優雅で感傷的なワルツ ...サンプル

 彼が馬を一頭、所有しているのは知っていた。
 佐官ならばこれは珍しい事ではない。ガソリン自動車が幅をきかせる昨今とはいえ、士官学校には馬術のカリキュラムが組まれているし、最前線においても「馬」とはやはり馬鹿に出来ない機動力だからだ。見栄えだっていい。閲兵式などでは軍用車に先立ち、近衛の騎馬隊列がきらびやかに進むのが当然の光景だった。

 ハボックは一度だけ閲兵式におけるロイ・マスタングの騎乗姿を見た事がある。
 まだ彼個人と直接会話を交わしていない頃だった。東部内乱終結を国中に大々的に喧伝する大閲兵式。市街地パレードの華やかさは圧巻だった。式典には内乱功績者への叙勲授与式も含まれていて、その授勲集団の筆頭に彼の姿があったのだ。
 体躯のいい見事な黒馬に彼は騎乗していた。飛び抜けて歳が若いわけではなかったが(確かあの時の授勲者の中には彼より若い者も幾人かは居たはずだ)、彼のまるで少女向け小説にヒーローとして登場しそうな清々しい容貌、まさに『麗しの青年将校』といった風情は、集団の中でそれなりに目立っていた。そして何より彼自身が『内乱の英雄』『焔の錬金術師』だという事実は、タブロイド紙や一般紙によって軍内部のみならず一般市民にまで浸透していた。
 ───へえ、写真より随分と見た目が若ぇな。
 ───なるほど、ありゃあ上部が写真をじゃんじゃん出させるはずだよ。
 ───女子供に異常に受けのよさそうなツラだもんな。
 そんな言葉を同行の者と小声で交わしあった。実際、彼は実年齢よりは下に見えた。下手すれば士官学校を出たての新兵にも見えたろう。
 ひょっとしたら一瞬だけハボックと目が合った。それは居並ぶ小隊同期たちの中で、たまたまハボックの背が頭がひとつ分飛び抜けていたから程度の話かもしれない。
 ハボックたちはその時、軍人たちに割り当てられた公道の一角から整列してパレードを見送っていた。贈られた最上敬礼に、馬上の彼らは速度をやや弛めて答礼で応じてみせた。ほとんどの者は笑顔を見せた。一般市民に向けるのとは違う、内輪だけで通じる親愛や歓喜や何かの誇示、そういった和やかな雰囲気さえその区画には漂った。
 だが黒馬に跨がるあの青年将校は表情ひとつ変えなかった。「スカしてやがったな」と後にくさしたのは同期の誰だったか。
 目深に被った軍帽の下で、彼の睫毛の落とす陰は深く濃かった。他の者に合わせるように答礼を返し、片手で手綱を操り、スッと正面に顔を向けなおす一瞬手前でハボックと視線が合った。
 強い眼差しだった。なのにハボックは「気の毒に」ととっさ思った。
 気の毒に。あの人、ひどく疲れてるんだろう。こんな見せ物じみた場所に引っ張り出されてお愛想を振りまくには、あの人は疲れ過ぎているんだろう。
 内乱の大隊全ての引き上げが完了してから二ヶ月も経っていなかった。新聞の紙面の何割かはまだその話題で賑わっていた。そしてそのまた何割かに彼の写真は多く掲載されていた。ミス・ニューオプティンだのミス・イーストシティだのに花束を渡されている写真まで載っている始末だった。
 もちろん、あの時に交わした視線を彼が覚えているとはハボックは考えなかった。名もない兵士が不遜にも彼に向けた感傷など、あのクソ忙しい英雄が記憶に留めているとは思えなかった。

 その数週間後、突然の転属命令を受け取った時にだけ、あの睫毛の陰影の濃さを想って胸の疼きを持て余した。



 好きだと言った。キスは過去に二度した。
 一度目のキスが先で告白が後回しだったのは痛恨のミスだが、ロイ・マスタングは意外な事に腹を立てたりはしなかった。どうしてですか、とハボックは間抜けにも翌日になってから尋ねた。どうして大佐は驚いたり怒ったりしないですか。オレ、殴られるの覚悟でしたよ。なんであんたは怒らないんですか。
 酔っていたからかな、と彼は答えた。それから今年のワインが旨かったせいかな、とも付け加えた。確かに前夜の彼は酔っていた。もちろんハボックも酔っていた。
 けれどもそれは翌朝の明るい陽射しの中では、まったく言い訳にならない、とハボックは思った。そしてその時のハボックが大股の僅か二歩で近付いて、彼の首の後ろに指を回したのに、彼が何の抵抗もしなかった説明にもならなかった。