エンドレス・ワルツ ...サンプル

 薄い靄が早朝の丘陵全体をけぶるように覆っていた。空もまた淡い灰色と朝陽の薄紅色にけぶり、雲の狭間から細い光の帯をあちらこちらに落としていた。
 どこかの農場から鶏のつくる時の声が聞こえた。ヤギや羊の鳴き声も。放牧のために家畜を追いやる時間にはまだ早いはずで、ハボックが思っていたより他の農場はずっと近い場所にあるのかもしれなかった。それとも知らずに、靄の中を随分と遠くまで来てしまったのか。
「───大佐!」
 ハボックは手綱を引き絞り、馬上から大声で叫んだ。呼ばれた本人の替わりに答えたのは馬のいななきだった。ハボックはもう一度叫んだ。
「大佐っ! そろそろコースに引き返しましょう!」
 ハボックの馬が脚を止めたのに気付き、前を行く黒馬は首を振り立てながら主と共に振り返った。
「何だ。お前、随分と根性がないな。これぐらいで音を上げたか?」
 確かに息が上がりかけているハボックと違って、近付いて来た彼の息は一筋ほども乱れてはいなかった。情けないと思うより、これは技術的な問題が大きいので仕方がない。
「違いますよ、根性の話じゃなくてですね! ちょっとコースを外れ過ぎじゃないですか? この靄でオレには距離感が掴めなくなってんですが」
 ああ、と周囲を見渡すようにして彼は呟いた。
「靄…こうなるともう霧だな」
 乗馬帽もかぶらないでいるロイの前髪は湿り気を帯びていた。動きに釣られ、艶を帯びた黒髪は頼りなげな朝陽の光を小さな宝石のように弾き返した。
 もちろん、それは手入れの行き届いた黒毛の馬にも言える事だった。遠乗りに出るには軽装過ぎるようにも見える主人と馬は、朝靄のかかった丘の草地に、映画のフィルムめいた静かな陰影を刻んでいた。
「雨はまだ降りそうにないな」
 瞼に落ちた雫をぬぐい、鞍上の彼は嬉しそうに笑った。

- ◆◇◆-


 雨は本格的に降り始めていた。輸送の便は夕方遅くのものしか手配出来なかったが、脚慣らしには朝早くから出かけて正解だった。馬も今休めたほうが楽だろう。あまりに酷な日程だとロイは来る時の汽車の中でも延々と言いつのっていたが、ロイ自身にと言うより確かにウラヌスに対する心配もあったのには違いない。
 とりあえず軒先きで煙草を出して一服。吸い終わったそれを簡易吸い殻入れに投げ込みむと、ハボックは雨の中を小走りに内庭を突っ切り、厩舎の一角へ駆け込んだ。
 屋根の下に入って、まず濡れた頭を大きく振る。これをやる度に黒髪の上官には笑われる。濡れそぼった犬が躯を震わせて水を払うのにそっくりだと。
 厩舎の中は外の雨音に比べれば静かだった。時折、馬房の仕切り板を蹄が蹴り叩く音。それから小さないななき、大型の動物の息使い。そんなものらで暖かく満たされていた。


「お前、十五の頃の大佐を知ってるんだな。どんな子供だったのかな。その頃から今と同じで強情そうな目はしてただろうな」
 さて、と馬は短くまるで笑うようにいなないた。
「とんでもなく強情で、気紛れで、強くて、…本当は優しくて、……時々凄く寂しがりやなんだ…──」
「馬鹿者、誰がだ」
 昨夜と同じく、ハボックは飛び上がりながら声のした方を振り向いた。濡れた前髪を片手でかき上げ、細長い厩舎の逆の入り口に彼が立っていた。
「だから! あんた、声ぐらいかけて下さいよ!」
「今かけた」
 まっすぐに彼はこちらに歩いて来た。それからまだ心臓の動悸が治まっていないハボックを見上げて、「こちらの入り口のほうがウラヌスの馬房には近いんだ」と言った。それはどうやら驚かせた言い訳のつもりらしかった。
「や、まあ……そんなのはどうでもいいんですけどね…」
 ふうん、と呟いて彼は黒馬に手を伸ばした。馬は耳を前後ろに動かし、鼻面を低く下げて、主の愛撫を柔らかく受け取った。