夜のガスパール ...サンプル

 ガラス戸にもたれるようにして立っていた啓介は、すい、と身体を起こして涼介に一歩近付いた。野生の獣じみた動きだった。
 思わず涼介はその一歩分を後ろに下がった。自分の部屋で、俺は弟相手に何をやってるんだと思わないでもなかったが、その時の啓介にはそれだけの奇妙な威圧感が漂っていた。
「ないよ」
「…おい。啓介」
「ねーよ。俺、改める気なんかこれっぽっちもねぇからな」
「何も、だけど俺の部屋で…、」
「───あんたの部屋だからだろ!!」
 こちらが気押される勢いで怒鳴ってから、クソッ、と啓介は床に吐き捨てた。
「なんで帰って来んだよ! いつも朝まで戻って来ねえじゃねぇかよ、あのクソうるせぇ車の音がするじゃねえかよ! なんで、いつもと、おんなじじゃねえんだよ!」
 まさか、と思った。でもまだ感情が否定する。認めるわけにはいかない。頭の奥でシグナルが弾ける。
 まさか。
「なんで、どうしてオレ…」
 崩れるように、涼介の前で弟は両膝をついた。握り込んだ手を目許に当てて低く呻く。泣いているようにも聞こえた。だけど涼介にはかける言葉がどうしても見つからない。
「チクショ……、アニキ、オレ……」
 吐き気とも目眩ともつかない感覚に襲われ、無意識に涼介は背後の壁に身体を預けた。見下ろした弟の肩は震えている。辛そうに、苦しそうに。なのに抱いてやる事すら自分には出来ない。
「───出てけよ」
 やっとの事で押し出せた言葉はそれだった。震えずに言うのが精一杯だった。
「自分の部屋に戻れ」
「……それだけ、かよ」
「出て行け」
「アニキ…ッ」
「俺の部屋から出て行け!」
 立ち上がった啓介が視界を塞ぐ寸前、涼介は後ろ手にドアを開けながら身体を躱した。肩を掴んで、少しの揉み合い、容赦なく殴りつける勢いで廊下側に突き飛ばす。
 その騒ぎの中、廊下の一番奥の部屋のドアが開いた。

- ◆◇◆-



「弟がなんかやらかしたか?」
 史浩の言葉に慌てて涼介は顔を上げた。その反応が意外だったのか予想通りすぎたのか、史浩も慌てて口に入れかけていたカレーを飲み込んだ。
「いや、FCの事だけにしちゃ、やけに冴えない顔をしてるからさ」
「そうか」
「───すまん」
 謝らなくてもいいさ、と涼介はフォークを握り直した。が、結局は一口も運ばないまま、またトレーの上に投げ出してしまう。
「喧嘩したんだ。…少し」
「正面きってか? そりゃ珍しいな」
「正面…どうかな…」
 自信がない。何もかもに自信がない。ポケットにFCのキーがない事も、弟のあの捨て鉢な口調や態度も、全てが自分自身の咎のように思えていた。足許が揺らいで消えそうなこの不安。
 朝方、自分達は普段通りの兄弟だった。チラチラと涼介を伺うようにしていた母親を、敢えて涼介は無視し続けた。いつもと違うのは車庫に自分の白い愛車がない事、母親が次男に朝っぱらから非難や小言を言わない事、弟の目許と唇が僅かに腫れていた事、それぐらいだ。
 なのに足許が揺らぐ。この不安。