【サンプル】 「未来で待ってる」



 

 それは一瞬の出来事だったが、何が起きたかを理解するにはずいぶんと長い時間が必要だった。たっぷり数十秒は経ったあと、ゆっくりと目の前の端正な顔を見上げる。真波は坂道を見つめたまま笑っていた。しかし浮かんだ笑顔はどこか歪で、坂道はぼんやりと、真波はこのまま泣くのではないかと思った。
「……え?」
 ようやく口にすることが出来た言葉がそれで、それは自分のひどく混乱した状況を如実に表していたと思う。突然の出来事に驚き、まさに言葉も出ないという状態だったのだ。
 それでも今の状況をなんとか理解しようと、既に半分ほど回線が焼き切れているような頭を必死に働かせていると、そんな坂道をあざ笑うかのように真波がさらに巨大な爆弾を投下した。
「坂道くんにキスしちゃった」

 ――あ、もう、無理。
 くらりと視界が歪む。ぐるぐると回る思考の中、唇に残る柔らかな感触が生々しく坂道の心に刻み込まれていた。


  ◆  ◆  ◆


 坂道にとって真波は特別な存在だった。もっとも、そう気付いたのはつい最近のことだ。しかし考えてみれば真波は出会ったときから坂道の特別だったのだろう。
「アクエリでいいかい?」
 あの坂で初めて真波の姿を見た瞬間、天使がいる、と思った。
 今思えば本当に馬鹿なことを考えたものだ。体調が悪く自分が死にかけていたというのもあるし、行き倒れていた自分を助けてくれた行為と相まってそんなことを考えたのだろう。だがその後も縁あって真波と関わっていくうちに、最初のその印象はあながち間違っていないことがわかった。
 ――真波には羽根がある。
 坂道がそれを知ったのは、一年の時のインターハイだ。頂上を競いギリギリの勝負をしながら走る真波には羽根があった。ギアが上がるたび増えるその羽根を使って、重力に逆らうようにして軽やかに登っていくのだ。
 インターハイの、己のすべてを懸けた勝負の真っ最中。坂道はただただジャージをゴールに届けるため――信じて、あずけて、任された思いと夢を実現するために走っていた。しかし、そんな体中のすべてを絞り尽くして空っぽになった頭の隅にぼんやりと浮かんだのが、「ああ、やっぱり真波くんは天使だったんだ」という思いだった。
 そのあとは本当に死に物狂いでペダルを回し何かを考える余裕などなかったのだが、真波は天使だという強烈な印象はそれから先もずっと坂道の中に残っていた。もちろんそんなはずはないと坂道だってわかっているのだ。真波が「生きてる」からこそ、あんな最後の一滴まで絞り尽くすような熱い勝負が出来たのだから。
 そんな真波との出会いから一年半弱が経つ。二度のインターハイを経て、真波との関係は大きく変わっていた。



(中略)



 あれから、真波から電話がかかってくる回数はさらに増し、遊びに誘われることも増えた。純粋に嬉しくもあるのだが、それと同じくらい戸惑いも感じている。真波がどういうつもりなのか坂道にはよくわからないからだ。

 真波がわざわざ総北高校まで来たことがある。いつものように自転車で部室に行くと、ここにいるはずのない青い髪が見えたから驚いた。真波は堂々と箱根学園のジャージを着て一人でぼんやりと空を眺めていた。
「え、真波くん!? なんで!?」
「あ、坂道くん!」
 坂道の姿を目にしてぱっと表情を輝かせると、嬉しそうに声を弾ませる。
「坂道くんと走りたいなーって思って、来ちゃった」
 真波はにこっと笑って何気なく言うが、本当にそれだけで神奈川から千葉までやって来たのだろうか。坂道は真波と約束などしていないし、数日前に電話したときもそんな話題は出なかった。急に思い付いてそのままここまで来たのかもしれない。真波なら十分あり得ることだ。
 しかし、今日は休日だが、箱根学園だって当然練習があるはずだろう。疑問に思って聞くと笑ったまま「銅橋と高田城に頼んできたから大丈夫だよ」と言われる。また怒られるかもしれないけど、なんてのんびり言っているあたり当然快く送り出されているはずもなく、真波の同級生の苦労がうかがえる。箱根学園は王者と呼ばれるだけあって練習などにも厳しいイメージがあるが、意外とそうでもないのだろうか。しかしすぐに、いや、きっと真波が特別なだけだと思い直す。
「ねえ、山に行こうよ」
 マイペースを保ったまま真波がうきうきと言うが、坂道は困ったように眉尻を下げた。事情はともかく、せっかく真波がここまで来てくれたのだから一緒に走りたい気持ちはもちろんある。だが、如何せん突然来られても坂道にだって予定というものがあるのだ。
「でも、今日は今泉くんや鳴子くんと約束してて……」
総北は今日は自主練習の日となっている。いつもは坂道は一人で山に行くことも多いのだが、今日は今泉と鳴子と一緒に平坦を走る練習をしようと思っていたのだ。
「じゃあ、二人にはメモを残しておけばいいんじゃない?」
しかし真波はどうしても坂道と一緒に走りたいらしい。わざわざそのためにここまで来たのだから当然といえば当然だが……。坂道としても真波と走るのは大好きなので魅力的な誘いなのだが、先に約束をしたのは今泉たちの方なのだ。何も言わず一方的に破るわけにはいかない。
「でも……」
 そのとき、遠くから賑やかな声が聞こえてきた。だんだんと近付いてくる、どうやら言い争っているらしいその声は、今泉と鳴子のもののようだ。
「だーかーら! そういうときは叩けば直るっちゅーねん! ま、叩き方にもコツがあるからな、スカシには無理やろうけど」
「おまえみたいな野蛮人と一緒にするな。叩いたら余計に壊れるだろ、すぐに修理を頼むのが一番だ」
 何の話をしているのかさっぱりわからないが、とりあえずいつものようにどうでもいいことで張り合っているのだろう。坂道からすれば仲が良いとしか思えないし、羨ましいとすら感じる。以前それを伝えると今泉も鳴子も物凄く嫌そうな顔をしていたが、結局は二人とも似た者同士なのだと思う。多分、それを言ったらまた二人とも全力で否定するだろうけど。
 坂道と目が合った鳴子が手を上げて挨拶する。
「おー小野田くん、早いな……って、ハコガクの真波!?」
 坂道の隣に立つ真波を見つけた鳴子が驚いたように声を上げる。その隣では真波を見つめて今泉も目を見開いていた。
「はぁ!? なんでここにハコガクがおんねん!」
「坂道くんと走りたくて来ちゃいましたー」
 にこっと笑い悪びれもせず言う真波に、今泉と鳴子の表情がみるみる険しくなっていく。二人は眉を吊り上げたまま、つかつかと真波に歩み寄った。
「はぁぁ? なんでハコガクさんが? 残念やけど、小野田くんは今日ワイらと練習するんですー」
「大体、ハコガクも今日練習があるんじゃないのか?」
「大丈夫ですよー。坂道くんと走るって言ってあるんで」
「なんやねんハコガク! 王者のくせにユルすぎるやろ!」
 しかし突っ込みながら鳴子も、恐らく箱根学園の中でも真波が特殊なのだろうということは察しがついた。鳴子はインターハイでの姿しか知らないが、坂道の話を聞いていると真波というのはだいぶ自由な人間らしい。
「小野田は今日オレたちと走る約束をしているんだ。そうだよな、小野田?」
「う、うん」
 このまま真波のペースに合わせていても埒が明かないと、今泉が坂道の方を向き確認するように問う。坂道は慌てて頷いた。
「えー、でも今泉くんたちはいつでも坂道くんと走れるでしょ? オレ、小田原からわざわざ来たんだけど」
「うっさいわ! 大体、約束もしないで来て小野田くんと走れると思うなんて虫が良すぎるで!」
「ああ、小野田は総北の人間なんだ」
「むー、ケチ」
 二人とも坂道は渡さないというように真波に歯を剥いている。間に挟まれる格好になった坂道はおろおろと三人の顔を見回した。

 今泉も鳴子も、最初はここまで真波に敵対心を持っていたわけではないのだ。いくらライバル校の選手で自分たちの夢を打ち砕いた張本人だとしても、勝負外のところにまでその感情を持ち込むような真似はしたくない。それに今までは坂道が真波のことを嬉しそうに話すので比較的好意的に思っていたし、今年のインターハイ後に真波と頻繁に連絡を取り合うようになった坂道を見て微笑ましく感じていたほどだ。
 真波を見る目が変わったのは、部室で真波との通話を終えた坂道の話を聞いてからだ。いつものように一言二言話しただけですぐに電話を切った坂道に鳴子が声をかける。
「またハコガクの真波か?」
「うん」
「最近仲ええんやな」
「うん……」
 しかし返事は歯切れ悪く、今まで真波の話をするときは嬉しそうに笑うことが多かった坂道の表情が曇っている。不思議に思って尋ねてみた。
「どうかしたん?」
「うん、あのね……」
 真波とのことを話そうか一瞬迷うが、心配そうに坂道の顔を見る鳴子を見ていたらちゃんと伝えようと思った。そもそも一人で抱え込むのはもう限界だったのだ。いくら考えても、坂道のあまり良いといえない頭では答えは出そうになかった。誰かに相談するというのも良い手かもしれない。いま部室にいるのは鳴子と今泉、どちらも坂道が信頼する大切な友達だ。坂道はきゅっと唇を引き結ぶ。
「えっと、この前真波くんに好きだって言われたんだけど、でもそれはボクの言う好きとは違うって言われてね。ちょっと真波くんの気持ちがわからなくて……」
「……は?」
 坂道の話を聞いた鳴子がぽかんと口を開ける。眉も目尻もみるみる吊り上がり、怒気を含んだ声で叫んだ。
「はぁぁ!? ちょ、小野田くん! なんやそれ!?」
「好きってどういうことだ?」
 傍で聞いていたらしい今泉も厳しい表情で会話に加わる。二人の剣幕に驚きながらも、坂道は信頼する二人なら、とさらに詳しく真波とのやりとりを伝えた。二人は眉を寄せ怖い表情で坂道の話を聞いている。
「小野田くん……ハコガクの真波のことが好きなん!?」
「う、うん。好きなのは好きなんだけど……」
「やめとけ小野田、勘違いだ」
「ええ!?」
 今泉も鳴子も坂道のことを大切に思っている。仲間として、友達として、感謝も尊敬もしているのだ。その坂道が、他校の宿敵ともいえる奴にむざむざ掻っ攫われるのは我慢できなかった。子どものようなヤキモチと言われればそれまでだが、坂道が誰かのものになるというのは嫌だったのだ。本人の意思は無視である。
「でも……」
「なあ小野田くん。ハコガクはワイらのライバルや。まあオモロイ奴もいっぱいおるけどな……その、真波は小野田くんに触りたいって言ってるんやろ? どう考えても危ないで!」
「ああ、あまり真波に気を許すなよ、小野田。何かあってからじゃ遅いからな」
「な、何か!? 何があるの!?」
 今泉の不穏な言葉に坂道がびくりと肩を震わせる。最近の真波とのやりとりを教えただけなのに、今泉と鳴子は急に纏う空気の温度を下げ、剣呑な色を湛えた瞳でじっとりと坂道を見つめていた。
「……スカシ。不本意やけど、ハコガクのあいつから小野田くんを守るで」
「言われなくても」
 こうして謎の共同戦線が張られたのだ。坂道を守るために、普段は張り合うことの多い二人が協力する――坂道の知らないところで、いつの間にかチームメイトが妙な仲を深めることになっていた。坂道は二人のやりとりにしきりに首を傾げながらも、メラメラと燃える様子に只ならぬものを感じていた。



(中略)



 ふっと意識が浮上する。目蓋の裏が明るく、ゆっくり目を開くと青い空が見えた。しばらくは現状を把握することができなくて、何度も瞬きを繰り返す。
 体を起こすと鈍い痛みを感じた。そこでようやく、自分が先程転んだことを思い出す。慌てて全身を確認するが、体には掠り傷程度しか認められなかった。ほっとして溜息をつく。最近では少なくなっていたが、もともと坂道は転ぶことには慣れている。今回はぼんやりと他のことを考えていて転んだのだから思いきり自業自得だが、無意識にも受け身はとっていたらしい。長年の経験が体に沁みついていた賜物だろうか。それだけ何度も転んでいるわけだから、不名誉な気もするのだが。
 周囲を見回すと、やはりここは先程まで走っていた山のようだった。大きな怪我はなかったが、少し気を失っていたのかもしれない。記憶が確かなら頭を打った覚えもないし、痛くもないので多分大丈夫だろうが、万が一ということもある。しばらく大人しくしていた方がいいだろう。
 しかし、と擦りむいた肘を眺めながら溜息をつく。真波のことを考えていて転びました、なんて言い訳にもならない。そういえば今日はずっと真波のことを考えて走っていた気がする。いや、今日だけではない。最近はずっと、自転車に乗っている間も気が付くと真波のことばかり考えていた。
 もうだいぶ核心には近付いているのだろう。だが坂道はあと一歩を踏み出せずにいた。真波は好きだ。友達として、ライバルとして、ずっと一緒に走っていきたいと思っている。しかし、その先を望むとなると――深い溜息をつきながら坂道が項垂れる。そのとき、突然後ろから声をかけられた。
「大丈夫?」
 驚いて振り返ると、青い空をバックに輝く青い髪が目に入る。眩しさに目を細めながら、坂道は懐かしさを感じていた。この光景には見覚えがある……すぐに思い出した。
 ――真波と初めて出会ったときと似ているのだ。
「落車? 怪我はない?」
「あ、はい、大丈夫です」
 声をかけてくれた人物に無事を伝える。若い男の人で、坂道より年上のようだった。大学生かもしれない。サイクルジャージを着ているので、ロード乗りだということがわかった。
 改めて礼を言おうと顔を上げて男を正面から見る。きれいな青にところどころ光の加減で黄色く光って見える髪に、アイドルのような甘いマスク、人好きのする柔らかい表情は、坂道の知る人物とよく似ていた。
(真波くん……?)
 思わず口に出しそうになって、すんでのところで呑み込む。たしかに真波に似ているが、よくよく見れば坂道の知っている真波とは少し違うことがわかった。真波より髪も短いし、表情も大人びている。
「そう、よかった」
 坂道の返事を聞いて安心したように微笑む男を見てハッとする。笑顔が、真波と重なったのだ。
「真波くん?」
 今度は耐えきれずに声に出してしまった。半ば無意識に呟いた坂道の言葉を聞いた男が「えっ」と言って瞬きする。坂道の顔をまじまじと眺めると、驚いたように目を見開いた。
「え、もしかして坂道くん?」
 信じられないというように目をいっぱいに開いたまま真波が尋ねる。ひどく混乱しながら坂道が頷くと、男が驚愕の表情を浮かべた。
「本当に坂道くんなの? あれ、だって……それに、そのジャージ……」
「ジャージ?」
 坂道はいつものように総北のレギュラージャージを着ていた。もうこのジャージを着ることにもすっかり慣れてしまっていて、自主練習のときにも着ることが多い。このジャージを身に着けていると身の引き締まる思いがするのだ。もうこのジャージを背負って負けるわけにはいかないと、嫌でも気合が入る。
 じっと総北ジャージを見つめていた男はみるみる表情をゆるめるとガバッと坂道に抱きついた。
「わあ、懐かしい! 高校生の坂道くんだ!」
「どひゃあ!?」
 突然の抱擁に坂道が悲鳴を上げる。ぎゅうぎゅうと抱き締められ坂道が苦しいと漏らすと「あ、ごめん」と言ってパッと手を離される。間近で見るとますます真波にそっくりだった。興奮したように頬を紅潮させ、にこにこと楽しそうにこちらを見つめる男に、今度は坂道の方から尋ねることにする。
「あの……真波くんのお兄さん……ですか?」
「え?」
 意外なことを聞かれたというように、真波が目を丸くしてきょとんとした表情を浮かべる。坂道も、真波に兄がいると聞いたことはなかったが、やはり見れば見るほど細かいところまで真波と似ているのだ。真波が大人になったらこういう感じだろうな、と思う。だからきっと、真波の身内だと思ったのだが。
 坂道は不思議がる思いと好奇心とが混ざった表情で男を見る。真波とよく似た男は、坂道をじっと見つめた後ぷっと笑った。
「オレに兄はいないよ」
「え、だって……じゃあ……」
 『オレに』兄はいないという男の言葉が引っかかった。坂道が混乱した頭を必死に働かせていると、目の前の男が優しく微笑む。ドキリと心臓が跳ねた。
「ねえ、キミの名前を聞かせて?」
 坂道はまとまらないままの思考を放棄して目の前の人物を見上げると、問われたままに答えた。
「小野田……坂道です」
 答えを聞いた男は目を輝かせてにっこりと笑った。そんな真波そのままの表情を見て、とても信じられない、だがきっと真実であろう考えを抱きながら、坂道も恐る恐る尋ねる。
「あなたは……」
「オレの名前は真波山岳。ねえ坂道くん、これってどういうことだと思う?」


(後略)





  (本文より一部抜粋)