリートではないか。

気付くとそばによって見ている自分。

小ぶりなボディがかわいいなぁ。このきれいな木目の指板はなんだろう。 茶色だしローズかなんかだろうなぁ。ああやっぱりエレアコなんだ。う わ、フレットがいっぱい付いてる。ガットギターにしてはネックが細く 見えるなぁ・・・

私は多分、非常に物欲しげな情けない顔をしていたに違いない。ケガを して血の匂いをさせたままホオジロザメの鼻先に飛び込んでしまったよ うなものであろう。

いつのまにか後ろに立っていた店員が低音で

「弾いてみますか。ね。」

逃げるならこの瞬間をおいてないであろう。さぁあの有名な一言を今こ そこの失礼な不意打ちをかました店員に浴びせるのだ! 見てるだけ〜、 と。さぁ。

「そ、そうですねぇ。アスリートってーとベースのイメージがあります けどどうなんですかねぇ。」

な、何を言っているんだ俺は。「見てるだけ」だっ。俺が言う言葉は。 分不相応なギターをもう既に沢山持っているじゃないか。

「これは名古屋の、一応量産工場で作られてはいるものなんですが、ち ょっと手のかけ方が違います。隣に VG っていうギターがかかってるで しょ?」

うむ。あの VG というメーカも見覚えがあるぞ。確か渡辺香津美氏が一 時期使っていたんだった。

「あれと同じ工場なんですけどね。VG はトップだけ単板ですがこいつ は総単板で。」

そう言いながら既にアスリートのチューニングを始める店員。おい俺が いつ弾くと言ったんだ。あ、でも俺が座ってるこの椅子は試奏用の椅子 か。

抱えてみると、うーんしっくり来るなぁ。なんかガットという気がしな い弾き心地。やはりネックだろうか。R こそガットらしく大きいが、幅 広ではないし・・・あ、ポジション・マーク! これか。普通ガットギ ターの指板って真っ黒だもんな。しかしこのマーク、きれいだなぁ。指 板の横とかバインディングとかもいちいちきれいだ。

「フィンガーボードとブリッジ、きれいでしょ、これ、あの、あれです よ、ハカランダ。」

をを、これが噂に聞くハカランダか。

しばし試奏する。これがナイロン弦なのか。うーむ。しかし 22 万だぞ。 そんな金はないぞ。そういえばさっきの VG は 12 万だ。

「やっぱりそっちだと随分違うもんなんですかねぇ。」

なんかどんどんハマっている気もしていたのだが、取り敢えず安いもの を試してみたくてそう言ってみる。幸せは安い方が良いに決まっている。 店員のメガネの奥で目が光る。

「そうですね、弾いてみたらどうでしょう。」

失敗だ。あきらかに音がなんというかシンプルだ。鳴りも小さい。確か に違う。認めざるを得ない。いかん、ここで動揺している場合ではない。 いや同じ製作所でも違うものですねぇははは、どうもどうも、また来ま すよ、こうさわやかに言い放ち、椅子から立ち上がるのだ!

「オベーションってのはどうなんでしょうねぇ。」

いかん。立ち上がろうとしたらかえってずぶずぶと足が深みへはまって しまった。某 メーリング・リストのN氏の言葉「普段オベーション・ クラシックを弾いている私にとって、ほとんどの国内製作家のギターは 魅力がなく、耳を惹くのは 50 万以上のギター」という言葉が思い浮か んでしまったのだからしょうがない。私が悪いのではない。

店員はなんでも弾かせてみようという戦略らしい。吉野家もびっくりの スピード対応でオベーションが出てくる。

うーん、音量はさらに小さくなるが、また全然違う透明感のある音だ。 鳴りを楽しむにはちょっと不足な気もするが音色はこれはこれできれい だ。ネックは幅広タイプで、エレキ小僧の私にはちょっと慣れを要する かなという気もする。

店員がにやりとして言う。

「で、こういうのを弾いてみるとまた楽しい。」

彼の幸せは私の不幸である。間違いなく。彼が出してきたのはラミレス というスペインのメーカのガットギターであった。30 万。いやもう勘 弁してくださいよと言いつつ手を出している俺はなんなのだ。

一音出して後悔。なんだろうかこの複雑な響きは。音も大きい。値段で おおよそ変わるのは倍音の複雑な響きなのではないか。VG がなんとな く平坦な響きに感じたのもその辺か。

しかしこのラミレス、多分これがふつうのガットギターのネックなのだ ろうが、私には弾きにくい。カッタウェイがあってハイポジションも弾 きやすくななっているのだが、幅が広くてカマボコをつぶしたようなネ ック。オベーションも幅広だったが、もう少し V 字シェイプだったな ぁ。当たり前だけどポジションマークはないし・・・

ふと目を上げるとローデンのガットというのがやはり 30 万ぐらいの値 段で置いてあったりもしたのだがお腹いっぱいという感じで勘弁しても らい、その後店員と木材談義になってしまい楽しい時間をすごし、ラミ レスのもうちょっと安いのがもうすぐ入荷しますよなどという余計な情 報を吹き込まれつつ店を後にしたのだが、なぜか頭の中からアスリート の感触と姿が消えないので何とかして欲しいと思う、ボーナス間近の今 日である。

ああ後悔・・・

と同時に、いろんな音のギターを弾き比べるのは楽しいなぁなどと思っ ているのだから救いようがない。

P.S. 連れは私が試奏を始める前にその店員が弾いていたローデンの鉄 弦を非常に気に入っていたのだが知ったことではないのだがとて も素直で良い響きだったと私も思ったがそんなことはどうでもよ くてでも前に弾いたマーチンより全然良いと思ったうーむなんだ か日本語が変だがなぜだろうか別に動揺しているわけではないと おもうのだがこれいかに。

(続・・・かないで欲しいような)


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