冴え冴えとした白い夜。凍える空気で胸が凍傷になりそうだ。空も大地も見渡す限り黒と白のコントラスト。輝く月さえ白く、眩いばかり。

 突き刺さるほど清涼な空気が流れ込む。風に乗って鎮魂の歌が聞こえる。いつまでも途切れることもなく。それはもう歌ではなく、風なのかもしれない。


 目の前に立ち塞がる岩、岩、岩。俺はあとどのくらい、こんな処にへばり付いていればいいのか。確かに他の場所に比べたら安全なのかも知れない。白剽虎にも大百足にも遭わずに済んでいる。今のところは、ではあるが。足場もいいのだろう。こうして文句が言える余裕があるのだから。

 俺の体は、あちらこちらに打撲や、擦り傷を負っている。この程度で済んでいるのは奇跡だと思わなければならない。

 だが、そもそも、このルートなら絶対に大丈夫だと言ったグラリスの高官達を信用してはいない。奴らは自分の身さえ無事ならば、他はどうでもいいと公言して憚らない。俺のような下っ端が生きようが、死のうが構った事ではない。

 ましてや、今回手引きしている谷の者は女だという。この状況にどんな好機を見出せばいいのだろうか。

 だが、今グラリスは破滅の危機を迎えている。この際、『魔物』だろうが『金の亡者』だろうが利用できるものは最大限に生かさなければならない。俺は自分の国を守るためならば、どんな努力も惜しまないつもりだ。例えそれが卑怯なやり方だったとしても。

 目に入る汗を拭うこともできずに、天を仰ぐ。変わり映えのしない岩が、視界を埋め尽くしている。もう何度となく落とした疲労の吐息を吐き出す。『サフィーア』とかいう女は何時になったら現れるのだろうか。やはり谷の者など信用してはいけなかったのではなかったか。

 急に風が強くなった。ただでさえ不安定な足場が、さらに危うくなってくる。低く唸るような突風。だんだん近づいて来るようだ。

 否、これは…………

 「  白剽虎っ」

 言葉を発するのと同時に、足下の岩が崩れ落ちた。俺は全身を痛めつけながら登ってきた傾斜を滑り落ちていく。

 気を失う寸前、細い腕に俺の身体が引き上げられる感覚がした。『サフィーア』がやっと現れたのだろうか。


 まどろみの中、耳元でずっと風の音がする。心地良いような、耳障りのような不思議な感覚。さっきまでの轟々と吹きすさぶ風とは大違いだ。

 そういえば、音だけで身体に風を感じない。俺は慌てて目を開ける。見慣れぬ風景。急激に今までの出来事が蘇る。

 だとしたらここは【赤生谷】なのか。俺は成功したのだろうか。身体を起こそうと力を入れる。激痛が走り、身じろぎもできない。

 風の音が変わった。俺はどうやら白剽虎の隣に寝かされていたらしい。どうにか首だけ廻らせると、白剽虎が立ち上がったのが見えた。何やら嬉しそうに見える。訳もなくそう感じた。

 「まだ動かぬほうが良いぞ。」

 口調に似合わぬ高い声。

 「死にたいと言うのなら別だがな。」

 白剽虎はこの声の人物を好いているのだろう。声の主は俺の傍らに立膝を付いて座った。

 よく日に焼けた肌、すらりと伸びた手足。まだあどけなさの残る顔には強い意思を宿した瞳が輝いている。眩しいほどに真直ぐな少女。

 「私は戌秋の長、マルガリート。」

 長、この少女が……

 驚きを隠すこともせずに不仕付けな視線を送る。それでも少女は臆した様子も見せない。姿勢よく正した上半身を軽く捻り、黒曜石の煌めきを愛虎に向けた。

 「この仔は瑠璃。」

 ほんの一瞬だけ、幼げな表情になる。

 「白剽虎の恐ろしさは、承知の様子。」

 視線はまだ戻らない。

 「馬鹿な考えは起こさぬ方が、御身の為。」

 白剽虎が彼女に寄り添うように、擦り寄る。愛しげにその喉元を撫で上げる。鈴を振るわせたような音がして、目を細める魔物。恐ろしい光景のはずなのに、その絆の深さに思い至り暖かいものさえ感じる。

 「して、貴殿は何者ぞ。

 ここを赤生の谷と知って来やったか。」

 不意に射すくめられ、たじろいでしまう。この少女を前に後ろめたさを持たずにいられるほど俺は、無神経ではなかった。

 きつい巻き毛の短めの髪が、燃え上がる日輪を思わせる。俺は早々に窮地に立たされてしまったらしい。汚れ無き輝きに屈して、視線を逸らす。

 「私は、この白水川の下流に住むカライスと申す者。」

 意を決して彼女を見詰め返す。

 「私は、強くなりたいのです。街を戦火から護りたい。そのために赤生の戌秋のお力をお借りしたい。

 その一心で参りました。」

 決められていた台詞を一気に言い終えると、力が抜けてしまいそうだった。だが、これからが勝負なのだ。彼女の表情を伺うと、困惑したように眉根を寄せていた。

 「しかし、街の者は赤生を恨んでいると聞き及んでいるが。」

 「  それは否定いたしません。ですが、この度は、私個人の考えで参りました。ぜひ私に戦い方を伝授して頂きたい。」

 ここまでは予測していたやり取り。俺は慎重に会話を進めなければならない。

 「ずうずうしい願いなのは、承知の上。会得出来ようとも思えませぬ。ただ、切羽詰まった状況は察して下され。

 誇りを傷つけられたと思われましたら、この場で切り捨てて下さっても構いませぬ。」

 一世一代の名演技だと自分でも思う。後は彼女の出方を待つ。

 「それは殊勝な心がけだが、」

 彼女は言葉を途切れさせ、まじまじと俺を見た。国では『ペンよりも重いものを持ったことのない優男』と称されても反論の仕様が無いほど、武芸には無縁の生活をしていた。戦闘能力に秀でた戌秋の一族の彼女からみたら、どれほど頼りなげに映るのだろうか。

 俺はなぜだか彼女に軽蔑されることを恐れた。

 「先ずは、その傷を癒されることであろう。」

 明らかに哀れみの眼差し。

 「人には向き、不向きというものもある。」

 俺は絶え切れずに固く目を閉じた。

 「  暫くはこちらで養生なされ。その間ごゆるりと考え直されるも良かろう。」

 俺は言葉が返せなかった。取り敢えず成功したというのに、悔しさが込みあがる。また違う風の音がする。

 「マルガリート。」

 何かを引きずっているような音。白剽虎が軽く威嚇するような声をあげる。

 「兄上。」

 彼女は俺から離れ、きちんと座りなおし頭を下げた。

 「こは何者ぞ。」

 「申し訳御座いません。」

 「ただ謝られても、訳が分からぬ」

 彼女の兄らしき男はいかにも戌秋の男といった風貌で、相当に威圧感があった。惜しむべきは足が不自由らしく、杖を突いていた。かなり昔かららしく、杖は随分と使い込まれていた。彼女は「瑠璃」を軽く諌めながら俺の顔をちらりと見やった。

 「ご覧の通りの怪我人で御座います。私はこの者を、治癒するまでここに留まらせてやりたいと思います。」

 この場は、固唾を飲んで見守っているしかない。彼女が俺を信用してくれていることが、喜ばしくもあり、心苦しくもあった。

 男は怪訝そうに顔を顰めている。

 「ルトゥ兄様……」

 彼女は急に心細そうな顔付になった。

 「お前は何も分かっていないのだ。

 今この谷を取り巻く状況が、どれほど過酷であるかも。」

 彼女は俯き、今にも泣き出しそうな様子だ。男は大きな溜息をついた。

 「  まあ、その責は私にもあるのだがな。」

 男は居心地が悪そうに顎を撫で回している。妹にはどうやら弱いらしい。

 「好きにするがよかろう。戌秋の長はお前なのだから。だが、他の者たちは何と言うか。それはお前が説得せねばなるまいぞ。」

 「承知。」

 瑠璃が再び威嚇の声をあげた。

 「やれやれ、私も嫌われたものよ。煩者は退散することにしよう。」

 男は俺に一瞥だけ投げ、元来た方へ戻っていった。彼女は伏してそれを見送る。

 「  いつもいつも、分かっていないと責めるばかり。誰も何も教えてはくれない……」

 彼女の瞳に輝きが戻らない。力無く呟くと立ち上がった。

 「私はこの谷から出たことが無い。傷が癒えたら、ぜひ外の世界を教えてくだされ。」

 そして少し哀し気に微笑んだ。

 「ごゆるりと休まれよ。」

 彼女が歩き出すと瑠璃が後を追った。一人残された俺は、一波乱潜り抜けた安堵感に包まれていた。代わって襲ってくる眠気に足掻いもせず、眠りに落ちていく。

 だが、初めて自分に向けられた彼女の笑顔は何時までも脳裏から離れなかった。


 谷の入り口に立派な館がある。ここは行商や交渉を担当している『白冬』の一族が住んでいるのだという。その裏手には細工を作る工場。その周囲には奇妙な朱色の板が乱立している。そもそも建物の壁は皆、丹で塗られ異様な空間を作り出している。その棒切れは卒塔婆なのだという。

 その奥手に川が流れ砂金の採集場、溶鉱炉、崖から幾つもの坑道が開いている。

 細工の工場には『酉夏』の一族が、坑道には『申春』の一族が住んでいる。そして『戌秋』の一族は『白冬』の館の右手に質素な館を構えていた。

 これが谷のすべてなのか。あまりにも小さな空間。閉鎖された社会。一番数の多い『申春』の一族でさえ数十人といったところか。こんな小さな谷の何を、人々は恐れているのか。だが、確かにこの独特の雰囲気には空恐ろしさをかんじるが……。

 俺は『白冬』の館で行われる、寄り合いに引きずり出されることになっている為、マルガリートに案内されてここまでやって来た。

 道すがら教えられた谷の様子は少なからずのショックを俺に与えた。

 控えの間で一人、待たされながら俺は考え続けていた。こんなささやかな暮らしを壊して、得られるものは一体どれくらいあるのだろうか。そっとしておいてやることは出来ないのだろうか。

 そこへ、やっと協力者の女が現れた。

 「私は白冬のサフィーア。どうやらご無事なようで。」

 なるほど、さすがは白冬の一族。噂に違わぬ美しさだ。軽いウエーブの入った長い髪を無造作に掻き揚げると甘い香りが漂う。一瞬、時を忘れて見とれてしまう。しかし、儚げな佇まいに不似合いな強い瞳。赤みの強い紫の力強さに気づかなかれば、ころりと参ってしまっただろう。

 「今ごろ現れて、一体どういうつもりだ。俺は死にかけたんだぞ。」

 彼女はさも可笑しそうに、声をあげて笑った。その表情がまた、花のように美しい。

 「それはそれは悪う御座いました。」

 気を張っていなければ、怒りも忘れてしまいそうだ。

 「でも、考えても御覧なさいな。私とて、危険を犯しているんですよ。お前様もそれなりの覚悟がおありにならないと。」

 ちらりと流し目を送ってくる。思わずぞくりとしてしまうこの身が恨めしい。

 「逆にお怪我をされて、よう御座いました。思っていたよりも巧く入り込めたではありませんか。」

 そうしてまた、ころころと笑う。

 「よくもそんな心にも無いことを。最初からの計画であったろうに。」

 俺は出来るだけ冷静を装って強がる。

 「お前にしてみたら、俺の器量を測るつもりもあったのであろう。」

 「さあ。

 私には難しい駆け引きは解りませぬ。」

 小首を傾げてみせるその姿も、心を惹きつけてやまない。彼女の存在そのものが武器であると、今更ながらに思い至る。

 「  食えぬ人よ。」

 俺にはそう返すのが精一杯であった。彼女は言葉を告がず、微笑みだけ返した。

 「なぜ、グラリスに協力を。」

 彼女の表情から笑みが消える。

 「それを聞いてどうなさいます。

 ご安心くだされませ、私はこの谷に愛着など御座いません。」

 だが、それも一瞬のこと。すぐに思い出したように笑みを貼り付ける。

 「そう申し上げても、なんの慰めにもなりはしないでしょうけれども。」

 「  悪かった。信用しよう。」

 ここまできてしまった以上、後戻りは出来ない。彼女の手中に全てが握られていると言っても、過言ではない。腹を括らなければ成らない。

 「そなたに、俺の運命を預けよう。」

 自分一人では何事も成すことは出来ない。力を過信する愚かさは、承知しているつもりだ。

 彼女は少しだけ意外そうな顔をした。戸惑っているのかもしれない。身体を強張らせたようだ。

 「外見に似合わず、剛胆でいらっしゃる。」

 彼女は初めて真顔で俺の顔を見詰めた。自分の方こそ彼女に信用されなければならない。俺は視線を逸らさずに、真直ぐ彼女を見詰め返した。

 「俺を助けてほしい。」

 彼女は軽く息を吐き出して、肩を竦めた。

 「  微力ながら。」

 今までとは雲泥の差の、意思ある瞳で微笑んだ。少しは心を開いてくれたのだろうか。俺は曖昧に微笑みを返した。なぜだか彼女の奥底に潜む影が、透けて見えた気がした。

 自分の力で彼女を救うことは出来ないものかと、ぼんやりと考えていた。自分の立場も忘れて。別に彼女が望んだ訳でも無いと言うのに。お互いに何かを伝えようと口を開きかけた時、奥の扉が厳かに開けられた。

 いよいよ話が纏まったらしい。

 「カライス殿、中へ。」

 現れたのは戌秋のルトゥ。マルガリートの兄であった。

 「御意」

 俺は短く答えると、導かれるまま奥へ向かった。折れているらしい肋骨が、急に疼きだしたのを感じた。


 その広間には、やはり朱色の絨毯が敷き詰められていた。壁には豪華な金細工が蠢き、少々悪趣味な感じがした。しかしこの財力は捨てがたいかもしれないと、ちらりと考えた。

 中には小柄だが、やけに筋肉室な強面の男が三人。これは申春の代表者。盲目らしい老人が一人。線の細い神経質そうな男が一人。この二人が酉夏の代表。そして戌秋からはルトゥとマルガリート。白冬からはサフィーア。全部で八名。一様に睨まれると、さすがに身を竦めるしかない。

 「サフィーア、お主今までどこに居ったのだ。」

 ルトゥが幾分強い口調で口火を切った。

 「今、谷にいる白冬の者はお主しか居らぬのは、解っておろう。」

 サフィーアは臆した擁すもなくのんびりと欠伸をした。

 「申し訳御座いませぬ。しかし白冬の意見など不要に御座いましょう。」

 「サフィーア、口が過ぎようぞ。」

 盲目の老人が諌めた。一気にこの場の雰囲気が険悪になる。

 「して、何をしていたのだ。」

 やはり俺と二人で話していたことが、ルトゥは気になるらしい。

 「お呼びが掛かりましたので、大広間に向かいましたところ、見知らぬ色男が居りましたゆえ、ちょっと立ち話を。」

 彼女は悪びれた風もなく、淡々と話す。

 「白冬に迎えようかと思いまして。」

 一同は一様に呆れ顔をした。深々とため息をついた者。苦笑いを浮かべる者。軽蔑の意を隠そうともしない。何時ものことなのか、彼女も平然としている。筋肉質の男が一人咳払いをした。

 「わしは、申春のカダンと申す。」

 来た。いよいよ俺の番らしい。

 「カライス殿、結論から申す。」

 いささか勿体ぶった調子で男は続ける。

 「お主を谷の客人として扱おう。」

 意外な展開にこちらの方が驚いてしまう。こんなにあっさりとしていて、いいのだろうか。

 「前例として、外部の者をこの谷に入れたことがない。しかし、今回は負傷されているとのこと。特例として認めよう。だが、二度目はないものと心得よ。」

 「はっ、有難き幸せ。」

 「また、今回は戌秋の一族のたっての、願い。その恩を確と心に刻まれよ。仇成す時は容赦せぬ。」

 「心得て御座います。」

 罠かもしれない。それでも構わなかった。

 谷の内部に潜伏することが、俺の目的。その使命は果たされた。俺は戌秋の一族の監視のもと、谷に滞在することを許されたのだ。


 谷に入り込むことに成功した俺は、しかし特に成すべきことがなかった。

 潜伏成功の報はサフィーアがグラリスに伝えている。俺は次の司令を待つのみ。

 二、三日もすると、傷も癒え少し歩き回れるようになった。最初は遠巻きに見ていた谷の者も、少しづつ近づいてくるようになっていた。

 まずは谷の子供たちと他愛もない話をした。子供たちは谷の話をし、俺は外の様子を話して聞かせた。簡単な玩具を作ってやると、夢中になって遊んだ。

 屈託の無い様子は、どこの子供も一緒だ。子供が懐いてくると、大人たちも徐々に話しかけて来るようになる。

 みんな外部の情報に飢えていた。もの珍しさや怖いもの見たさもあったのだろう。一度切っ掛けを掴むと、次から次へと質問してくる。特にマルガリートは、よく話しを聞きにやってきた。

 もうかれこれ、谷に滞在してから二十日ほど過ぎた。珍しく俺の周りに人が居らず、一人で砂金採りの様子を見ていた。そこへマルガリートがやってきた。

 「砂金採りが珍しいですか。」

 彼女の口調も最初の頃からは大分砕けた感じになってきていた。

 「ええ、まあ。あの、キラキラ光って見えるのが金なのですか。」

 彼女は指差す方向を振り返り、クスリと笑った。

 「いいえ、あれは金雲母。金はこんな遠くから見えるほど光りません。」

 「金ではないのですか。」

 彼女はゆっくりと頷いた。

 「光るだけです。」

 彼女は面白そうに微笑み続けている。

 「どうかしましたか。」

 「ごめんなさい。

 何でもよくご存知なのに、金雲母も知らないなんて。なんだか不思議で。」

 「私の知識など、ちっぽけなものです。

 それにしても美しいものですね。」

 彼女はもう一度振り返り、小川を見下ろした。

 「そうですね。今まで気に留めたこともありませんでした。」

 そう呟いて、今度は谷全体を見回した。

 「カライス殿の目を通すと、見慣れた谷が新鮮に思えます。本当にあなたは不思議な方ですね。」

 「それは褒め過ぎですね。私はなんの力もない、無力な男です。」

 「そんなことは、ありません。」

 勢いよく振り返ったので、彼女はバランスを崩し、倒れそうになった。

 「危ない。」

 俺はおもわず、手を差し伸べ抱きかかえるような態勢になった。

 「 ご、ごめんなさい。」

 「どうしました。あなたらしくもない。」

 「 ……私、稽古の時間が。失礼致します。」

 彼女は慌てて走り去ってしまった。俺はそれを唖然と見送りながら、感情をもてあましていた。

 その一方で、もちろんサフィーアとも連絡を取り合っていた。なかなかグラリスからは、連絡が届かなかった。少々焦りの気持ちも出て来ていた。

 「まだ、なんの指令も下されないのか。」

 自然と口調も険しくなる。

 「そんな怖い顔しないでくださいな。」

 彼女はのんびりとした態度を崩さない。

 「お茶でも如何。母国のお茶ですよ。」

 湯気からは確かに懐かしい香りがした。その香りに混じって、彼女の髪の甘い香りも立ち込める。

 使命を忘れるなという理性と、堕落してしまいそうな感情とが攻めぎ合う。

 「焦っても、良い事は在りますまい。」

 何度見ても見飽きない。相変わらず美しい佇まい。その仕草の一つ一つを目で追ってしまう。彼女が俺の顔を覗き込み、微笑みかける。俺は深く息を吐き出し、呼吸を整える。

 「八つ当たりをした。悪かった。」

 彼女はそっと首をふり、再びお茶を勧めた。一口含むと、それは最高級のお茶であると思われた。それとも煎れ方が良かったのか。ともかく、俺が今まで飲んだ中で、一番美味いことは確かであった。そのまま一気に飲み干す。

 「馳走になった。 美味かった。」

 彼女は満足げにカップを受け取る。

 「さあ、そしたらお行きなさいな。こんな処に長居は無用。」

 俺は無言で頷き踵を返す。彼女は立ち上がり見送ってくれる。

 「ああ、忘れるところだった。」

 手習いの子供たちと混じって、ふざけて作った櫛を彼女に手渡した。

 「これは……。」

 彼女は怪訝そうな顔をした。

 「そなたにはもっと豪華なものが似合いだろうが、俺の手製だ。良かったら使ってくれ。」

 急に照れ臭くなった。ぶっきらぼうに告げて、早々に立ち去る。

 残された彼女はまじまじとその櫛を見た。無骨な彼の性格が、滲み出ているような櫛を、そっと胸に押し当てる。優しさが染み込んでいるようで。

 「なんて無垢な男だろう。」

 とうに忘れたはずの切ない想いが、込み上げてくる。そして、自分と関わってはいけない者だと思い知る。

 「あたしなんかに、染まっちゃもったいない……」

 その呟きがさらに心を凍えさせた。


 谷に来てから更に十日が過ぎた。現在の俺は戌秋の者達に混じって稽古をするようになった。

 一族の者達とは、身体の造りからして違うようだ。付いて行くのも一苦労だ。

 例の一件からか、マルガリートには避けられているようだ。グラリスからの指令も無く、俺は平穏な日々を過ごしていた。

 サフィーアはまた行商に出ていた。今回こそはと思われるが、俺の中ではどうでも良くなってきていた。谷の者達と親密に成り過ぎていたのかもしれない。連絡が無いということは、その必要性が無くなったのだと、安易に考えていた。

 「カライス殿。」

 不意にルトゥに呼び止められた。

 「傷の様子も、もうよかろう。そろそろお国に帰られてはどうか。」

 申し出はもっともなことだ。もともと招かざる客なのだから。俺は断る理由もなく承諾した。

 「では、明日の朝発つことに致します。長々とご面倒おかけ致しました。」

 ルトゥは満足げに頷くと、安堵の色を見せた。俺はというと、この谷を去るのかと思うと、少し寂しいような気がしていた。

 なぜだが、二人の少女の顔が交互に脳裏を彩っていた。


 「あら、珍しいお客様だこと。」

 気配に気づいたサフィーアは、そう声をかけた。かけられた方は気まずそうに、頭を下げる。

 「遠路、戻られたところ、大変申し訳ない。」

 訪問者はマルガリートであった。

 「頼みたいことが在る。」

 「益々珍しいこと。戌秋の長が、白冬の者なぞにどんなご用件がお在りになるのやら。」

 マルガリートはいたたまれずに唇を噛んだ。この場に至ってもまだ、躊躇しているようだ。

 「そう、嫌味を言ってくれるな。ずうずうしいことは、百も承知している。」

 サフィーアはやっと真直ぐマルガリートに向かい合った。続きを急かすように彼女の瞳を見据える。

 「カライス殿を……谷に残したい。」

 言ってしまうと少し、楽になったのか顔に生気が戻った。それもと上気しているのか。サフィーアは顔にこそ出さないが、驚いているようだ。

 「白冬の一族に、迎えることは可能であろうか。」

 他の者が聞けば、一笑にふされるおこだろう。だが、サフィーアには出来なかった。どれほど思いつめて、ここにやってきたのか。その真剣さを笑い飛ばすことなど、出来るはずもなかった。

 外見の雰囲気があまりにも違うため、気づき難いが歳もそう変わらない二人であった。だが、実際のところ不可能であることは明白だった。サフィーアは憐憫の表情を浮かべた。

 「そなた、カライス殿のことを……」

 マルガリートは身体を強張らせ俯いたが、否定はしなかった。サフィーアは大きく溜息を溢した。

 「仮に白冬の者になったとして、この仕事がどんなものなのかはご存知の通り。

 堪えられますのか。」

 次の言葉を継げるのをサフィーアは躊躇った。しかし、他に方法は無いと思われた。

 「カライス殿と二人で、谷を出られませ。」

 マルガリートは顔を上げ、大きく目を見開いて、サフィーアを見た。やはり彼女の選択肢には無かったことらしい。

 「谷を捨てよと。」

 言葉にしても実感が湧かないらしい。視線を漂わせ動揺している様を隠そうともしない。ぎゅっと手を拳の形に握る。

 「それは、出来ない……」

 声が震えている。サフィーアは当然の結果を目を閉じて受け止めた。

 「 無理を申しました。無礼をお許しくだされ。願わくば、今の件お忘れください。」

 マルガリートは力無く、この場を去った。

 「お似合いの二人だこと……」

 自分とは正反対の少女に軽い嫉妬を感じた。しかし、悲恋の匂いに同情する気持ちも確かに存在していた。サフィーアは遣り切れない想いを断切るように、ぶどう酒を一気に煽った。

 彼女はカライスに伝えなければならないことがあった。


 「なぜ、今頃店」

 俺は絶望の淵に叩き込まれたような衝撃を受けていた。運命の女神が俺を嘲笑っているようだ。グラリスより指令が下された。しかも結構は今夜。井戸に遅効性の痺れ薬を流し、動きを押さえた上で一気に叩き潰す手はずらしい。さらに、国からの兵はすでに谷を目指して、進軍中とのことだ。

 もう俺には選択肢は残されていない。サフィーアは指令文を渡すと、薬を持って出ていってしまった。彼女がどう感じているのか、俺には読み取ることが出来なかった。

 もう、誰にも止められない。谷の破滅のシナリオは動き出してしまった。俺はなんの為にここへ遣って来たのか。こんな惨劇を見届けるためなのか。俺は当初の目的も忘れて、迷っていた。本当にこれが最良の手段だったのであろうか……


 日が暮れてしまった。俺はうじうじと悩み続け、時間ばかりを空費していた。俺はやはりグラリスを捨てられない。胸が痛まないと言えば嘘になるが、もう止めようもない。

 ならば、彼女だけでも助けたかった。懸命に彼女を探すのだが、見つからない。谷を愛する彼女をどうやって説得するのか、不安は山積みだ。だが、それも彼女を見つけてからのこと。俺は思い切って戌秋の館に足を速めた。

 戌秋の館に入ると、人の気配が全くしない。何時もなら夕餉の時刻で、活気ある様子が外にまで漏れているというのに。嫌な予感がした。

 「マルガリート、返事をしてくれ。」

 声を張り上げる。

 「誰か、誰か居ないのか。」

 ふと足元を見ると口から血を吐いて倒れている者がいる。痺れ薬のはずだ。なぜ死者がでているのだ。不安は現実のものとして付きつけられた。

 館の奥に向かえば向かうほど、死者の数は増えていく。遠くでグラリスの兵の足音がする。火を掛けたのだろう。きな臭い臭いが漂ってくる。

 「マルガリート、頼むっ、返事を。」

 彼女は稽古場に佇んでいた。俺の呼びかけに答えるかのように、振り返ったが返事をしてくれない。

 「良かった、無事か。」

 差し出した手を強く振り払われた。

 「触らないでっ」

 良く見ると傍らに、ルトゥの屍があった。

 「信じていたのに……」

 彼女の瞳に涙はなかった。ただ怒りのみが燃え上がる。

 「ここは危険だ。俺と一緒に逃げよう。」

 「よくもそんなことが。」

 彼女の手には剣が握られていた。

 「剣をお取りなさい。戌秋の者は無抵抗の者を斬ることは出来ない。」

 「聞いてくれっ。違うんだ。」

 何が違うというのか。だが、彼女と戦うような真似はしたくない。彼女を傷つけるようなことをこれ以上するわけにはいかない。

 彼女は壁にかけてあった剣を放り投げた。

 「さあ、剣を取りなさい。」

 俺は不覚にも剣を受け取ってしまった。

 「待ってくれ、話を……。」

 「問答無用っ」

 いきなり斬りかかってくる。それが本気であることの証拠に、髪が一房切り取られた。それも風圧で。

 「マルガリートっ。」

 「次は外さぬ。」

 俺は剣を構えた。彼女の渾身の一撃を交わす為に。防御する為だけのはずの剣が、深々と彼女の身体を貫いた。そんな莫迦なこと。

 そのまま彼女の身体が、俺の腕の中に崩れ落ちる。確かにその刹那、彼女は微笑んでいた。

 「どうして。」

 炎はすぐ近くまで迫っていた。熱と熱風とで視界が極端に悪化している。今はもう彼女がどんな表情をしているのか、確認するのも難しい。

 もう一度彼女に問いかける。

 「なぜ俺を殺さない。なぜ自分が死ななくてはならない。」

 彼女の傷は致命傷になってしまったようだ。応える声も弱く、生命力に溢れていた彼女の面影はどこにも無い。

 「谷と、あなた様と、どちらかを選ぶことなど出来ましょうや。」

 細い腕が必死に俺の胸に縋ってくる。

 「こうするしか無かった……」

 火の手はもう俺の足下も捉えている。

 「あなたにお会いできて、幸せでした。」

 「もう、何も話さなくていい。」

 俺はただただ、その身体をきつく抱きしめ続けた。


 サフィーアは燃えさかる戌秋の館を外から見詰めていた。いや戌秋の館だけではない。申春も酉夏も白冬も全部跡形もない。

 赤生谷が滅びてしまった。すべて自分が望んだ通り。なのに、どうしてこんなに胸が痛むのか。これで私も一人きり。もう帰れる場所もない。一生流浪の民となる。心の拠り所さえなく。

 すべて自分が選んだこと、後悔することもできない。


                  終