狐火 二 ...サンプル

「啓介、あとひとつ。話題はまったく別になるが、……」
「まだ何か」
 立ち上がり、涼介は手ずから後ろの窓を開けてくれた。礼も言わずに啓介は棚の灰捨てを手繰り寄せた。
「今度、那須に土地を買い求る心づもりだ」
「なんだ、新しい寮でも建てようってのかい」
「それほど小さな話ではないよ。──だが大きいとも言い難いかな」
 涼介はさきほど端に置いた書類を机の中央に乗せ直した。
「牧場をひとつ買わないかと打診を受けた。一エーカー、坪にするなら千二百少しといったところか。牧場としては、まあ並か小さめの部類だね。最初は流通に関してのみの持ちかけだったが、うちが直接に手を出したほうが効率がいい。近隣をもう一エーカーほど買い足して、出来れば育馬事業も平行してやらせたい」
 華族農場は昨今流行りで、鉱山や鉄道事業と並んで政府が奨励しているものだった。一から開墾となればそれなりに月日も金も掛かるだろうが、既存のものを買い上げるというなら楽は楽だ。
 にしても。
「俺には十分、大きな話に聞こえるよ」
 見ろと促されて仕方なく啓介は書類を手に取った。その牧場とやらの経営如何の現状、図面、先々に開墾すると思われる土地周辺、加えてかかる資金の試算。市井の観からすれば何もかもの桁が違う。
「どう思う」
「どうって、……あんたの好きにすりゃいいだろう」
 啓介は元の場所に紙の束を投げ置いた。
 兄が事業としてよかれと思うなら間違いあるまい。そしてそれ以上に、啓介には何の関わりもない事柄だった。
 しかし涼介は生真面目な顔で啓介を見返して、
「お前がやらないか」
「何だって?」
「お前に会社を任せたい。当然、補佐は付けさせよう。今の貿易とは別名義に会社を建てて、お前がそれを仕切ればいい」
 しばらく絶句したのち、啓介は深々とため息を付いた。
「……兄さん。俺はこの家と関わりなく生きていく気で、それはあんたも了承の上でのことじゃなかったのか?」
「古着商いだの古本商いだの、一生をそうやって食い繋いで生きるつもりか」
 この言い種にはカッときた。これまで兄は啓介の書生の小遣い稼ぎまがいの仕事にケチを付けたことは一度もなかった。それはそれと、見守るとまではいかなくとも、啓介の生き方に真っ向否を唱えるような物言いはしなかった。
「お世話さまだね」
 思わず険だって啓介は言い返した。
「あんたの動かす金に比べりゃ微々たるモンなのは重々承知さ。だが俺一人が飯を食うには過不足ない。でなくったって、俺がどこで野垂れ死のうが俺の勝手だ。とやかく言われる筋合いはない」
「筋合いはある!」
 珍しく涼介も声を荒げて言い返した。
「筋合いはあるだろう、お前は弟だ、ただ一人きりの兄弟だ!」
 しかしその激昂も長くは続かない。下唇を噛み締め、涼介は一度言葉を濁らせた。
「僕の弟だ。……だのに、どうしてお前は昔から…そうまで関わりを断ちたがる」
 兄さん、と乾いた口腔内で啓介は呟いた。上背も互いにそう変わらない、さほど華奢というわけでも決してない、その兄の不意に見せた頼り無気な容子にくらりとした。
 無意識に啓介の手が伸ばされかける。けれどもそれを遠避け、涼介は背を向けて机に両の拳を付いた。背中はおそらく震えていた。
「憎まれるのはいい。お前が高橋を憎むのも僕を恨むのも構わない」
「何を馬鹿な」
 美しく磨き上げられた木目の上、打って変わって今度は淡々と零し続ける。
「だが離れるのは駄目だ、それだけは僕は承服出来ない。お前が僕を恨みに思うなら、ずっと僕のそばで恨み続けて居なけりゃならない。僕を憎んでいなけりゃならない。それが罰ってものじゃないか、違うのか? ───それともこれが僕にとっての罰ってやつなら、なるほど神仏はお見通しだね。ああ、懺悔を口にしない者には購いさえ無用だろうと……」
 最後は己に言い聞かせるほどの小声になる。啓介は寒々しい不安に襲われ、ついにこらえ切れずに一歩を踏み出した。
「なぁ兄さん」
「いや違う。僕は、神仏なんぞ信じてはいないんだ。あんなものを頼みにしたことはこれまでないんだ。僕に罰を与えるのは僕自身だと思っていた。……違うのか?」
「兄さん! 何の話をしているんだ」
「何の? ──…何の、だったか」
 カタン、と音が鳴った。僅かの風に煽られ、両開きの仏蘭西窓が小さく揺れた音だった。怯えた獣のごとくに息を殺して、二人の間に他に音はなかった。
 そこへまた不意を突いてノックの響き。ハッと、糸から解き放されたように涼介は振り返った。

- ◆◇◆-



 でも、でもね、と緒美は俯き、膝元の風呂敷包みを頼り無く弄りながら呟いた。
「でも?」
「涼兄様が緒美を可愛がって下さるのはね、……お人形を可愛がるお気持ちとあんまり変わりはないの。あんまり、緒美の心の中は関係がないの。時々、そんなふうに考えてしまうのは、……緒美が我が儘なせいだって啓兄様はお思いになる?」
 痛いところを、と啓介は舌を巻いた。なかなかどうして、この娘は勘がいい。それとも啓介が知らぬ間に、娘が大人に成りつつあるだけなのか。
「我が儘とは、…違うだろう。兄貴はあれで、少し不器用だからな。人付き合いが普通と違うところは確かにあるよ」
「普通と違う──。そうね。涼兄様は何もかもが普通とは違っていらっしゃるのだもの。お心の持ちようも、少し他とは違っておいでなのかも」
 己で「違う」と口にした癖、それは啓介を存外狼狽えさせた。身分でもなし、育ちでもなし、表層一遍でなく涼介の何もかもが「違う」のなら。
 その啓介の沈黙をどう受け取ったのか、
「それでも、緒美は涼兄様をお慕いしていてよ。それは決して変わりがなくってよ」
「…ああ」
「信じて下さる?」
「もちろん」
 言葉だけでなく示すために、啓介は緒美の耳朶をキュッとつまんで引いてやった。
 戯れに昔よくした仕草、その度に緒美は鼻を膨らませて抗議を唱えた。だが今は片眉をしかめただけで、泣き出しそうな顔で啓介を見上げた。
「啓兄様だけだわ、涼兄様がお心を明かされるのは。緒美はいつもそれが羨ましくてならなかったの。緒美だけ仲間外れにされたようで哀しかったの。だけども今は、涼兄様がお可哀想。啓兄様は本当はご存知なのに意地悪よ」
「意地悪って何が。俺が家を出たのを今更言うのか?」
 違う、違うわと緒美は首を振った。つられて紺紫のリボンも左右に揺れた。

- ◆◇◆-






 許してくれ。許してくれ、許してくれ許してくれ。
 誰に。誰に俺は許されたい。神仏は頼みにしないと兄は言った。俺もだ兄さん、俺も神の御加護なんぞを願ったことは一度もないんだ。だが加護ではなしに、裁かれるためにだったら信じたい。許してくれと呟きながら、心の底ではそれすらも己自身は望んでいない。

 兄さん。許してくれ。
 俺はいつかあんたを殺す獣(けだもの)だ。