第三十二回:何もない土曜日と私


土曜日だけれど、バンドの練習もないし、人と会う約束もないし、済まさなければ いけない事務仕事もないし、調達しなければいけないものもなく、嫁は旅行中。 そんなぽっかりと穴の空いたような日もたまにはあるもので、 のんびりと掃除して布団を干して庭に水を撒いたりした後、 コーヒーを一人分、ちょっと濃い目に入れて、ぼーっと雑誌など読んでいたりする。

寺島靖国さんというジャズ/オーディオ評論家がいる。ジャズを聞き始めた頃、 彼ともう一人、後藤雅洋さんという方の本を参考にしてレコードを買っていたのだが、 自分とフィーリングの合うのはどちらかというと後藤さんだった。本当に後藤さんの 著書「ジャズ・オブ・パラダイス」にはお世話になったという話は長くなりそうなので ちょっと置いておいて、例えば私は寺島さんが嫌い、後藤さんの絶賛する チャーリー・パーカーが好きだったりする。 だから、寺島さんに対してはちょっと懐疑的な立場なんだけれど、なぜか 文章はつい読んでしまうのだ。それから彼のオーディオに対する積極的な姿勢は とても共感できる。いや、あんなに高級な機器やケーブルを試せるわけでは ないのだけれど。

読んでいた某誌にあった寺島さんの記事で「最近テストによく使うハリー・アレンの マイ・フーリッシュ・ハートでは各楽器がスピーカの間にぽっかりと浮かぶ云々」 という話が載っていてほほぅと思ったりする。今ここでこうして文章を綴っていると、 そんなことでほほぅなんつって CD 買うなよと、我ながらとほほな気分であるのだが。

早速サンダルをつっかけてぺたぺたと街の CD 屋へ出てみる。 えーと、ハリー・アレン…を、いたいた。曲はなんだっけ…フーリッシュ… あっ、あった。ジーズ・フーリッシュ・シングス! え、ドラム入ってないの、これ? まぁいいか。アルバムタイトルは「Harry Allen Meets John Pizzarelli Trio」。

他に獲物はないかいなと試聴コーナーを覗いてみると、 をを、ジム・ホールとパット・メセニーのデュオ。聴いてみようではないか。 ヘッドフォンをかけて、と。えーと CD の番号は…と。 むむぅ、ギターのデュオじゃないのか、いきなりボーカルナンバーピアノ弾き語り。 曲はビリー・ジョエルのニューヨーク・ステイト・オヴ・マインド。 ハスキーで熱い、カッコイイ声。ジャジーでソウルフルな歌いまわし。 すげえ。ジム・ホールって歌上手いのね? いやメセニー? ってそんなばかな。 番号間違えてるフーリッシュなワタシ。これは隣の CD じゃないか。

…でもこれなかなか良いな。えっ、日本人なんだ。名前知らないけど買ってみよう。

その後上述のホール & メセニーデュオや(←結局買っている)、 オマー・ハキムが叩いている CHIC の武道館でのライブなども買い込み、 道中ツバメの巣など探しながらぺたぺたと家に帰る私であった。 良い季節だ。少し暑いぐらいの陽気。散歩が楽しい。

さて、ハリー・アレン。CD をかけて腰を下ろし、のほほんと日本茶を飲みながら 雑誌の当該記事にもう一度目を通す私。 「最近テストによく使うハリー・アレンのマイ・フーリッシュ・ハートでは…」

「マイ・フーリッシュ・ハート」?

これに入ってるのは? 「ジーズ・フーリッシュ・シングス」

違うのだ。フーリッシュ違いなのだ。フーリッシュな私なのだ。 同じフーリッシュでも別の曲であるという厳然たる事実の前にお茶を吹き出して 卒倒する私であった。こういうのをやり場のない怒りというのか。 なんたることだ。もう開けちゃったから返せないじゃないか。 中古 CD 屋なんて本当に二束三文でしか引き取ってもらえないし。 ドラマーの俺に取ってはドラムレスのジャズアルバムなんて寂しい限りじゃないかっ。 くそう誰かに売りつけて…

…ん?

ギターのカッティングが良いビートを出してるなぁ。あたかもドラマーが ブラシでサポートしてるみたいな。

ブラシかぁ。俺、下手なんだよな。ブラシ。

この CD をカラオケみたいにして、ブラシを合わせると楽しいかな?

早速スネアとブラシを引っ張り出してカラオケに挑戦。なんともこれが白熱する。 気がつくとアルバム一枚終わっていた。なんだ、面白いじゃないか。 しかしもっとクールにブラシをキメてみたいものだ。 このしなる感覚が難しいんだよな。ぴゅんぴゅん。左手は楕円を描いて。 アクセントをつけるポイントでスピードアップして。少し押し付け気味にするとまた サウンドが変化する。 そうだ、ブラシ奏法を説明しているビデオが何本かあったはずだ…

ふと気付けば、すっかり夕方。

お茶を入れる。お茶を飲んでばかりなのはもちろん腎臓結石が恐いからである。 あ、ここ笑うところじゃないんですけどねお客さん。 私は、自分の身体が乾いていることを感知する能力が鈍いらしく、 あまり喉が渇かないのだという話はさておき、 上述の女性ボーカル CD をプレイヤーにセットする。

お名前は綾戸智絵さん。"life" というこの新譜が 3 枚目のアルバムらしい。 お恥ずかしいことに全然知らなかったのだが、ライナーノーツによると、 最近 NHK 等で取り上げられたり、口コミで評判が広がったりしているらしい。 なんでもガンを克服した方で、抗ガン剤の影響でああいう声質になったらしい。 また、アルバムの中で一曲だけ、タップダンスの音が効果的に使われている曲があって そのタップを披露しているのが先ごろ亡くなったばかりの日野元彦さんである。 こういう話に私はかなり弱い。これを知っていたら出会い方はまた違ったものに なっていたかもしれない。あるいは逆に敬遠して買わなかったかもしれない。

間違えたから出会えた、という縁もある。 ジャケットの写真。細い身体。どこからこのパワフルな声が出てるんだろう。 ブラシで疲れた手と頭と耳をぼんやりと休めながら、この声に耳を傾けていると 間違えるのも悪くないと思ってしまう…

いいや、思わない。何を隠そう、いや隠してないけど、 私はレモンティーは好きだがミルクティーが飲めない。 私は紅茶を入れたのだ。どこでどう勘違いしたのか、とにかくコーヒーだと 思い込んでしまい、ミルクと砂糖を入れ、口にした途端激怒していたのだ。 でええいこの馬鹿者ミルク野郎めっ。そこへ座れっ。って入れたのは私なのであるが。 はい座ってます。

何もない土曜ではあるけれど、間違いだけは続発する。 大抵、間違いは意図しない結果を生む。 意図しない結果が楽しいことも、けっこう、ある。

けれど、ミルクティーはまずい。残念ながら。


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