【サンプル】 巻島裕介は小野田坂道に触ってはいけない 1
今思えば、すべては金城の一言から始まったのだ。 「巻島、少し話がある」 「何だァ? 金城」 今日は一人で峰ヶ山まで行ってきた。少し早めに戻ったから部室にはまだ誰もいないと思っていたのだが、一足先に金城が戻っていたようで部室に入るなり声を掛けられた。汗を拭きながらベンチに腰掛け先を促すと、金城は珍しく口篭もる。 「その、小野田のことなんだが」 「小野田?」 小野田は巻島が待ち望んでいたクライマーの後輩だ。今までロードに乗ったこともなかったようなド素人だが、ウエルカムレースを見て可能性を感じ、個人練習で一緒に走って確信した。こいつには登りのセンスがある。もちろんまだ初心者だということに変わりはないから今は初歩的なことから叩き込んでいる最中で、同じクライマーである巻島も色々と教えてやっている。今までこんな風に後輩に懐かれたことがないから初めは戸惑ったが、案外こういうのも悪くない。本人に直接言ったことはないが、小野田が入部して一番喜んだのはきっと自分なのだ。 そんな小野田の話と聞いて巻島が小さく眉を寄せる。何の根拠もないが、何だかよくない話のような気がする。金城の表情は愉快な話をしようとしているようには見えないし、言いにくそうにしているのも巻島に気を遣っているのだろう。そしてやっぱり、自分の悪い予感は当たるのだ。 「悪いんだが、巻島。小野田に触らないでやってくれないか」 「はァ?」 予想外の言葉に素っ頓狂な声を上げてしまう。金城も巻島の反応はもっともだというように難しい顔をしていた。何を言い出すかと思えば、触るだの触らないだの、一体何の話だというのだ。 「触らない? どういうことっショ」 オレがセクハラでもしてるっていうのか? いや、そもそも自分達は男同士だ。別に小野田にベタベタと触った覚えもない。思い当たる節が全くなくて眉を寄せて尋ねると、金城も重い口を開いた。 「小野田がな、おまえに触られると困るそうだ」 金城が言うには、小野田は巻島に触られるとひどく緊張する、らしい。小野田本人から練習に支障が出るかもしれない、と泣きそうな顔で言われれば金城も手を打たないわけにはいかない。なぜ巻島なのか理由を聞いてもわからないと首を振るばかりで、相談した小野田本人も己の反応に戸惑っている様子が伝わってきた。どうしたものかと困った金城は、とりあえず巻島には話しておくからと小野田に伝えたそうだ。金城も、巻島と小野田は上手くやっているとばかり思っていたからこの突然の相談には驚いたらしい。だが、自分の変化に一番驚いたのは多分小野田自身なのだ。 小野田は巻島を慕っている。だから巻島に触れられる――頭を撫でられたり、肩を叩かれたりすると、少しは自分を認めてもらえたようで嬉しかったのだ。巻島のぎこちない触り方はスキンシップに慣れていないことを如実に示していたが、それでも苦手だという笑顔を向けて自分に接してくれる巻島の不器用な優しさが嬉しかったし、巻島に触れられると安心した。 それがどうしたことだろう。あんなに嬉しかった巻島からの接触に、いつからかひどく緊張するようになってしまった。まるで出会ったばかりの頃のよう――いや、恐らくその頃より悪化しているだろう。肩を叩かれただけでビクリと大袈裟に体が跳ね、さっと巻島から距離をとる。頭を撫でられると小野田の動きがぴたりと止まり全身を緊張させる。しばらくは大人しくされるがままになっているが、じりじりと距離をとりそのうち巻島から逃げるように他の人間のところに行ってしまう。 どういうわけか、最近小野田は巻島に触られると体も思考も固まってしまうのだ。原因はわからないし、いつからか、という明確な時期も思い出せない。だが、この症状がだんだん悪化してきていることは明らかだった。正直、最近は巻島の顔を見るだけでドキドキと心臓がうるさく胸が締め付けられるように苦しい。とにかく巻島が傍にいるだけで緊張するのだ。 巻島もそんな小野田の反応を訝しく思っていた。だが練習は普通に行っていたし、ただ話すぶんには特に今までと変わった様子もないから、変だな、とは思いながらもそこまで深刻には考えていなかったのだ。巻島の中に小野田は変わった奴だ、という先入観もあったから、小野田の様子が多少おかしくてもたいして気にも留めずにいた。 しかし、こうして金城にも相談するくらいだからよっぽど深刻なのだろう。巻島は眉を寄せると金城に尋ねた。 「なァ、オレ何かしたか?」 「いや……小野田は特に詳しいことは言っていなかったな」 巻島は小野田にこんな態度をとられるほどの何かをした覚えはない。だが自分もこうして後輩と接するのは初めてなのだ。今まで田所や金城のように後輩と親しく接することはあまりなく、どちらかというとマイペースに一人黙々と練習をこなし、また言葉数もあまり多い方ではなかった。同級生である金城や田所とはよく話すが、後輩と何を話せば良いかなんてわからなかったのだ。だから当たり前のように後輩と接している田所や金城のことを純粋にすごいと思っているし、こっそり小野田と接するときの参考にさせてもらったりもした。 もしかしたら自分は小野田への接し方を間違えたのかもしれない。自分では気付いていないだけで、小野田に避けられるような何かをしてしまったのかもしれない。しかし、巻島にはどこが間違っていたかもわからないのだ。 小野田に触るな。これを自分はどう受け止めればいいのだろうか。 悩む巻島をサングラス越しに見つめながら、金城は巻島と小野田について考えていた。巻島の懊悩は手に取るようにわかったが、多分この二人の問題は時間が解決してくれるのではないかとも思うのだ。不器用な二人だから、きっと互いの距離感にまだ慣れていないだけなのだろう。だからしばらく距離をとっていればそのうち自然に元に戻るのではないかと踏んでいた。それでも無理なら、またその時考えればいい。 金城は厳しい表情できっぱりと言い切る。 「これはオーダーだ、巻島。小野田に触ってはいけない」 (中略) 2 無事お付き合いを始めた二人だが、問題はすぐに現れた。 ある日、巻島と小野田は困ったような表情の金城に呼び出され、あることを告げられた。 「その、あまり言いたくはないんだが……部内での恋愛には節度を持ってくれないか」 「どういうことっショ?」 巻島も小野田もよくわかっていない表情だ。たしかに巻島と小野田はそういう意味で付き合っているし、それは部内公認となっている。別にそのことに関してとやかく言うつもりはない。恋愛は個人の自由だ。しかし付き合い始めた二人のいちゃつきっぷりが目に余る、と部員から苦情が出ているのだ。 付き合い始めたばかりで楽しい時期だというのはわかる。だが、もう少し場所と時間に配慮してもらいたいというのがみんなの共通の願いだった。目の前で突然いちゃつかれると目のやり場に困るのだ。金城が思うに、この二人の場合は無自覚なのも原因だと思うのだが……。多分本人達にはいちゃついている自覚はないのだろう。金城は咳払いをして言った。 「まあ、周りに人がいるときは配慮してやってくれ、ということだ」 金城の言葉に、二人はわかったようなわからないような顔をして頷いていた。これで少しは落ち着くと良いのだが。 しかし金城の忠告のあとも二人のいちゃいちゃっぷりは止まらない。所構わず二人の世界を作り出すともっぱらの評判だ。やはり少しぼんやりしたところのある二人には直接言ってもなかなか伝わりにくいらしい。だから結局、不満は金城へと集まることになる。 「おい金城、ちゃんと言ったのか?」 「言ったさ」 「じゃあなんで何にも変わってねえんだよあいつら!?」 田所が憤るのももっともである。相変わらず部室でも構わずいちゃつく二人にそろそろ部員の我慢も限界だ。とうとう金城は心を鬼にすることに決めた。 昼休み、金城に呼び出された巻島はパックのジュースを飲みながら部室へとやって来た。そこには何やら複雑な表情を浮かべた金城がひっそりと佇んでいる。悪い予感がした。 「……巻島、オーダーだ。しばらく小野田に触ってはいけない」 「またか!?」 なんというデジャヴ。まさかまた同じオーダーを出されるとは思わなかった。前にこのオーダーが出されたのは小野田が巻島への恋心を自覚していなかったのが原因だったわけだが、今回はもう二人はばっちり付き合っているのだ。あの時とは状況が違うのだが、それに伴ってオーダーが出された理由も変わっているということだろう。 「なんでだヨ?」 「おまえ達が部室でいちゃつくのを見るのが居たたまれない、という不満が出ている」 「別にいちゃついてないっショ」 「おまえ達には自覚がないんだ」 巻島が不満そうな顔をしていたからか、金城はこほんと咳払いをすると追い打ちをかけるように言った。 「ちなみに、小野田にも同じオーダーを出している」 「小野田にも!?」 今度は自分だけではないらしい。状況は余計悪化しているではないか。まさか付き合っているのに小野田に触ってはいけない状況が訪れるとは思っていなかった。巻島は不満をありありと顔に浮かべくっきりと眉間に皺を寄せる。 金城は不機嫌を露わにする巻島を見て溜息をつくと「そういうことで頼む」と言い残しさっさと行ってしまった。金城とて本当はこんなオーダーは出したくなかったのだ。 その後巻島が小野田にも確認すると、やはり金城に同じオーダーを出されたと言っていた。しかし小野田は特に不満があるわけではないらしく、「仕方ないですよね」と神妙な顔で頷いていた。 「なんで付き合い始めたっていうのにこんなオーダーが出されるっショ……」 「でも、金城さんのオーダーですから」 「それでいいのか!?」 たしかに小野田は素直だし言われた役割はキッチリ守る男だ。それに刷り込みなのか金城のオーダーは絶対だと思っている節がある。たしかに自転車関係なら巻島だって金城のオーダーを死んでも守る決意はある。だが、こんなトンデモオーダーを素直に受け入れて良いのだろうか。いくら相手が金城でも、だ。 こうして接触禁止令を出された巻島と小野田は、周りのメンバーを巻き込みながら悶々とした日々を送ることになる。 (中略) 3 小野田にとって巻島は初めての恋人だったから、わからないことはたくさんあった。すべてが手探りで、巻島に教わりながら少しずつ関係を深めていっているのだ。巻島が好きだという気持ちだけはいつも小野田の中心にあって、巻島のために何が出来るか、どうしたら巻島に喜んでもらえるかと常々考えていた。小野田は勉強熱心で、とにかく巻島が好きで好きでたまらなかったのだ。 キスはした。体も繋げた。まだあまり慣れないが、巻島とするのは嫌いではない。たまに意地悪なこともあるが基本的に巻島は優しいし、行為の最中の色っぽい巻島を見るのがたまらなく好きだった。自分だけしか知らない巻島を見ることが出来るという思いが小野田の独占欲を刺激するのだ。それに、いつも巻島にはたくさん触ってもらい快感を与えてもらっている。巻島が触れた箇所はどこも気持ち良くて、まるで魔法の手のようだと思う。 まだ慣れていないということもあるが、いつも小野田は受け身で、気持ちいいことも巻島にしてもらってばかりなのだ。このままでは巻島に申し訳ない。回数を重ねていくうちに、今度は自分も巻島を気持ち良くさせたいと思うようになった。 そこで小野田は考えたのだ。もっと自分も頑張りたいと。 しかし、具体的にどうすればいいかわからない。困った小野田は自分の出来る範囲で調べてみることにした。小野田の情報源といえば主にアニメやアニメ雑誌である。思いきり偏っているわけだが、小野田本人にその自覚はない。あくまで小野田なりに真剣なのだ。その偏った情報の中で調べてみると、一つ気になる記事があった。最近マンネリ気味のあなたに、というアオリのついたその記事には、相手に楽しんでもらうには『焦らす』と効果的だと書かれていた。我慢したあとのご褒美は嬉しさが何倍にもなる、というのは小野田もよく知っている。例えば発売が何度も延期になったゲームをようやく手に入れられたときは嬉しさもひとしおだった。多分、そういうことだろう。 意外と行動力のある小野田はウキウキと弾んだ気分で雑誌の記事に赤丸を付け、さっそく実践してみることにした。 今日小野田は巻島の家に泊まることになっている。恋人同士が部屋で二人きりとなれば当然そういう雰囲気になり、いつものように巻島が小野田の肩に手を回す。すると小野田はすっと身を引いて巻島から距離をとった。意外な恋人の反応に驚いて巻島が小野田を見つめる。小野田は真剣な表情で口を開いた。 「あの、今日はボクに触らないでください!」 「は?」 咄嗟には小野田の言葉を理解できずポカンと口を開ける。触るな? なんで? オレは何か小野田を怒らせるようなことをしたのか? 巻島の頭の中にはいくつもの疑問符が飛び交っている。しかしその疑問を口に出す前に、小野田は顔を赤くして必死に巻島の腕を突っぱねた。 「さ、触ったら一ヶ月えっちしません!」 「ハァ!?」 何故ここで突然のお預け宣言なんだ!? 小野田が何を考えているのかさっぱりわからなかったが、とりあえず巻島はどっちがいいか真剣に考えてしまった。――結論はすぐに出た。 「……わかったっショ」 今日一日我慢するのと、これから一ヶ月間毎日我慢することを考えたら比べるまでもない。……と、思ったのだが。実はそんなに簡単な問題ではなかったのだ。なにしろ相手はあの小野田なのである。 巻島はこの後この選択を激しく後悔することになる。 (後略) (本文より一部抜粋) |