第十六回:ジャズ喫茶と私


横浜の関内と桜木町の間辺りに「ちぐさ」という喫茶店がある。小さな路地にある小さな店で、十人も座れば満員だ。多分あの馬鹿でかいスピーカをどかせばあと数人は座れるのだろうけどそういうわけにもいかない。なんといってもここは「ジャズ喫茶」であるから。

別に私は常連というわけではない。どころか二度しか行った事がない。が、なんとなく記憶に残っている場所で、先日横浜に行った際にふと立ち寄りたくなった。

幸い、店は開いていた。昔会社サボって行った時には閉まってたんだよな。

店の扉を開けると見覚えのあるおばさんが座っていて、聞き覚えのある曲が流れている。えーとなんだっけ、古い感じの音だな、しかしこのトランペットすげーアドリブだな早い早い、うーん。

入ってすぐのところにレコード(もちろん!)プレイヤーが置いてあって、そばには今演奏中のアルバムジャケットが立てかけてあるのだが、悔しいので見ずに思い出そうとする。空いてる席は…と…右スピーカの真ん前しかないな。

このアルバム、確かに持ってるはずだ。曲は「チェロキー」だな。えーとえーと。

懸命に 50 年代ぐらいのジャズを中心に記憶を辿る。クリフォード・ブラウンじゃないし…

あ。

これウィントンじゃん。「Standard Time, vol.1 / Wynton Marsaris」。1986 年のアルバム…ってどこが 50 年代やねーん! 苦笑。これがこの店の音だ。何をかけても古き良き時代のジャズの音になる。壁にかかっているのもそんな時代のアルバムのジャケットがメインだ。

運ばれたちょっと苦めのコーヒーを飲みながら、続いてかかるアート・ペッパーを聞きながら、かみさんがさっき買った「庭に鳥を呼ぶ本」を二人で読んでいたりする。ヒヨドリを避けつつメジロを呼ぶには…外は雨。いやこういう日も良いものだ…とぼけっとしつつ、最近オーディオな私は耳がオーディオだ。

こんなドでかいスピーカをこんなに近づけて置いちゃってステレオ感もナニもあったもんじゃないなぁ。でかい割りにベースの量感も控えめな感じだし。高域も上まで伸びてるって音じゃないよな…

とかいろいろシツレイなことを考えていたら店のお兄さんにファイルを手渡される。店にあるアルバムのリストだ。自分が持っているアルバムがここではどう鳴るんだろうと思い、一番お気に入りのジャズドラマー Tony Williams の Civilization をお願いする。1986 年のアルバム。

待つ事 20 分ほど。しかし時間がゆっくり流れる空間であるな。かかり始める。やっぱり笑っちゃうほど 50 年代チックな音。

しかしこの中域の豊かさ。管楽器が前にせり出して来る。スネアのアクセントの風圧に頬を張られる。シンバルは「木で叩いてます」という音がする。

壁のスタン・ゲッツやバド・パウエルのジャケットを見ながら、時間がゆっくりどころか止まっちゃってるのかなぁと思ったりもする。八方美人的に音楽を聴く私は自分のオーディオを「 50 〜 60 年代のオーソドックスなジャズ・コンボの音しか出ない」ものにしたいとは思わないんだけれど、時々遊びに来て聞くのは心地良い。この日家に帰って聴いてみた Civilization はぐっと現代的だったけれど、小さなスピーカから出てくるスネアに頬を張られることはなかった。

そういえば以前来た時に Two for the road (Steve Khan と Larry Coryell のアコースティック・ギター・デュオ・アルバム。Spain を聴きたかった) をリクエストしてかけてもらった時、店に妙な空気が流れたような気がしたなぁ。まぁファイルにあったんだし。俺のせいじゃないよな。とか昔のことを蒸し返して言い訳したりする自分であった。

壁には、アルバムジャケットに並んで日野皓正や渡辺貞夫といった、日本ジャズシーンのメジャー達の写真が飾られている。ずらりとミュージシャン達が揃っている写真、良く見れば「ちぐさ」の店内だ。そしてその写真達の中にいる一人のおじさん。これがジャズ喫茶「ちぐさ」の元マスター。数年前に亡くなってしまった。今は妹さんが店を継いでいるらしい。そう、前述の「見覚えのあるおばさん」だ。

毎年十月(だったかな?)に街を上げてジャズ祭りをやったりして、横浜というのは比較的ジャズが盛んな街なのだけれど、その黎明期、このちぐさは熱かったのだということが、写真から微かに伝わってくる。そしてその頃のまま、ひっそり時間が止まっているのだ。

Tony の A 面が終わり、別のお客さんのリクエストがかかり始めたところで店を出た。雨は強くなっていた。でもまぁこういうのもいいやと思える時もあるものです。いいけどお前自分の傘させよな濡れるっちゅうねん。

古いジャズが聴きたくなったら、また行こう。

* * *

あ、こんなページ… http://www.bluenote.co.jp/city/chigu.html
ね、スピーカ、くっついてるでしょ。


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