眠り姫は王子様の夢を見るか



「この馬鹿野郎!」
「ゴ、ゴメンナサイ…」
「ごめんなさいじゃないッ いくつになってもお前は…ほんとに……大馬鹿野郎!!」


 啓介は昨晩、アニキの部屋のベッドで寝た。色っぽい話ってんでは別段なく、大学に泊まり込みでここ二日帰って来ないアニキに拗ねて、勝手に彼の布団に潜り込んでがっつり寝た。
 ただし翌日に自分も必修講議が入っていたので、一応はアニキの目覚まし時計を借りて枕許にセットした。ちゃんと朝飯食って午前中には大学に出る気でフガフガと眠りに落ちた。
 朝。当然のごとくセットした時間に目覚ましは鳴った。いつもの習慣で目を開けないまま布団から腕だけ出して、手さぐりで音を止めようとするもままならない。寝ぼけた啓介は寝ぼけた頭なりにどうにかしようと頑張ったが、自分の物とは止め方が違うその電子時計は、上についたスイッチを叩くだけでは止まらない。
 イラッときて、意地でも目は閉じたままで指先でさぐり続けて、だけどなんだか音が途中から大きくなってくるし、その電子音たら本当に癇に触るムカつく音だし、──…
 投げた。ほとんど無意識に目覚まし時計本体を。
 次の瞬間、部屋に響き渡ったガラスの破壊音に、さすがに啓介も飛び起きた。何が起きたんだか、しばらく理解出来ずに呆然とした。

「あり得ないだろ!? 何なんだよ、この有り様はっ!?」
 珍しくテンパって涼介が怒鳴る。テンパり具合は寝不足のせいもあるんだろう。
「スイマセン……」
 タイミング悪く、そりゃもうサイテー最悪にタイミング悪く、兄は自宅へ帰って来た。朝イチで帰って来てシャワーを浴びて仮眠して、それからまた大学へ戻る心づもりでいたらしい。
 自分の部屋を開けたらいきなりベランダのサッシが盛大に割れてて、ガラス片はまだ絨毯に飛び散ってる状態で、なぜかその絨毯には点々と血痕まで落ちていて、弟の手には手当てしたての絆創膏が幾つも巻いてあるともなれば。
 そりゃあ怒鳴りたくもなるわなー、ハハハ。
「見せろ!」
「え?」
「手ッ 怪我したんだろ! 見せろ馬鹿!」
 啓介がおろおろしている間に涼介は啓介の手を掴み、まだ血の滲んでいる絆創膏の上から傷を睨んだ。まさか透視してんの!?、とアホな事を啓介がビビっていると、シュウゥ〜、と音がしそうに彼は怒りに突っ張っていた肩を落とした。
「……小さい怪我だけだな?」
「あ、うん」
「破片はよく取ったか? 残ってないな?」
「ガラス拾おうとした時に触って切っただけだから…破片はダイジョーブ……だと思う」
 二人の間を冷たい風が吹き抜ける。心理的表現ではなく物理的に。なんたって真冬の群馬だっちゅーのに、ベランダからの外気が筒抜けなのだからして。
「とり、とりあえずアニキ、…下行かね?」
 少し涼介の目がうつろになりかかっている。本気で体力限界、これは寝不足でぶっ倒れる寸前の顔付きだ。
「シャワー…寝たい……」
「で、すよね!」
 ハイハイハイ、下に行きましょうハイハイハイ!
 抱え込む勢いで階下の風呂場に誘導する。「お湯張る?」と訊いたら「溺れて死ぬ」と端的に答えが返ってきたので、そのまま裸に剥いてシャワー下に突っ込む。
「着替えとバスタオルは出しとくから!」
 ガラス戸越しに怒鳴って、バタバタとアニキの部屋に戻って下着とパジャマを取って来て、洗い立てのバスタオルと一緒に脱衣所に置く。それから今度はキッチンに取って返して、電子レンジで牛乳をチン。
 ひとまず『最強』でリビングのエアコン付けて、温まったマグカップにハチミツとブランデーを小さじ一杯ずつ垂らしていると、よろよろと涼介がリビングに入って来た。バスタオルを頭に被って、うっすら湯気なんかが立ち上ってて、啓介視点で言うなら「美味しそう」な出で立ちで。
 ───は、いかんいかん。そんな妄想に引きずられている場合じゃない。
「待て待て待て、アニキそこで寝ちゃダメ! これ持って、ハイ!」
 物も言わずにソファに倒れた涼介を起こし、慌ててその両手にマグカップを持たせる。また階段を駆け上がり、自分の部屋のエアコンもスイッチオン。
「アニキ、ホントごめん、今日だけ俺のベッドで寝てくんない、──ってだからここで寝たらダメだってー!!」
 戻ると、リビングではやっぱり涼介が潰れていた。テーブルに置かれたマグカップの中身はとりあえずカラだった。
「おーきーてー!」
「ん、んんん……。もういい……」
「いいってナニが!!」
 この人、何でここまでグダグダになってんだろう。疲れ果ててるのも通り越し、物凄く珍しいものを見ている気分。あれか、部屋の惨状にキレた時点でなんかの臨界点ふり切っちゃったのか。
 啓介は必死こいて涼介の体を引きずり上げる。体重差はともかく身長差がなさすぎて階段はツレぇ。(体重は最近、ちょっとばかし啓介の方が増えた。…ちょっと)
 個人宅にしては無駄に幅のある階段を今日ほど有り難いと思った事はない。自分の足で動く気のない人間に肩を貸しつつ、一旦は踊り場で休憩入れて、なんとか自室にまで引っぱり込む。さらにそこからも軽く障害物競争状態になるのは、自分の部屋のデフォルト・とっ散らかり具合のせいなので誰の事も責められない。
「そこ、右足上げないとウォークマン踏む踏むっ! うんそう、ベッドそっちそっち、…ぅあ!」
 床に落ちていたティッシュボックスは潰されて見事にひしゃげた。それでも何とかアニキをベッドに放り入れるのに成功すると、ドッと疲れて啓介はベッドにもたれて座り込んだ。
「……あー、枕はー、今アニキの部屋から持ってくっからー」
 もそもそと枕に突っ伏している様子を見てそんな事を言い添える。
「……で、…い……」
「あい?」
「れ…で、いい…」
 耳をよくよくそばだててみる。「これでいい」とな。
「え、だって俺の匂い付いちゃってんよ? 整髪料の匂い、アニキ嫌がるじゃん」
 俯せの涼介は手探りでこっちに腕を伸ばしてきた。反射的に啓介も握り返す。その絆創膏だらけの指をゆっくりゆっくり掌で辿った後、涼介は深く大きく息を接いだ。
「バカ……バカヤロウ…」
「う、…うん」
「昔っからおまえは……ケガ、多くて…」
「……。うん」
「しょっちゅう…血だらけになって…いつも、泣いて、俺んとこ来るんだ……」
「だったね」
 本当を言うと、それはせいぜい小学生頃までの話だった。中学高校辺りになると喧嘩沙汰の怪我が圧倒的に増えて、その分まではさすがの啓介もアニキに泣き付きはしなかった。
 気分的にはいつも泣き付きたかったのは否定しないが。もとい、泣き付けない換わりによそで大暴れしちゃってたとも言えるんだが。
「俺、ダメダメだからさ? アニキが居ねぇとなーんも出来ねえの。いっつも、なんかあったら泣きながらアニキんとこ帰って来るよ」
 ふ、と涼介は枕に小さく吹いた。瞼を閉じたまま「…ウソつけ」と小声で呟かれたのは聞こえなかった振りをする。
「だからゴメンな? ちゃんと部屋は掃除しとく」
「…バカ」
 ぎゅっと指が一層強く握り込まれる。眠りに落ちかけている涼介の体温はいつも以上に温かい。
 ついでにキス。唇をついばむように軽いキス。微かに動いて、涼介もそのキスには応えてくれた。穏やかな吐息を漏らしてくれた。
「───な、目覚まし。何時にかけとけばいい?」
 小声でそっと尋ねてみたら、もう答えは返って来ない。本格的に睡魔に引きずられて落ちたらしい。
 えーと、しまったどうしよう。ひとまず2時間ぐらいしてから声かければいいのかな。パジャマに大人しく着替えたって辺りで、最低でも2時間ぐらいは寝るつもりだと判断して。
 もったいなくて、こんな涼介の指をほどく事が自分には出来そうにない。自由な方の手で布団を肩までしっかり引き上げてやり、啓介は再びベッド脇に本格的に座り込み直す。大好きなヒトの寝顔をじっと黙って眺めるために。
 本日の講議はここで完全に放棄した。理由を聞いたらまた「馬鹿!」と涼介には大上段に怒鳴られるだろう。でも今はこれが一番大事。ごめんなさい、あんたの眠りの番人以上に、俺にとっての大事な事なんて今はひとつも思い付かない。

 自分まで体温上がってきて、切り傷はちょっとだけズキズキする。なのに何だか啓介は幸せな気分になってしまう。今だけは片付けなきゃならない部屋の惨状も何もかも忘れて、ひたすらうっとりと眠り姫の寝顔に見とれた。



- end -

2010-02





バカップル、馬鹿日常。