BLISSFUL BLUE



 上官がポケットからハンカチーフを取り出した時、コロリと何かが一緒に転げ落ちた。気付かなかった上官の代わりに、屈んでハボックがそれを拾い上げた。
「たい、…」
 もう既にテーブルを立ってしまっていた上官は、他の将校たちとソツない会話を交わし合っていた。わざわざ部下がそこに割って入れば、よほどの報告と受け取られかねない。
 ───ま、後でいいか。
 思って、ハボックはそれをよく見もせず自分のポケットに突っ込んだ。

 後に何気なくポケットに手を入れた時、つまみ出した『それ』に最初ハボックはギョッとした。いつの間にこんな物を自分が手に入れたのかと、覚えのなさに狼狽えた。それから、ああそうかと思い出す。大佐が落としたのはこいつだったか。
 『それ』は指輪だった。古い古い指輪。やや緑がかった青い石を中央に戴き、その台部分は近頃の流行りよりも大分位置が高い。金具そのものの装飾も少なめで色は鈍く曇り、昨日や今日に作られたものではないのが明白だ。だが古いなら古びたなりの──何か不思議な物語めいた印象も兼ね備えている指輪だった。
 ふうん、とハボックは掌の上でそれを幾度か転がした。
 物語。ひょっとしたら何かのロマンス、美しいだけではないかもしれない誰かの悲喜劇、そういったものの片鱗を掌に乗せているような気すらした。だが同時にそんな夢想を引き起こした自分に少し笑えた。


「大佐、これ」
「ん?」
 差し出したハボックの掌を見て、上官は今さら意味がないのに、とっさに自分のポケットをさぐるような仕草をした。
「落とし物です。俺もついさっきまで忘れてました、すんません」
「いや、ああ。すまない。ありがとう」
 奇妙に動揺しつつ、上官はその指輪をそっと受け取った。
「キレイですね」
「ん?」
「キラッキラしてないのに、なんかキレーな指輪っすね」
「そう、かな」
 やっぱりちょっと返答はおかしい。ハボックは怪訝に思いながら、上官のその手許を覗き込んだ。
「古いモンでしょ?」
「とてもな」
「大佐のお母さんか誰かの?」
「多分──多分そうなんだろう。家の小箱の中で昨日見つけたんだ。私の母がこれを持っていた記憶もないし、祖母か、もっと古い誰かの物かもしれん。宝石屋に直しに出そうかと思って、出がけにポケットに突っ込んだんだ」
 オレが拾ってよかった、とハボックが笑うと、上官も釣られたように少しだけ笑って、助かったよとまたハボックに礼を言った。
「そこまで古いとアンティークってんですかねえ」
「と言うほど、価値はないだろうがな」
「あれ、そうなんですか?」
「特に凝った作りでもなければ、石の価値もおそらく大したものじゃない。どこの家にでも転がっていそうな、…単なる古品だ」
 なぜか目を逸らして、言い訳じみた言い方をする。ハボックは試しに「別に高価なもんでも、オレは拾い賃を要求したりしませんよ」と茶化してみた。
「バッ…」
「冗談です」
「当たり前だ!!」
 直しに出す、か。綺麗に磨き直して、大佐はこれを誰かに贈るのかな。
 思ったが、それはそれで『らしく』ねぇなとハボックは小首をかしげる。国軍一の二枚目でならしたこの上官が、目抜き通りの宝飾店にドレス姿の女と車で乗り付け、ショーウィンドウにある一番派手な宝石を指さし「君にどうかな」と微笑むのなら話は分かる。というか、実際にハボックはそんな光景を幾度か目にした。お付きの護衛官という大変に有り難くない立場でもって。
 決して高価ではない古い指輪。石に濁りこそないが、綺羅きらしい貴石が嵌ったのではない素朴な指輪。
 そんなものを大佐が『誰かの』ために手入れし直す? らしくないばかりか、どう考えても面白くはない。
「……その石、」
 ハボックは眉間の皺を隠すために、胸ポケットから煙草を一本取り出した。
「宝石じゃないすよね? ただの石?」
「ああ? 宝石だって石は石だろう。お前の言葉の選択は時々おかしい」
 上官も眉をしかめて、だがハボックの意図するところは伝わったらしい。
「言ったろう、高価な石ではない。───知らないか? これはトルコ石だ」
「あー、名前は」
「何千年も前からの、つまり最古の宝飾品としても知られている。守護の石だと言われていたんだ。青い方がやや稀少で…これは価値としては低い。緑が強いからな」
 言われて、もう一度まじまじと覗き込む。上から覆い被さるハボックの影に、彼は少し大袈裟なくらい身体を逸らした。
「なるほど。確かに。オレのイメージのトルコ石って、もっと真っ青な感じですね」
 ───なるほど。お護り石、か。
 ハボックは多少の納得をする。よく分からないが錬金術と関係があるのかもしれない。なら、ある種の人々には珍重されるべき石、という事だろうか。
「だったら大佐にぴったりだ」
 他意のある言葉ではなかった。錬金術師でもある大佐ならね、程度のつもりで気軽に漏らした言葉だった。
 だが、途端に上官はパァッと俯いた首の後ろまで赤くなった。ハボックの頭の位置からはそれがよく見えた。
「……え? え!? なにっ?」
「何でもない!」
「えぇっ? オレなんかマズい事言いました!?」
「何でもないッ!」
 貴様いつまで油を売ってるつもりだ仕事に戻れ!!、といきなり大上段に怒鳴り付けられて、ハボックは大慌てで副司令官室を飛び出した。自分が何の虎の尾を踏んだのかはさっぱり分からないままだった。



「あら、指輪?」
 ホークアイ中尉は手にした書類を置こうとして、机の上に転がっているむき出しの指輪に目を留める。
「なんだか懐かしいデザインですね。ステキ」
「珍しいね、君が女性の装飾品を誉めるとは」
「さり気なく失礼な事をおっしゃいますね大佐」
「すまない。正直な感想だ」
 軽口の範疇でジャブを繰り出しあい、職務上の伝達事項を伝えあい、中尉は書類の山を問答無用に数センチ増やした。その後、思い出したように
「こちら、触っても?」
「いいよ」
 サインを入れ終わった書類を積み上げ直し、ロイ・マスタングは不思議そうに視線を上げた。
「本当に珍しいな。そんなに気に入ったのか?」
「おねだりは別にいたしませんけど」
 サラッと言い放った中尉に黒髪の上官は少々噎せた。
「そうではなくて、…祖母がこういう指輪を持っていたんです。教会に行く時にだけ嵌める指輪でした。やっぱりトルコ石の指輪でした。なんとなく、私はその指輪が一番好きでした」
「今は君のものに?」
「いいえ」
 中尉は指輪を静かに机に戻しながら、彼女にしては優しい表情で微笑んだ。
「祖母が亡くなった時に柩に入れました。祖父がそうしてやれと言ったんです。何か…二人だけの思い出があったのかもしれません」
「想像をかき立てられるな」
「これは? 大佐のお祖母様の持ち物か何かだったのですか?」
「どうかな。はぐらかすのじゃなくて本当に知らないんだ。たまたま古い書類の入った箱から見つけて……。誰かが落としたのか隠したのか」
「隠したという方が何か楽しいですね」
「そうかな? …うん、そうかもしれない」
 黒髪の大佐も、彼らしくなく無邪気な微笑みをチラリと見せる。
「トルコ石にしては緑が強いですよね。私はこの方が好きですけど」
「宝石としての価値は低いがね」
 はあ、そうなんですか、と軽く相槌を打つ中尉は本当に『宝飾品には』さほどの興味がない。特に自分を飾るための宝石、それらの資産的価値については。
「それがどうしてこんなところに」
「ああ、直しに出すつもりでポケットに入れたまま忘れていたんだ」
「直す?」
「タイピンにでもならないかと。つまりその、男でも持ち歩ける形に……しようかと思って」
 ふうん、という顔で中尉は上官の顔を見つめ直した。それに気が付き、居心地悪げに上官は顔を逸らす。おかげでますます中尉の確信は深まり、思わず彼女は言わずもがなの事を口走ってしまう。
「ハボック少尉に渡すんですか?」
「な、…っ」
 今度こそ黒髪の大佐は「少々」どころではなく本格的に噎せた。
「……どうしてそんな発想を」
「少尉の瞳と同じ色だと思ったものですから。とても綺麗なターコイズブルー」
 咳こみが止まらず、ついに上官は袖口で口許を覆うまでして俯いてしまう。それを気遣うでもなく、彼女はもう一度指輪に手を伸ばした。自然光に当てるために窓の方角へ少し掲げてしみじみと眺める。
「本当、この緑と青の配分なんてまるで誂えたみたいに彼と同じじゃないですか。ああ、トルコ石は精神の守護石でしたか? ちょうどよろしいんじゃないですか、大佐の護衛官の持ち物としては」
「君、詳しいんだな。──意外と」
 石の価値には興味がないのに、という揶揄がほんの少し含まれた意趣返しだろう。が、こういった事では上官より一枚上手のホークアイ中尉は、
「お忘れかもしれませんが」
 唇の片端を僅かに吊り上げて笑みを作った。
「私、錬金術師を父に持っておりまして。意外な事に」
「そうか。…そうだった」
 降参。というように上官は手をひらりと振った。
 ふうん。結局ハボック少尉に関しては否定しないわけね。ホークアイ中尉は思ったがそれは口にはせず、「では失礼します」と手短かな挨拶でさっさと執務室を後にした。


 残されたロイ・マスタングは『守護の石』を掌で転がしながらため息をつく。
 緑がかった美しいターコイズ。宝石としての価値はないに等しい。それが『宝石』である限りは。
 だがこれは宝石である必要はない。その美しさを金銭で計る必要はない。まじない石に込める思いは人それぞれの価値と意味しかないように。
「───お護り、ね……」
 緑がかったブルーの瞳。それが浮かべる混じりっけなしの笑顔が脳裏をよぎる。
 彼はまた赤面しかかる自分を叱咤しながら、古い指輪を引き出しの一番上に放り込んだ。
 


- end -

2010-4-7







なかなかデレてくんないな、私の書く大佐は…っ!
最初は大佐がハボックに指輪をやる話にしようと思ってたのに、結局こんなんで終わってしまいました。ハボックがこの石をもらえる日は本当に来るのか。なんか来ない気がする。どうしてだ。
そしてこの世界に「トルコ」ってあるのかというと、ないでしょう多分! でも「ターコイズ」と書くより「トルコ石」の方が私のイメージだったので押し通させて頂きました。そう、きっとドラクマの向こう側辺りにあるんですよ…アナトリア半島がね……。