第三十七回:ファッションと私


ミュージシャンたるもの、人前で演奏する機会もあろう。 というわけで、ミュージシャンはお洒落である。

かと思うと全然気にしない人もいる。

この 2 タイプ、かなり差は激しい。アマチュアが数バンド出演するという タイプの企画を見に行く機会があったらぜひその辺も確かめてほしい。 かっこいいというより勘違い、それで街を歩くのは強い信念が必要でしょうねぇ という、気合の空回りしているヒトもいれば、 それって普段着つーか作業着? とか、スタッフの方ですか? とか、 健康ランドのおやぢ? とか非常にリラックスした方、 また一方ではカウボーイ・ハットに皮のブーツ、ジーンズにボロボロのストラト、と スティーヴィー・レイ・ヴォーン張りの格好なのにバンドがやってるのは キュートなキャンディ・ポップであるとか、運が良ければぴちぴちのタイツで 今日の私は右曲がり、なんてのを見られるかもしれない。 いやもちろんカッコ良いヒトもいますよ。

確か有名なプロでも、パジャマでステージに上がるという方がいたような気がする。 まぁそれはキャラクターの一環として、ということなのであろうが。

人前で演奏する機会の多そうなミュージシャンでも、あまりファッションに 気を使っていなそうな例は、ジェフ・ベックを挙げるまでもなく多いし、 逆にすごくキマったスタジオ・ミュージシャンもいる。 人に見られるかどうかというのはあまり関係がないのかもしれぬ。うーむ。

私はというと、非常に残念なことに、「気にしない」側の人間である。

気にしない側の人間は変な欲目を出さずに、シンプルに地味に生きていれば 良いのだ。無理をすると足がつる。しかし高校生の頃はこの真理がわからず、 また自分が「そっち側」の人間だということさえもわかっていなかった。 普段平気で「緑のジーンズに真っ赤な T シャツ」という、 歩くクリスマスツリーみたいな格好をしていたにも関わらず、である。 いや待てそれは「気にしない」というより「わからない」ではないのか。

まぁとにかくお洒落を履き違えた人間は暴走する。 長髪だった昔の私は、黒のヘビー・メタル T シャツに黒の超スリムジーンズ、 そして金のネックレスと金のブレスレットまで付けて 人前に立ったことがあるのであるっ。 ネックレスにはご丁寧に八分音符の形をしたペンダントまで付いていた。

私を知るそこの人、悶絶しないように。という私が書きながら悶絶死しそうである。

そういう暴走は最近多少現象傾向にはあるがなくなったとは言えない。 今でも結構平気でクリスマスツリーになれる気もする。って冷静に 書いている場合ではない。反省するのだ。俺よ。なぜそうなのだ。

自分を客観的に見ることが出来ない、ということが原因なのかもしれぬ。 つい先日も、自分を見ないことが原因で、衣服に関して痛烈な打撃を こうむったのであった。

その日。ラテン系なセッションが渋谷であり、私はオレンジ色の T シャツに 太いジーンズを着用し、サンダルを引っ掛けて出かけたのであった。

セッションの場では「あーきみ、シェイカーというのはカ と振ってはならぬ。カザというように、一番目と四番目の音を 大事に」などとえっらそーに、ナニサマぢゃとゆー感じの講釈まで垂れておったので ある。私ときたら。

その帰り道、事実は突如明らかになるのである。

私の着ていた T シャツは、胸のところに「HP = UNIX」という文字があり、 背中には「HP = SCALABLE」という文字があるという、ちょっと恥ずかしい 業界 T シャツであったのだが、なぜかその日に限って、 胸のところに「HP = SCALABLE」と書いてある。

どういうことだ?

って悩むまでもない、後ろ前だったのである。30 過ぎのおやぢがサンダル履いて オレンジの T シャツを後ろ前に着ているのである。 タグが鎖骨の間に鎮座しているのである。 後ろ前のクセに電車に乗り、後ろ前のクセに渋谷の街を闊歩し、 後ろ前のクセにボサノバなど演奏し、後ろ前のクセにリズムに関して エラそうなハナシをこいていたのである。後ろ前のクセに。

嗚呼。馬鹿馬鹿。

事実が発覚したのは帰宅途中、某私鉄車内である。 発覚した途端に周りの目が気になってくる。 すぐ後ろにいる読書中のお嬢さん、実は本を読むふりをしながらこちらを 覗っているのではないか。「あのひと、後ろ前だわ」ああああ。目の前で座って 新聞を読んでいるおじいさんも怪しい。「まだ若いのに。後ろ前とは。 ふぉっふぉっふぉ」あああああ。そのうち車内放送が流れるのだろう。 「車内での携帯電話、衣服の後ろ前着用は他のお客様のご迷惑となりますので ご遠慮下さい」あああああああ。車掌が回ってきて注意されるかもしれぬ。 正義感の強い女性にむんずと腕をつかまれ「このひとっ、後ろ前ですっ!」と 叫ばれてしまうかもしれぬ。

一刻の猶予もないというのが当然の判断であろう。私はその場で作戦を練った。 幸い車内は「立っている客がチラホラ居る」程度の混み具合。 ううむ…まず T シャツから右手を、続いて左手を抜き、頭は抜かず、 って当たり前だ、頭を抜くということはT シャツを脱ぐということだ、 上半身裸になったら後ろ前どころの騒ぎではないではないか、 それはさて置き、ぐるりと 180 度 T シャツを回転させ、 右手左手を戻し、何事もなかったかのようなポーズを取ればいいのだ。 予測作業時間 2 秒。

作業エリアを確保した後作戦開始。まず右手、そして左手。良い調子だ。 ここで回転…汗で布がひっかかる…ひっかかる…きゅ、90 度当りで止まった… わっ、さっきのお嬢さんと目があってしまったっ。いえ私は決してその変態とか そういう類では、って言い訳してる間にシャツをひっくり返さねば、よし強引に 腕を入れてしまえ、あっ入った、って T シャツめっちゃネジれてるやん! ななな直さねば、よしおっけー!

吊革を掴み、夜景を見つめる渋い横顔。成功だ。いやその前に座ったおじいさん。 こっち見なくていいから。ね。

心に平安は訪れた。いつでも車内放送してくれたまえ。私はその放送に 「そうそう。困るんだよね。後ろ前」と静かにうなずこうではないか。

しかし、多分一番かわいそうだったのは、 隣で必死に他人のふりをしなければならなかった嫁だと思うのだが。

考えてみればこの人、長髪だったことも、 雪の日だろうが風の日だろうが365日サスペンダーをしていた頃も、 「COZY POWELL」「SCORPIONS」などという恥ずかしいワッペンをジージャンに 縫い付けていたことも、ピアノの鍵盤模様のネクタイも知っている訳で、 なんとか口止めせねばならぬ。

あ、皿ですか。私洗います。


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