Perfect World



 久し振りに二人揃っての真っ昼間からの非番で、どうせ大佐は一人ではろくに昼飯も食わねぇだろうと勝手に食材持って押し掛けて、そうしたらやけに今日は晴れ晴れとしたいい天気だったりして、ハボックは何となく衝動だけで口にしてみた。
「ねえ、大佐。よかったらピクニックにでも行きませんか」
「───そうだな。せっかくの休みなんだし」
 賛同を得られたのにはびっくりした。本当に。


 森は早々に冬支度に移りかけていて、頬をなぶる郊外の風は少し冷たかった。でも気持ちのいい風だった。高台の小さなキャンプ場で、集めた薪でささやかな火を焚いて、カゴから取り出したバゲットに炙ったサラミとチーズを挟んでかぶり付く。
「なんだか野演の延長みたいだな」
 置き捨てられた太い丸太に腰を落ち着け、ブリキカップに熱いコーヒーを注ぎながら、彼がそんな事を笑いながら呟く。
「でも10分以内に飯食って整列しないでいいですし、固い地面に寝袋で転がらなくてもいいんすけどね」
「20キロ背負っての深夜行軍もしないで済むし、自力で食料調達もしなくていいしな」
「そうそう。演習だったらバスケットの中からこんなものも出て来ない」
 ハボックが取り出した赤ワインのボトルに、彼は切れ長の黒い瞳を丸くした。
「昼間からか?」
「オレは運転があるんでご遠慮しときますよ、もちろん」
「いや、それは…それで私だけ飲むってのも……」
 何をらしくない気遣いなんかしてるんだ。思わず吹いたハボックに彼はムッとして、ハボックの手からワインボトルを引ったくった。
「グラスは!?」
「そこまでは。いいでしょ、そのカップで」
「気のきかん奴だ」
 コーヒーを飲み干し、ひと振りして雫を払う。ハボックが手を出そうとするのを意固地に拒み、彼は手酌で思いきりよくワインをカップに流し込んだ。
「大佐ってけっこー、…」
「なんだ」
「相手によって態度とマナーが露骨に変わりますよね」
「臨機応変と言え臨機応変と。貴様相手にいちいち気取ってられるか」
「まあ、今さら気取ってもらってもウラ知ってんですけどね」

 憎まれ口の応酬を交わし合いながらハボックは少しホッとする。
 ここのところ寝不足でまともに寝ていないのを知っていた。食も変に細くなっているのにも気付いていた。この男の場合、寝て下さいよ食って下さいよと正攻法で行くのは逆効果だ。意地になって何事もない素振りをしようとするのは目に見えている。
 今日だってハボックが訪ねてみれば、書斎で書類と文献の山に埋もれまくって、一瞬、家主がどこに居るのか分からないほどだった。キッチンはここ暫く水を流した形跡がまったくなかった。汚れた酒のグラスだけが幾つも放置されたカウンターを眺め、こりゃあダメだとハボックはため息をついた。サボるなと言えばサボる、休んでくれと頼むとかたくなに拒む。この時期の上官はまったく扱い辛くて仕方がない。
「そうだ、ハボック。思い出した、来週の式典の配備なんだが」
「えー、ヤめましょうよー。こんなとこまで来て仕事の話は」
 ハボックの心底うんざりした表情を見て、僅かに苦笑し、彼は案外と素直に「ああ、そうだな」と呟いた。
「やめよう。今日は」
「ですよ。どーせ明日になったらまた死ぬほど追いまくられなきゃならないんですから」
 アメストリス戦没者合同慰霊祭。『合同』なんてったって名ばかりだが。慰霊碑にはもちろんイシュヴァール人の名前は一人もない。彼らはアメストリス国家の民として数えられていないからだ。あれを『内乱』と位置付ける事と矛盾して。

 焚き火にくべ足す木を探しにハボックが腰を上げ、ついでに木立にもたれて煙草を一服し、彼が『ひょっとしたら』人に見られたくない顔でワインを数杯飲み干し終わるタイミングを見計らって戻ってみると、なぜか焚き火の周囲には人影がなかった。
「……大佐ッ!?」
 自分でもどうかと思うぐらい声が跳ね上がる。抱えていた枝を足許に投げ出し、とっさにいつもはホルスターを吊っている腰の定位置に手を伸ばす。しまった。今日は銃を携帯してない。車の中に置きっぱなしだ。私服の上からでは銃の膨らみが見える事に僅かに躊躇し、助手席にホルスターごと残して来ていた。
「───ハボック!」
 遠く、呼ばれた声を聞いた瞬間にそちらへ駆け出す。響きに緊迫感は感じられない。それでも息せき切って現れたハボックを見て、彼は瞬きを数回、「すまん」と笑って言った。
「どこ、行っちゃったかと、思いましたよ…ッ 一声かけてからにして下さいよ!」
「そんなに慌てると思わなかったんだ」
「慌てますよ! 時期が時期なんすから!」
 言ってしまってからハボックは舌打ちした。だが彼はわざとなのか本気なのかのズレた返しで、
「まさかこんな平日の真っ昼間のキャンプ場で、テロリストに遭遇って事はないだろう」
「わっかんねぇすよ! 跡付けられてたりするかもしれないじゃないすか!」
「付けられてたのか?」
「……。ないですけどね」
 さすがにそこまで抜けてはいない。この人の護衛官を兼ねる内、ハボックはたとえプライベートの運転でもバックミラーを確認しまくる癖が付いた。動きの怪しい人物は居ないか、後続に不審車両が居ないか。とにかく狙われているご本人より先に見つけるのがポイントだ。でないとこの護衛対象は自分を的にしてでも犯人確保に走りかねない。
「何ですか、なんか面白いモンでも見つけました?」
 逸らす話題のとっかかり口としてそんな事を訊いてみる。特に明確な答えを期待して言ったのではもちろん無かった。
 だが彼はすいと視線を上げ、
「ここから見ていた」
 森の終わりはなだらかな崖になっている。そこからは広く眼下にイーストシティが見渡せる。その景観はこのささやかなキャンプ地の売りでもあった。
 山裾に大きく広がる街並。まず目立つのは時計台広場、市庁舎、もう少し西に目を転じれば東方司令部本営。大通りには豆粒ほどの自動車が行き来し、人に至っては小さな小さな点としか捉えられない。夕暮れ間近の陽射しに照らされ、市場付近はもう帰り支度だ。平穏で穏やかな人々の営み。見計らったように時計台から鐘の音が響いてくる。今日のこの日の静かな終わりを告げるために。
「───美しいな」
 ハボックは自分の考えを読まれたのかと思ってドキリとして、思わず「ハイ?」と的外れにも訊き返した。
「美しい景色だ。美しい世界だ。そう、思わないか」
「……」
 彼は口許でうっすらと微笑した。なのに目だけはひどく真剣だった。
「これを私は両の眼に灼き付ける。死ぬまで忘れる事はないだろう。私が命を落とす瞬間が来た時、思い出したいのはきっとこの景色だ。とても美しい、…何にも替え難い光景だ…──」
 ええ。ええ、大佐。俺もそう思います。
 言いたかったのに、なぜかハボックは喉が詰まって言葉にならなかった。代わりに彼の肩を後ろから抱き寄せた。互いの体は冷えきっていた。でもぬくもりはある。こうして居ればいつか互いの温度が互いを暖め合って、凍える冷たさを払う事は出来る。出来るはずだ。少なくともハボックはそう信じている。全身全霊、命がけで信じている。
 ───世界は美しい。俺にとっても。
 涙がこぼれそうになって、慌ててハボックは自分の肩口に顔を逸らせた。


「今日は連れ出してくれてありがとう。いい気分転換になったよ」
「わー、大佐がそんな素直だと後が怖ぇ」
「……お前の中の私は一体どれだけ傍若無人な男なんだ」
「見たまんまです」
「ああ、なるほど。情報処理するのがお前のカラッポの頭じゃたかが知れてる」
「ちょ、ヒデェ!」
 軽口を叩き合いながら帰り支度をして、幾つかの荷物を車の後部に運び入れる。辺りはもう暗くなりかかっていた。明日からはまた目が回りそうな忙しさで追いまくられる。分かっていて、二人ともが馬鹿に呑気に片付けを続ける。それでも焚き火の残り火をブーツの踵で踏み消してしまうと、もう完全に終わりだった。
 彼は最後に、その場所から見えないはずの、眼下の眺望の方角を惜しむように振り返った。
 惜しむように。慈しむように。

 さあ行きましょう、と自分からはなかなか言い出せなくて、ハボックは迷った末にもう一本だけ煙草の先に火を付けた。
 



- end -

2010-1-8



何が書きたいんだか自分でも謎の話に。1月号を読んだ後の衝撃のまま書き出したら「こんなん出ましたー」という1本。