ライフ。 ...サンプル

 ある日、彼の母親が囁いた。大事な大事な秘密を打ち明けるように耳打ちした。
《あのね、涼ちゃん。涼ちゃんは「お兄ちゃん」にもうすぐなるんですよ》
 まず『オニイチャン』なるものが、一体どのようなものなのかが彼にはさっぱり分からなかった。不親切にも、そこまでは母親も説明してはくれなかった。でもそれが大変に喜ばしい事柄であるらしいのと、とにかく自分が「ちょっとレベルアップ」するらしいのは理解した。
 その証拠に、以後何か叱られるような事態が発生した時、周囲の常套句として「もうすぐオニイチャンになるんだから」とか「そんなことじゃオニイチャンになれませんよ!」だのが乱発された。
 よく考えたら別に自分から進んで『オニイチャン』になりたいと申告したわけでもないので、「なれませんよ」という叱り方も理不尽ではある。だが「なれない!」と頭ごなしに言われたら、「それはとてもマズいらしい!」ぐらいに子供心に了解して、彼は素直に己を律した。ワクワク気分も昂まっていった。とにかく何か素敵なことが起きるのだと、周囲の大人たちの反応を見ながら心待ちにした。
《オトウトがいいか? それともイモウトがいいかな?》
 満面の笑みで嬉しそうに訊かれたって困る。どっちがどっちとも2才児に判断などつくものでもない。
《どっちも!》
 試しに言ってみたら、残念だけどそれは無理だと父親は笑った。
 うんと。───ってどのくらいだろう。
 また困ってしまって尋ねた彼に、「とにかくいっぱい。出来る限り」というようなことを確か父親は答えてくれた。


 ───
 さて、そんな経緯で通いそびれた保育園。今度こそ!、のお祖母ちゃまも文句のつけようのない立派な私立幼稚園に、母親も父親もそっと胸を撫で下ろしていた。
 着々と『初登園』の準備は整っていった。制服もバッグも帽子も用意して、スモッグもアップリケとネーム入りで用意して、そこまでは何の不備も見あたりはしなかった。ワケが分からないながらも、『這い這い』から『たっち』に移行したばかりの弟だって、一緒にキャッキャと喜んでいた。
 ところが、登園のその当日になって。
 弟は天地がひっくり返りそうに泣き喚いた。どうやら自分も一緒に行くものと勘違いしていたらしい。母親も家政婦さんも涼介も、必死になって弟に言い含めた。すぐ帰ってくるから、ほんのちょっとのことだから。
 それにホラ、ケイちゃんのお鞄も帽子もないでしょう。そうそう、お兄ちゃまの分しかございませんよ。ね、そのうちに。そのうち、ケイちゃんも一緒に行けますからね?
 しまいには、何だか詭弁くさいことまで並べ立てて宥めすかした。
 もちろん、ガンコで一途な弟がそんな説得で納得をしようはずもない。悲痛な泣き声に見送られた涼介は、後ろ髪を鷲掴まれつつ、家政婦さんに手を引かれて出発しなければならなかった。初登園だというのに、屠殺場に引かれる牛のようにトボトボと、送迎バスが来る表通りまで出かけて行った。
 日中、お遊技をしてても、『いただきますの歌』なんてのを明るく手拍子つきで歌ってはいても、涼介の頭からは弟の泣き顔が離れなかった。やがて、出来たばかりのトモダチらに、バイバイ、バイバイと手を振って、涼介は自分の家方面の送迎バスに一番に乗り込んだ。(けど着く時間は一緒)
 はたして、玄関の扉を開けると、そこには泣き疲れてクタクタのヘニャヘニャな物体が転がっていた。やっと再会の叶った兄にも、弟は声も出せないほど疲労困憊になっていた。
《ケイちゃん…!》
《にー…》
 猫みたいに掠れた息で、弟は涼介にすり寄った。たった数時間で、泣いた水分の分だけ質量も減ってしまったかのようだった。あまりの弟の憔悴ぶりに、つられて涼介までポロポロと涙が零れた。
 ───ヒドい、あんまりだ。こんな思いをこの子にさせなくっちゃならないほどの、どんな大切なことが世界の中にあるというのだろう。
 靴も脱がずに、そうやってヒシと抱き合っている息子たちを見て、母親は呆れて大きなため息をついた。
《生き別れの兄弟の十数年ぶりの邂逅じゃあるまいし…》

- ◆◇◆-



 今まで弟は涼介に隠し事らしい隠し事をしたことはなかった。例え「隠せ!」と怒鳴りたくなるようなことでも、包み隠さず赤裸々に喋りまくって大きくなった。
 なのに、思春期も終盤に差し掛かった最近になって、…つまり男兄弟として、おそらく一番支えになってやれるであろうこの時期になって。
 何だって急に、こんな素っ気無い態度を取られなくちゃならないのだろう。涼介は考える度に情けなくなる。ヤンチャで突飛で時にムチャクチャな思考回路の弟でも、彼にはこの世の何より大事だった。
 ぷいと横を向いたままの弟のつむじを見下ろしながら、涼介は自分の言葉がカラカラと空回りしている音を聞いた気がした。届かないのか。こうして自分が本気でこいつのことを思う気持ちは、この弟には既に遠く届かないのか。
「啓介……」
 めげるまいと必死で己を制しながら、切実に弟の名前を繰り返す。
「なあ、けいす……」
「───だからッ!」
 ついに我慢し切れなくなったとでもいうように、弟がベッドへ前のめりに吐き捨てた。
「オレはちゃんとアニキに言ってる! アニキが聞く気がないだけなんだろっ」
「聞いてるさ! お前の言葉を俺が聞かないなんてあり得ない。頼むから話を逸らすな、俺はお前が辛いならその理由を知りたいんだ。聞いて、俺に何か出来ないかって本気で思ってるんだ」
 何も、出来ないかもしれなくっても。
 弟はキュッと唇を噛んだ。一瞬、泣き出しそうに見えたのは見間違いではないと思う。
「だから……だからさ。オレ言ってるよ、ちゃんと。…アニキのことが好きだからって」
 ここで会話はぐるりと元へ戻る。


「──なあ、啓介」
「…ナニ?」
 弟の声にちょっと緊張が混じり込んだ。兄貴が自分を呼ぶ響きの中に、素早く『説教くささ』を感じたためと思われた。
 正直、あの夜から、一度も涼介は弟に対して叱責じみた言い方をしていなかった。だって色々と蒸し返しそうで、…ううビミョー。
 だけど長男体質を振り絞って、ここはせいぜいが厳しい口調で対峙する。
「母さんに、ああいう言い方はやめろ」
「やっぱ説教か」
「聞きたくないか?」
「聞きてぇわけじゃないけど、」
 ふう、と普段の彼には似つかわしくないため息を吐いて、弟は涼介の座るソファの背に片手をついた。
 「アニキがオレと話してくれる気になったんだったら、今は何でもいいって感じかな」
 随分と弟は痛んでいる。そう思うと、…思うと確かに憐憫の気持ちも涌くのだが。