皇帝円舞曲 ...サンプル

「この差し迫った時期に、また難題を……」
「アテにしている」
 チラ、と寄越された視線に媚びに近い色が含まれていたと思うのは妄想だろうか。ウチの員数はもういっぱいいっぱいすよとか、この後に及んで仕事増やされるんですかとか、続けかけた言葉をハボックは飲み込んだ。
 まったくオレは馬鹿みたいに単純で御しやすい男だ。この食えない男がオレを重宝するのも当然だ。
「頼んだぞ」
 言うだけ言うと、今度こそ彼は執務室へ続くドアへと去った。
 それからハボックは煙草をくわえて火を付け、きっちり一本が灰になるまで書類仕事を片付けた。吸い口近くまで灰になった煙草を灰皿で揉み消し、デスク上のバインダーをひとつ取って、いかにも「そうそう、忘れていたけれどもこれを上官に確認を取っておかなきゃ」という顔で席を立つ。
 ノックは短く二回、ひと呼吸を置いて最後に一回。
 決め交わしたわけではない。いつの間にか、なんとなくこれがハボック個人の合図になった。
「───入れ」
 短く許可をもらって、ハボックは東方司令部副司令官の執務室に滑り込んだ。
「用件は?」
 分かっていてそんな第一声で迎える彼が小憎らしい。おまけに窓辺に立って外を眺めたまま振り向きもしない。ハボックは少しヤケクソ気味に「お駄賃をもらいに来ました」と言い捨てた。
「駄賃?」
「過重労働手当てって言い換えてもいいですが」
「大した公私混同だ」
 まだ振り向かない。公私混同はどっちだ。あんな目付きで流し目をしやがって。
 ハボックは苛立ち紛れ、大股で部屋を横切り、黒髪の上官を背後からいきなり抱きすくめた。
「な、…! おいッ」
 やっと慌てた。体格差に任せて後ろから覆い被さるようにして黒髪に鼻先を埋ずめる。その匂いを肺いっぱいに吸い込んでから、ようやくハボックは回した腕から力を抜いた。
「……馬鹿犬!」
「じゃあ気軽にあんなからかい方しないで下さい。公私混同で遊んでんのはアンタでしょ」
 ふん、と鼻を鳴らすだけでそれに対しての反論はせず、上官はハボックから体をもぎ離した。
「せめてカーテンの陰にしろ。ここじゃ東棟から丸見えだ」

- ◆◇◆-



 時計塔の鐘の音が人のざわめきの間を縫って響いてくる。予定通りならあと一○分以内には角を曲がって最初の騎馬隊が姿を見せる。それに続いて軍楽隊、小銃を掲げた歩兵中隊、砲撃車両、そうして中央司令部・大総統直属近衛隊の順。上官とウラヌスは先頭騎馬隊ではなく、この直属近衛隊の編成になっている。大総統の白馬、今日は騎乗者はなく手綱を引かれての参列だが、兄弟馬のロードウインドと並ぶために。
「来ました!」
 楽隊の音楽も聞こえてきた。人々の歓声も釣られて高まる。色とりどりの紙吹雪が空に一斉に舞い上がる。ちくしょう、この一帯は禁止令を出したのに。人波に押されて小さな少女が転んだ。母親はどこだ、何をやってる。ああ大丈夫だ、駆け寄ったあの若い女が母親だろう、…──。
「フリッチャー!!」
「ハイ!」
「あの男、向かいの花屋の前に立つ男だ、確保!」
「え、あ、どの、」
「茶色のひさし帽の、クソッ 動いた! 無線貸せッ」
 差し出された無線送話器をひったくる。
「こちらジャン・ハボック少尉! リマ隊に注意! 二十代から三十代の男、身長一七○前後、茶色チェックのひさし帽、上着緑、発見次第確保!」
 そのままハボックは人波をかき分け、張り巡らされたロープをくぐり、騎馬隊が来る直前の大通りに飛び出した。


 動物的直感だった。まだ居る。この人混みのどこかに爆弾を抱えたテロリストが潜んでいる。直属近衛隊が目の前を通り過ぎて行く。音楽が耳鳴りのように頭の中を回り続ける。紙吹雪が舞う。ウラヌスだ。堂々とした体躯、金と赤の飾り紐で縁取られた美しい腹帯、鞍上の大佐。
「───ハボック!」
 その一声だけでハボックはまた駆け出していた。