元参院議員・和田ひろ子さんに聞く
主婦達の切実な願い 「水洗トイレがほしい」に政治、行政はどう応えるか。
大震災被災地の下水道施設を見て切実に感じたことは、「大規模」を考え直さなくてはならない。
     「復興とは原状に戻すことではない」
     語る和田さん
2012年(平成24年)新春インタビューの第2弾は、福島県会津坂下町の和田ひろ子さんです。2012年が明けて早くも1カ月余り、あの東日本大震災からまもなく1年になります。和田さんは、昨年10月、仙台で開催された連絡協議会技術研修会の折に、南蒲生、石巻など津波被災地を視察し、壊滅的被害を被った浄化センターを目の当たりにしましたが、かつて参院議員として日本の政治の中枢にいた立場から、今回の震災をどうとらえているか、を中心に伺いました。

 インタビューに入る前に、和田ひろ子さんのプロフィルを簡単に紹介しておきます。
 和田さんは会津坂下町生まれ。隣りの会津若松市にある会津女子高(現会津葵高)を卒業して、同じ会津坂下町の浄土真宗のお寺に嫁ぎました。ご主人は福島県議会議員。自民党の福島県支部を牽引するような枢要な立場で活躍していたのですが、51歳で突然亡くなってしまわれました。それまで政治家の妻として、夫を支え、家庭を守ってきましたが、大黒柱を失っての悲しみにくれたのもつかの間、すぐに周囲の強い声によって、政治の世界に身を投じることになります。夫の地盤を引き継いで、和田さんは県会議員になったのです。県議を2期つとめたあと、今度は国会への道が開かれます。1995年(平成7年)7月の参議院議員選挙に新進党公認候補として立候補して当選。後に民主党議員として2期務められます。3期目は周囲の声を退けて引退を表明して、またもとの「主婦」に戻ったところです。


 インタビューは雪に覆われた会津若松市の鶴ヶ城に近い自然料理の店で昼食をとりながら行いました。





――まず壊滅的な被害を被った被災地の下水道、大規模浄化センターをみた感想から伺います。
和田 本当にひどいことになっている、と痛感しました。施設も壊滅していますが、そのセンターまで運んでくる途中の施設もやられています。つまり一般家庭のすべての汚水処理が止まってしまったわけですよね。これは主婦にとっては大変な苦しみだと思います。浄化センターの担当者の方々は懸命に努力されておられることはよくわかったのですが、その基本的な考え方にふと疑問を感じました。担当者の方々は口々に「1日も早く原状に復する努力しています」とおっしゃいます。でも「原状に戻す」という考え方でいいのでしょうか。「原状」そのものが間違っていた、という認識はないようでした。
   和田さんは、「主婦の願いは、水洗トイレ・
   汚水処理の解決」と言う
――それはこれまで行ってきた日本の下水道行政の在り方そのものに関わる問題ですね。
和田 そうです。日本の下水道は そのほかの道路やダム、鉄道などと同じように、大規模がいい、という価値観で進められてきました。そのほうが派手だし、人の目も引く。でもそのやり方では、今度のような事態になると、全部が壊れてしまって、まったく機能がマヒしてしまう。つまり下水道は大規模ではだめなのです。もっと小さくて、自分たちの身の丈に合ったものでないといけない、ということが今度の震災ではっきりしたと思うのです。
――和田さんの地元の会津坂下町では20年も前に、小さな施設をいくつか作って、それで全地域の公共下水道を完備させるというやり方を全国に先駆けて採用されましたね。それには和田さんたち主婦の力が大きかった、と聞いていますが。
和田 当時、新聞には「主婦のパワーが下水道を作った」というように書かれましたが、別に主婦が作ったわけではない。主婦の声を町が組み上げて、まだ全国的にその実績も十分に浸透していなかった土壌浄化法に着目して、大変な苦労を積み重ねて作ったものです。でも今になって、その考えが正しかった、と証明されましたよね。会津坂下町は津波の被害こそありませんでしたが、地震の揺れは震度5強の激しいものでした。それでも下水道設備はびくともしませんでした。また福島県は浜通りの原発事故によって、たくさんの避難民が生まれ、その人たちを受け入れるというのが大きな課題になりましたが、坂下町も避難民の方々がピーク時で1,000人ほどおられました。が、その避難所での下水道の問題は他と違ってほとんど起らなかったと聞いています。
――会津坂下町に公共下水道を作るにあたっての「主婦の力」というのは、具体的にどういうことだったのでしょうか。
和田 まずトイレでした。主婦たちが集まると決まって「水洗トイレがほしいね」という話になりました。都会から孫たちを呼ぶにしても「おばあちゃんの家のトイレは臭くて怖いからイヤ」と言われるのです。いわゆる汲み取り式で、それは子供達にとっては怖いものでしたからね。孫たちを安心して呼べる水洗トイレ、というのが私たち主婦の夢でした。実は私の家は坂下町役場の目の前にありまして、しかも役場の浄化槽からすさまじい悪臭が押し寄せてきていました。風向きによっては我慢できないのでずいぶん役場に苦情を言いました。それも下水道ができることで解決されるわけです。大規模下水道設置には莫大な費用がかかるし、行政的な手続きも大変ということで、ほとんど叶わぬ夢だったのですね、当時は。そのころ、隣の若松に来ると、至る所で道路をひっくり返して、下水道工事の真っ最中でした。それを見ながら、羨ましいと思う反面、坂下ではこんなお金のかかることはできないなあ、とあきらめの気持ちも起ったのです。
――それを会津坂下町は、率先して土壌浄化法による小規模下水道を採用したのですね。本当に先進的な町ですね。
和田 20年たって、この土壌浄化法による下水道は何も問題が起こっていませんからね。日本各地からの視察も盛んなようですし、外国からも見学来られる人がいます。今後は、というか今だからこそ、会津坂下からこの土壌浄化法による下水道のことをどんどん発信していかなくてはならないと思います。
――震災からの復興ということで、大規模浄化センターの機能回復にはまだ当分の時間がかかる。それを埋めるためにいわゆる小型合併槽を、という動きが急になっているようですが。
和田 私もそう聞いております。確かに緊急的な対策として小型合併槽はいいのかもしれませんが、問題も沢山あります。メンテナンスが大変ということです。定期的な保守点検を自分たちでやらなくてはならない。今年の豪雪で雪下ろしが大変という問題が起こっていますが、小型合併槽でも同じ。お年寄りしかいない家庭で、この保守点検などできるのでしょうか。おそらくできません。点検できないということは合併槽が機能麻痺をおこすことにつながりますし、処理されていない汚水で土壌が汚染されるなど自然破壊も起こりかねません。これでは何にもなりませんよね。
 こういう時だからこそ、この土壌浄化法連絡協議会の存在が大変に大きいということになりますね。





 このインタビューを聞いていた料理店のおかみさんが近付いてきてこう言われました。
 「実は私のところでも下水処理に困り切っているのですよ。会津若松の下水道もまだここまで来ていなくて、店の汚水、トイレをどうするか、本当に困り果てているところです。沢山お客さんに来てもらいたいのですが、トイレのことなど考えると、頭を抱えてしまいます。いい知恵があったら教えてください」
 被災地の下水道だけではない。直接震災被害のなかった、会津若松市の中心部近くでもこのような悩みを抱えていることを奇しくも思い知ることになりました。
 和田さんは「このように下水道問題は、今日の問題ですね」としみじみ言われたのが印象的でした。 
                                     
(聞き手・遠藤 満雄)





 和田さんは、「会津の女」である。会津は歴史上幾多の英傑を生んできたが、優れた女性も多い。
 その一人に大山(山川)捨松がいる。戊辰戦争で8歳ながら母や姉達と籠城戦に参加、砲弾運びや負傷者の看護もした。会津は戦いには敗れたが、明治4年、捨松は日本初の女子留学生5人に選ばれ、11歳から22歳までアメリカで過ごした。帰国後は薩摩出身の大山巌公爵夫人となり、鹿鳴館の華とうたわれ、日本外交を陰で支えた。
和田さんに鶴ヶ城に程近い捨松誕生地に雪の中を案内してもらった。奇しくも時を越えて「会津の女」の対面である。