オイフォリオン ...サンプル

 ジャン・ハボック少尉がいつものようにくわえ煙草で、上官の執務室の扉を軽く肩で押し開けようとした時のことだった。
「貴方は何も分かっていらっしゃらない!」
「それは君が口を出す領分ではない!」
 言い争いの声が聞こえた。一方の女性の声はリザ・ホークアイ中尉。もう一方の声は直属の上官のものだった。
 間の悪いことに、両開きの扉は半インチほど隙間が開いていた。だからこそノブに手をかけずに、肩で押すなどという横着をしようとしたのだ。
 しかしその事実によって、この部屋に後から入って来たのがホークアイ中尉ではなく、部屋の主のロイ・マスタング大佐なのだとハボックは知った。ホークアイ中尉が副司令官室のドアを閉め忘れるなんてあり得ない。彼女はそういった半端な真似が、常に何より嫌いなのだ。
 ハボックは無意識に息を殺した。室内では二人の会話が続いていた。二人ともかなり歯切れのいい口調の持ち主ではあったが、その後のやり取りはうまく聞き取れなかった。「ですから!、───でしょう」だの「違う、君は君自身の」だの、調子が跳ね上がる語尾、相手を遮る言い出し程度が、部分部分だけ漏れ聞こえた。
 少なくとも痴話喧嘩とは無縁らしいな、とハボックは思ってから、オレは一体何をやってんだと馬鹿ばかしくなった。まるでコソ泥みたいに、こんな扉の隙間に張り付いて。
 煙草の灰は無惨に足許の床に零れ落ちている。吸う息すら殺していたので、灰は崩れずに綺麗な塊のまま真下にあった。
 残った煙草を口先にくわえ直して一服し、ハボックは出直すために扉から頭を離しかけた。と、その瞬間に聞き慣れない響きが耳を打った。
「リズ」
 あわや、ハボックは火種つきの煙草を落とすところだった。
 上官の声音は聞いたことがないほど哀切に響いた。
「もう一度頼んでも駄目か」
「やめて下さい。私は決めたんです」
「だったら私も同じことだ」
 沈黙。当たり前だが、二人がどんな表情をしているかハボックには判らない。
「──よろしい、中尉。互いに互いの意見を尊重しようじゃないか。これでこの話題はお開きだよ」
「相変わらず……」
「なんだね?」
 中尉の声には諦めとも嘲笑ともつかないものが加わった。
「人を言いくるめるのがお上手だと思って」
 会話が聞き取りやすくなったのは、二人がこの扉の方へ移動しかけているからだと気付いた。咄嗟にハボックは足許の灰をつま先で蹴散らし、勢いよく自分から扉を開けた。
「ハボック少尉、入ります! おっと! 先客ですか」
 きゃ、と珍しく女っぽい小声を真正面の中尉が漏らした。室内には奇妙な間が一瞬だけ立ち篭めた。だが誰よりも素早く立ち戻ったのも彼女で、取り繕うように前髪をかき上げながら、「ノックをなさい、少尉」といつもの冷静な声で言った。
「すみません」
「こちらの用件はちょうど済んだわ。それは?」
 中尉に眼で示された書類を顔の前で振って、ハボックはにこやかに笑ってみせた。
「来月の警護隊の編制表です。大佐に判をついてもらえれば終わりっすよ」
 貸せ、と黒髪の上官が手を伸ばした。リザ・ホークアイ中尉は「では、失礼します」と、パンフレットに載りそうな美しい敬礼をして扉から出て行った。
「中尉って、……」
 振り返り、扉がきっちり閉まるのを見送って、思わずハボックは呟いた。
「ん? ───お前、そこの来賓用のを使っていいからその煙草を消せ! みじめったらしくてたまらん!」
 喫煙を咎められたのではなく、長さを咎められたのだと気付くまでに数秒かかった。
「あ、コレは、その、すみません!」
 他にどう言っていいのか判らず慌てて謝罪し、ハボックは横の応接テーブルに駆け寄った。間抜けなほどデカいクリスタルの灰皿を取り上げ、吸い口近い短さの煙草を押し付ける。
「で、なんだって?」
「はい?」
「お前が言いかけてやめたんだろう。中尉がどうした」
 ああ、とハボックは両目を瞬いた。新しい一本をポケットから出してくわえる。上官はチラリとこちらを見たが、咎められはしなかった。
「えー、そのォ、……中尉と大佐って、付き合いは相当古いんすかね?」
「少なくともお前とよりは長い付き合いだな」
「いや、その程度は知ってますけどね」
 火を付けないまま口先で弄んで、結局はその煙草をまた手許に戻す。
「イシュヴァールで出会った時、彼女はまだ士官候補生だった」
 上官は数枚足らずの書類にざっと眼を通し、立ったまま執務机に屈み込む形でサインを書き入れた。
「既に『鷹の眼』と異名を取っていた。髪は肩より短かった。あの通り女性としては小柄なわけではないが、戦場では初々しい少年兵にも見えた。───そういう話か?」
 執務机を反対側へ回り、ハボックは副司令官印の入った箱を取って上官に差し出した。
「同じ部隊だったんですか?」
「いいや。彼女は狙撃部隊の配属だった。舎営地は後に同じ場所になったが、直接行動が一緒だったことはない。私の預かり知らぬところで、後方援護はされていたかもしれないがな」
 タン!、と軽やかな音で承認印が捺される。書類のページ順を確認してまとめ、上官はそれでハボックの胸の辺りを洒落た仕種で叩いた。
「残念ながら、口説いている暇はなかったよ」
「そっ、…」
 ハボックはカッと自分が赤面するのを感じた。
「そんなことを聞きたかったわけじゃありませんよ!」
「そうか? 女の過去をかぎ回りたがる男というのは、大概がそういった曖昧な質問を並べるものだ。遠回しで曖昧で意気地足らずな」
 場合によっては逆効果だろうな。
 笑って上官はハボックに書類を突き返した。
「特に彼女のようなタイプにははっきりと逆効果だ。私より本人に訊いた方がまだしもだぞ。しかし断っておくが、答えが得られるかどうかまでは保証しない」
 ハボックは胸先の書類を左手で奪うように受け取り、右手で上官のその手首を鷲掴んだ。
「おい!」
「大佐、勘違いしてますよ」