狐火 ...サンプル

 ノックを二回。返事を待ってから啓介は真鍮の握りに手をかけた。
「やあ、啓介」
 如雨露を片手に彼は振り向いた。紫蘭の鉢に水を遣っていたところだったらしい。
 屋敷の正門から向かって右の棟奥、洋風庭園に半ば突き出すような形でサンルームは建っている。広い露台に向かった一面は床から背の高さまでの二重に誂えた仏蘭西窓、天井にも嵌め込み硝子の部分があって、たとえ冬でも晴れた日には袖をまくり上げたるなるほどの暖かさだ。
 啓介が最初にここに通された時から造りそのものは変わっていない。だが趣は随分と様変わりした。以前はお体裁に幾つかの緑を数えただけが、今は数々の鮮やかな花で彩られている。
 邸宅内で兄の一番のお気に入りのこの部屋は、啓介がおとなう度に鉢の数を増やしていった。目もくらまんばかりの洋蘭から、変わり咲きの朝顔や椿といった類いまで。近ごろは「高橋子爵に付け届けるなら、金の饅頭より珍品なる花の鉢」と巷で囁かれていると聞く。
「母屋に顔を出したらここだと聞いて」
「いつも呼び立てしてすまないね」
 いや、と啓介は横にある蔓薔薇の鉢植えに手を伸ばしながら呟いた。
「約束だからな」
 思っていたより素っ気がなく言葉が響いて、啓介は自分でドキリとした。しかし兄はそれには答えなかった。
「今日は僕も午後は休みだ。晩餐の席は用意してもいいだろう?」
「……洋食でなければ」
 未だに啓介はナイフとフォークの扱いが不得手だった。礼儀作法についても自信がなかった。兄は名前に似つかわしく涼やかに笑い、「高田にそう言おう」と満足そうに頷いた。

 啓介、と。
 いつの頃からか啓介はその呼び声から逃れたくて仕方がない。神戸の学校にやられたのは渡りに舟とでもいうものだった。大方言い出したのは奥方だろうが、兄と離れて暮らす口実としては上々だった。兄の猛烈な反対を押しきり、啓介はいそいそと荷をまとめた。
 停車場まで見送りに来た兄の姿を覚えている。僕も行きたい、と堪え切れずに漏らした呟きを覚えている。
 お付きの下男は汽車に荷を積み込むために一旦離れ、僅かの時間に二人になった時だった。
《兄さん、馬鹿を言うなよ。あんたの母親が卒倒しちまう》
 言ってみただけだよ、と兄はごったがえす停車場の人込みに視線をやった。それからふっと啓介の顔をやけに真剣に見つめ直し、
《───啓介、君は自由だ。空をはばたく鳥より真に自由だ。心も身体も。それを僕に約束してくれ》
 額面通りに受け止めていいものか啓介はしばし迷った。そも自由とは何ぞやとも思った。
 どんな人間も背負った軛からは逃れられない。それは身分であったり男女の違いであったり、その人個人によって様々な形で顕われるものだ。そんなことが分からぬ兄でもあるまいから、啓介は兄の意図を汲めずに困惑した。
 だが頷いた。いつかと同じに。逆らい難い波に押されるままに。