刃-yaiba-



 そうじゃないかと思ったことは幾度かあった。
 確証があったわけじゃない。当時の自分はまだ小学生だったし、おそらくその不穏さの意味自体をよく理解してはいなかった。ただ状況や両親の態度などを見ていて、「よくないこと。しかも決して口にしてはいけないこと」が、兄の身の上にあっただろうと漠然と憶測しただけだった。
 ───漠然と。
 それは啓介の中に根深い翳を落とし続けた。そうと他に悟らせないように、自分でも自覚を懸命に避けるように、深く埋め続けた翳が後になればなるほど、一層にその濃さを増すことをあの頃の啓介は知らなかった。
 だからって。
 だからって、他にどうすることが出来たって言うんだ、オレに。
 表面上では何ひとつも変わらなかった。両親は警察に被害届も出さなかったし、特に啓介の前ではそのことをカケラほども話題には出さなかった。家業が病院とはよくしたもので、「事件」が例え一部分でも公になった様子はまったくなかった。あっけないほど、一家はほんの数日でいつも通りの穏やかさと、いつも通りの生活を取り戻した。日々の歯車を淡々と回し始めた。少なくとも、お互いの視線がある上では。
 
《おにィちゃん》
《おにィちゃんは? ねえ、どこ行っちゃったのさ…っ?》
 あの時、どうして大人たちは応えてくれなかったのか。兄の姿が見えない理由を、なぜ誰も自分に教えてようとしなかったのか。
 あの不安と、焦燥と。
 それが十年近くたった今でも啓介には忘れられない。年月と共に焦燥は育ち、やがて研ぎ澄まされ、ひどく冷たい刃の形で痛みを産む。胸底に冷たく燃え続ける氷の刃。
 
 
 
「なんで?」
「──何がだ?」
 疑問に疑問で返され、啓介は身体を起こしてチッと舌を打った。拍子にベッドのスプリングが膝の下で大きく軋んだ。
「あんた、ホント意地わりィね」
「その呼び方はやめろって言ってるだろ。…おい、しないんだったら退けよ。重い」
 自分の太ももの上に跨がるように居座る啓介の膝を、涼介は邪魔そうに押し返した。
「しねぇとは言ってねえよ。……なぁ」
「だから何だ」
「どうして、オレとすんの?」
 ハナから判っていただろう台詞なのに、涼介は少し眼を見開くようにして啓介を見返した。
「好きだから。お前が」
「ウソだ」
「じゃ、尋くなよ」
 ふっと口許を酷薄そうに歪めて涼介は視線を伏せる。睫の落とす影は濃い。啓介は半ばうっとりとそれを眺める。
「何でかな。…何でオレ、こんな性格悪ぃヒトだけ好きなんだろうね」
「昔からお前の趣味は変わってたな。おまけに人のものと見たらすぐ欲しがるんだ。俺が意地が悪いってんなら、お前はつくづく意地汚いよ」
 かもな、とつられてちょっと笑って、啓介は屈み込むようにして涼介の睫を舐めた。瞬間、涼介の肩がピクッと動いた。
 シャツの胸元に手を差し入れ、ボタンを丁寧に一つずつ外しながら、啓介は涼介の瞼、鼻梁、唇をそっと舐め続けた。そうすれば涼介の上に一枚被さった、透明な薄い皮のようなものが剥ぎ取れる気がしていた。
 熟れきった果実の皮を剥く行為にも似ている。触れれば、ずるりと果肉が表れ、甘い芳香をまき散らしながら啓介を誘うのだ。眼で、舌で、指で、そして餓えた腰の熱情そのもので、啓介はこの甘さにむしゃぶりつく。
「アニキが好きだ…──」
「知ってる」
 いいや、この人は知らない、と啓介は思った。この熱い息の奥に、燃えだしそうな身体の奥に、自分が冷たい刃を隠していることをこの人は知らない。
 最初に寝た時もこの人は逆らわなかった。抵抗らしい抵抗もしなかった。だが啓介の認識の中では、はっきりとあれはレイプだった。同意も、まして言葉すら交わさずに部屋に押し入って、眠っていたこの人の寝巻きを剥ぎ取った。
 混乱は、していたのだと思う。最初、涼介が相手を慣れ親しんだ弟だと気付いていたかどうかは疑わしい。引きつった息を喉に詰まらせ、押し戻すように暴行者の肩に手をかけながら、視線は焦点がまるで合っていなかった。唇は僅かに震えるだけで、否定の言葉も紡がなかった。
《アニキ、…》
 啓介が耳元で囁いてから、初めて涼介は啓介に視線を向けた。啓介が手を伸ばして付けたベッドスタンドの小さな灯りの中で、自分に覆い被さる弟に縋るような表情をチラリと見せた。
 違うよ、と啓介は口にしそうになった。
 違う、アニキ。オレはあんたを助けてあげられない。あんたを傷つけることしかきっと出来ない。だからお願いだ、否定も制止もこんな状況で言わないでくれ。弟に向かっての言葉は、もう聞けないんだ。
 啓介の願いが聞こえたかのように、涼介は一度開きかけた唇を強く噛んだ。その直前に、啓介には聞こえた気がした。
 啓介、と。
 兄が自分の名を呼んだような気がした。
 後のことはよく覚えていない。ぐちゃぐちゃだった。頭の中も、ベッドの上も。おかしなもので、一番記憶に残っているのは感触や直接的な肉体の快楽ではなく、涼介のあの悲鳴じみた吐息や微かな声だ。思い出す度に啓介の腰は容易くうずく。

「アニキ、もちょっと足、開いて」
「ッ、……! も、ムリ…」
 左の掌で押し潰しそうに涼介の腰を捉え、もう片方の腕で白い膝を抱え上げる。押し込んだ芯は熱くうねるようにくるみ込まれる。
 まだ。まだ早い。
「出来るよ、ほら」
 ひゅ、と仰け反った涼介の喉が鳴る。睫の狭間から透明な雫がひと粒落ちる。
 生理的な涙には違いないのに、啓介はそれをいつも不思議な気持ちで眺めてしまう。痛みや、傷や。そういった外的な要因で、この人が涙を流すということがどうしても信じられない。
「……痛い?」
「イ、…タイ」
「優しく、して欲しい?」
 瞼がゆるりと開いて、迷うように視線が揺れる。今度は涼介は答えられない。ひょっとして涼介自身も、答えを持ってはいないのかもしれない。
 だが、「だよね」と啓介は自分も少し掠れた息で笑ってみせた。
「あんた、痛くされんの好きだもんな? 乱暴にされるセックスの方が好きなんだ」
「ち、が…」
 違わないよ。こっちこそ泣き出したい気持ちで啓介は思う。その証拠に涼介の欲望の徴は今にも零れそうだ。指先でまさぐってやると身体が跳ねた。持って行かれそうになって、慌てて奥歯を噛み締めて啓介は耐える。
 まだ。
「ふっ…あ、」
「キスして、アニキ」
「けえ、すけ」
「して。あんたから。──好きだって、言ってよ」
 動きを止めてしまった啓介に、涼介は震える腕を伸ばしてしがみついた。かき抱き、背骨の横に爪を立て、苦しそうに息をつぐ。
「アニキ…っ」
「なんでも、やる。…なんでも…ッ だから、だから啓介…!」
 だから。
 その後を涼介は言葉にはしなかった。だからやめろ、と言おうとしたのか。だから行くな、と。引き留めるつもりで口走ったのか。
 兄弟だ。この閉ざされた場所で、自分たちはたった二人の生き物だ。
 オレは知ってる。啓介は汗ばむ頬を涼介の髪に擦り付けながら考える。なあ、アニキ。オレは知ってる。
 いつまでたっても、オレはあんたの弟以上にはきっとなれない。だけど弟だから。あんたはこれほどに無条件のものを与えようとするんだろう。奪われるより先に与えることが、どこかであんた自身を救うんだろう。
 ───世界でたった二人きりで。
 震える舌を引きずり出して絡めあって、それからムチャクチャな勢いで突き上げ始めた啓介の動きに、ますます必死で涼介はしがみつく指に力をこめた。チリ、と細い痛みが首の後ろに走って、そこに傷が刻まれたであろうことを啓介は知る。
「ン、あ…ッ ヤ…も、…」
「イヤがっちゃ、だめだよ。…もっと、って。アニキ」
「ふ、ゥ…ッ」
「もっと、って。言って」
 汗で滑りそうになる涼介の左膝を、さらに胸にたたみ込むように押し上げる。とっさに竦む身体は、それでも確かに歓喜におののいている。この瞬間だけ、凶器は熱で溶かされる。殺す道具ではなく、刃は互いの繋がりを深く求めるための証になる。
 殺したくないんだ、アニキ、あんたを。
 この刃を滅ぼすための凶器としてふるいたくは、オレはないんだ。例えあんたがそれを望んでいても。
「は…ッ あ、あぁ…っ!」
 悲鳴を聞く。
 誰の声だ、と熱に浮かされながら啓介は思う。オレか、あんたか。世界が崩れていく悲鳴。セックスの深さだけが支える脆い楼閣。

 刃がやがて内側からこの腹を切り裂いて、死ぬんだったら自分が先に殺されたい。



- end -

初稿 2004-10
改稿 2009-11





それまで比較的軽めのばかり書いていたのに、何かブチ切れたようにドシリアスに走った1本。とってもベタな内容だけども気ニシナイ!
初出時、聖地高崎でのオンリー開催に頭が湧いてました。若葉マークのデミオで恐れ気もなく観光もし倒しました。そしてイベント前夜の温泉旅館で必死こいてペーパーを折っていたのも、今となっては懐かしい思い出です……。