白い花



 年に幾度か、下手すると月に一度、やむを得ない理由で上官がセントラルに出張する。同行するのは本来なら主席副官のホークアイ中尉で、彼女の手がどうしても空かないという時にだけ一応は次席のハボックにそのお鉢が回って来る。
 正直、ハボックはそれがあまり好きではなかった。気が遠くなりそうにデカい街並も、どこから沸いて出たのかと思うほどの車や人間の数も、田舎者の自分には気後れが先に立つ。いちいち馬鹿丁寧に敬礼と答礼の通過儀礼が必要な中央司令部正門にしたって、思わず息を詰めたくなるような固っ苦しさだ。ここに来る度、いかに東方司令部がフランクな場所であるかを否応無しに痛感する。
 そして何より、
「───ここでいい」
 真っ白い花束を膝に置いた正装の上官は、窓の外を見もせずに言い捨てた。「アイサー」と答えてハボックはゆっくりとブレーキを踏む。傷みやすい花が少しの衝撃も受けないように。
 お供しますかとはハボックは尋ねない。これが初めてでは無く、おそらくは最後でもなく、彼が「いい」と答えるのを知っているからだ。
「すまんが、ここで少し待っていてくれ」
 広大な敷地を占める軍人墓地は、見渡す限りになだらかな緑の丘陵が続いている。平日なだけに人もまばらだ。彼は後部座席から降り立ち、その丘を一人静かに登って行く。
 残されたハボックは煙草を胸ポケットから出し、ハンドルに両手でもたれながら紫煙を吐き出す。いい天気だ。どんより曇ってりゃまだマシってものを、そのへんの草っぱらに寝転んで昼寝としゃれ込みたいくらいにいい天気だ。
 整備された煉瓦敷きの小道以外、どこに視線をやっても緑、緑と、整然と美しく並ぶ白い十字架の群れしか目に入らない。ハボックは仕方なくフロントガラス越し、馬鹿みたいに空なんかを見上げる。青い空、淡くたなびく雲、まったく気が抜けるくらいにいい日和だ。

 あの十字架の下、いったいどれくらいの数の柩に『真っ当に』遺骸が納められているんだろう、とふと思う。なまじここが軍人墓地なんて場所なだけに。
 イシュヴァール内乱時、遺族に届くのはよくてタグと遺品が幾つか、悪くて戦死報告の紙切れ一枚という事がザラだった。それをハボックは痛ましいと思いこそすれ、おかしな事だとは考えなかった。ハボック自身、同じ部隊の何人かのタグを遺族に届けた。遺骸からそれを剥ぎ取ったのがハボックだからだ。
 中には一言二言程度しか会話を交わした事もない者も居た。命からがらハツカネズミのように戦場を駆け回って逃げる時、目についたタグをとにかく引きちぎって来ていただけに、遺族に伝える言葉もなくて何度か困った。
 必ず彼らはハボックに尋ねた。息子は夫は兄は婚約者は、最期はどんな様子で死んだのか。苦しんだのか、何か残した言葉はなかったか。
 幾人かには遺言を伝えられた。愛や労りに満ちた最期に託された言葉を伝える事が出来た。だが大半は無理だった。片足がふっ飛んで泣き喚いていた様子や、敵兵を恨み罵り続けていた様子や、ハボックが見た時にはもう誰なのかも分からないほど半壊していた遺骸の有り様を、そのまま伝えるわけにはもちろんいかなかった。
 苦しみませんでした、と大抵の場合にハボックは答えた。最期はそれほど辛くはなかったと思います。
 そうですかと安堵する者も居れば、「なぜうちの子だけが」と泣き崩れる親も居た。いいえお宅の息子さんだけではありません。あの内乱では我が軍だけでも何万もの死者が出ています。俺も死にかけました。運です。それがあそこでは一番の味方で、『なぜ』と言うなら彼は運がなかったのだと思います。
 もちろん、そんな言葉も口に出しては言わなかった。ただハボックは届け伝え続けただけだ。そうして卑怯な事に、その行為によって「自分が生きて帰った」事を淡々と実感し続けた。
 ハボックが生きて帰った事を暗に責める遺族にはむしろホッとした。自分が卑怯で意気地なしで運がよかっただけの男だと実感するのは、何よりもハボックを「生きた世界へ」スムーズに馴染ませる結果になった。
 生き延びたのだ。自分はあの戦場で生き延び、帰って来たのだ。
 カウンセラーはハボックを正しいと言った。当時、内乱から帰って来た者は皆が定期的にカウンセリングを受けるように義務付けられていた。ハボックは罪悪感から彼女──そう、カウンセラーは女医だった──に自分の思う全てを打ち明けた。
 今一番何がしたい?、とカウンセラーは尋ねた。素直にハボックは女と寝たいと言った。デカくて柔らかい胸に顔をうずめて、くびれた腰を思いきり抱き締め、翌朝の太陽がチカチカしてまともに見られないくらいにとにかくファックしまくりたくて仕方がない。オレはおかしいのかな先生?
 あなたは正常です、と彼女は笑って言った。来月はもう来なくていいわ。もちろん自主的に来たくなったら別だけど。来たいよ、とハボックは言った。あんたに会いたいから、先生。
 その晩、ハボックはカウンセラーの部屋のベッドで彼女と寝た。彼女はベッドの中でまでカウンセラーだった。乳房は少し小さかったけれど素晴らしい腰の撓みと暖かさを持っていた。別れ間際、合鍵をくれないかとハボックは頼んでみた。だが彼女は、だからもうあなたは来なくていいのよそう言ったでしょう、とまた笑った。そんなものなのかなと思ってハボックは小さなアパートメントを後にした。それきり彼女には会っていない。

 大佐、おせぇな。ハボックは何本目かの煙草に火を付けながら考える。だが時計は見ない。そんな事をしたって針は早く進むわけではないし遅く進むわけでもない。ただ自分は待つだけだ。賢くはなくてもひたすら主人に忠義な犬のように。粛々とタグを配って歩いた時のように。

 柩の中はあの男が居る。ハボックだって彼の事は好きだった。でも上官はいつも一人で行く。一人でないと話せない事があるんだろう、とハボックは勝手に納得している。いつも一人で、傷みやすく美しい白い花を携え、上から下まできっちりとした正装で彼は白い十字架の下の人物に会いに行く。
 通過儀礼。彼も死者のタグを届けるなんて真似をした事があるだろうか。死の影を振り払う儀式。それとも彼ならそんな真似には頼らず、影を引きずり続けて生きる道を選ぶんだろうか。
 こんなふうに。
 たった一人で、白い十字架の群れに囲まれて。

 オレは生きてる。生きてるからキスをしたいし熱いセックスをしたい。好きな相手を抱き締めて愛していると囁きたい。でないと生きてると思えないから。この先に命を本気で賭けられると思えないから。
 まあ要は、とハボックは車内の灰皿に煙草の先を押し付けた。オレが単純バカってだけなのかもしれないけどな。
 灰皿を押し込んでエンジンをかける。見目麗しい青年将校が、行きとまったく同じ足取りで丘を下りてくるのがバックミラーに映っていた。
 一旦外に出て後部座席のドアを開ける。上官が軽く頷いて座席に乗り込む。顔は敢えて見ない。らしくない気遣いに上官の少し笑った気配を感じても。
 そうして運転席に回ったハボックは、いつもより二ランクは丁寧にギアを入れてアクセルを踏み込む。
 ───傷みやすい美しい花が、少しの衝撃も受けないように。
 



- end -

2009-12-10



唐突に一発書き。