航空母艦 『赤城』

『赤城』は、日本海軍が計画した八八艦隊計画により、巡洋戦艦として建造され、進水しました。
しかし、完成前にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、主力艦のトン数制限がかかり、廃艦になるところでしたが、当時の補助艦艇に分類されていた航空母艦に改造され、無事完成した艦です。

『赤城』は、昭和2年の3月に就役以来、太平洋戦争開戦まで一度も実戦に参加することがありませんでした。
太平洋戦争開戦時、『赤城』は、僚艦『加賀』とともに第1航空戦隊を編成していました。昭和16年11月下旬、択捉島ヒトカップ湾集結した総勢31隻の機動部隊に旗艦として参加、この機動部隊が昭和16年12月8日にハワイ真珠湾を攻撃し、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えました。

その後、インド洋にて作戦行動に従事し、『赤城』以下の機動部隊は、イギリス東洋艦隊に大打撃を与えるなど活躍していました。
昭和17年5月、ミッドウェー作戦が発動されると、南雲中将指揮の機動部隊旗艦として、5月27日広島県呉を出撃、6月4日にはミッドウェー島に攻撃隊を発進させました。しかしこの時すでにミッドウェー島付近にはアメリカの空母機動部隊が待ち構えており、索敵の不備等から敵の先制攻撃を許しました。

6月5日、『赤城』はアメリカ海軍空母『エンタープライズ』艦載機の急降下爆撃を受けて、爆弾2発が上甲板に命中、1発が至近弾となりました。命中した2発は1発目が中部エレベーター付近から飛行甲板を突き破って格納庫内で炸裂、2発目が後部甲板で炸裂し、操舵装置も破壊されました。格納庫内には艦上攻撃機や艦上爆撃機が攻撃準備のため燃料を満載し、魚雷、爆弾を装備中だったため、中央部に命中した爆弾により、これらが誘爆を始め、これが『赤城』にとって致命傷になりました。

大火災を起こし、舵もなおらないまま円を描くように航行を続けていましたが、12時過ぎには機関科が火災により全滅。19時20分に艦長青木泰二郎大佐は艦の復旧を断念し、総員離艦を下令しました。
翌6日2時55分、司令部は大破漂流する『赤城』の撃沈処分を命令しました。

雷撃処分を命じられた第四駆逐隊の4隻の駆逐艦から各1本計4本の魚雷が発射され、そのうち2ないし3本が命中し、昭和17年6月6日2時、北緯30度30分、西経178度40分の海上にて、『赤城』は艦尾から沈んでいきました。


歴代艦長

1925.12.1〜1927.11.30 梅津良太郎 大佐(艤装員長)
1927.12.1〜1928.12.9 小林省三郎 大佐
1928.12.10〜1928.10.7 山本五十六 大佐
1928.10.8〜1929.10.31 小林省三郎 大佐(再任)
1929.11.1〜1930.10.25 北川清 大佐
1930.10.26〜1930.11.30 原五郎 大佐
1930.12.1〜1931.8.27 和田秀穂 大佐
1931.8.28〜1931.11.30 大西次郎 大佐
1931.12.1〜1932.11.30 柴山昌生 大佐
1932.12.1〜1933.10.19 近藤英次郎 大佐
1933.10.20〜1934.10.31 塚原二四三 大佐
1934.11.1〜1935.11.14 堀江六郎 大佐
1935.11.15〜1936.11.30 松永寿雄 大佐
1936.12.1〜1937.8.26 寺田幸吉 大佐
1936.8.27〜1937.11.30 茂泉慎一 大佐
1937.12.1〜1938.11.14 水野準一 大佐
1938.11.15〜1939.11.14 寺岡謹平 大佐
1939.11.15〜1940.10.14 草鹿龍之介 大佐
1940.10.15〜1941.3.24 伊藤皎 大佐
1941.3.25〜1942.4.24 長谷川喜一 大佐
1942.4.25〜1942.6.6 青木泰二郎 大佐(1942年4月25日 -)