小野田はいつも、少しはにかんだ表情で告げるのだ。
「巻島さんは優しいですね」

優しい狼


 それは巻島の部屋で他愛もない話をしているときに何気なく言われた言葉だった。本人は深い意味もなく言っているに違いない。
 だが巻島としては、小野田に優しいと言われるのは内心複雑な気持ちだった。本当は自分はそんな人間ではない。人と関わるのは苦手だし、キモイとかコワイとか、そう言われることに慣れているくらいで、人に優しくするしかただってよくは分からないのに。ずっと感じていたが、どうもこの後輩は盲目的なところがあるようだ。

 だがこうして恋人と二人きりというシチュエーションでその言葉は反則だと思う。
 自分だって男として、優しいだけではいられないこともあるのだ。



 トン、と背中が床について大きな瞳で見つめられる。
 覆い被さるようにして上から見下ろした小野田はきょとんとした顔をして、まだこの状況が呑み込めていないようだった。
「オレはそんな優しいワケじゃないっショ」
 だからそんな信頼しきった目で見るなと半ば脅すように告げる。いつもより乱暴に押し倒して荒い口調で話すことで、小野田が自分を怖がればいいと思った。
 怖がられればそれはそれでショックを受けるのだろうけど、優しいと思って無防備に近付かれても理性がいつまで保つか知れない。そういう風に小野田を傷付けることは絶対にしたくなかった。

 しかし荒々しく押し倒されても小野田はまるで怖がるような素振りは見せなかった。それどころか、困ったように巻島を見上げると口を開く。
「巻島さんは優しいですよ?」

「だからッ……!」
 もどかしくなって声を荒げそうになり、堪えるように強く拳を握る。もともと口べただし、人にこうして気持ちを伝えるというのは得意ではないのだ。もう誤解されているならそのままでも良いと開き直ってしまいそうだが、小野田に失望されたときのことを考えると……
 口を開こうとはするが、結局何も言えなくなってしまう。

 そんな巻島の様子を見て小野田がおずおずと口を開いた。
「あの、ですね。ボクは巻島さんは優しい人だと思ってるんですけど」
 そこで一瞬考えるように目を伏せる。だがすぐに、はっきりと巻島に告げた。
「巻島さんになら、ヒドイことされてもいいですよ?」
 
 大きな瞳をまっすぐに向けて伝えられたとんでもない言葉に、思わず自分の体を支えていた腕から力が抜けた。ゴッと鈍い音を立てて肘から崩れ落ちる。
 辛うじて体の下にいた小野田を潰さずに済んだが、顔を伏せたまま声を絞り出す。
「おまえ……」
 唐突になんてことを言うんだ。自分が何を言ったか意味わかってんのか。
 本当に、何もかもが想定外だから困る。

「あっスミマセン! えっと、その、ちょっと言い方が変だったかもしれないですけど」
 巻島の恨みの籠もったような声に気づいてか、慌てたように小野田が言葉を重ねる。
 腕に力を込めて再び体を起こすと、相変わらずまっすぐにこちらを見つめる瞳とぶつかった。
「もし巻島さんが優しくなくても……その、例えばちょっとヒドイことを言ったりしたりされたとしてもですね、ボクがそれで巻島さんを嫌いになることはないです」
 きっぱりと言い切った。その言葉に今度は巻島の方が目を丸くする。

「ハァ?」
 普段あんなにオドオドとして自分に自信がない様子なのに、こういうときは迷わないのか!

「おまえ……ほんと馬鹿っショ」
 ――ウソ。本当に馬鹿なのは自分だ。

「はい、すみません」
 シュンと落ち込む様子を見せる小野田を見て巻島が舌打ちする。相変わらず組み敷いたままの体には自分の影が落ちていて、それを見ると何か熱いものが腹から湧き上がるのを感じた。
 ぐっと顔を近付けて耳元で囁く。
「責任取れよ」
 だって、あんな熱烈な告白をされてしまったのだ。自分の声にも熱が籠もっているのが分かる。

「あ、あの」
 何か言おうと開きかけた口を唇で塞ぐ。小野田がぎゅっと強く目を閉じるのが視界の端に映った。
 優しく大事にしたいという思いは当然ある。だがそれと同じくらい、めちゃめちゃにしてしまいたいという激しい劣情も抱えているのを自覚する。いつもは後者の感情は心の奥に押し殺してきたのだが。

 ――スイッチ入れたのはおまえだからなァ?

 吐息までもを食らい尽くすように咥内を貪る。小野田の口から荒い呼吸と共に鼻にかかったような甘い声が零れて、煽られるように荒々しく唇を合わせた。
 いつの間にか首に手が回されていて、縋りつくようにぎゅっと力を込めるその腕に心臓の辺りをきゅうっと掴まれる思いがする。もしかしたら、これが愛しいということなのかもしれない。
 このままだと本当に止まらなくなりそうで、なんとか理性を総動員させて唇を離すと再び脅かすように声をかけた。
「ほんとにヒドイこと、するかもしれないっショ?」
 自分の声が掠れているのを恥ずかしいと思う余裕もない。頼む、逃げろという思いを込めて口元を歪める。

 だが小野田は、潤んだ目をまんまるにしてこちらを見つめるとはっきりと口にした。
「巻島さんになら、いいです」

 ~~コイツ、本当に意味が分かって言ってんのか!

 ギリギリまで張り詰めていた糸がぷつんと切れた。カアッと頭に血が上り凶暴な欲望が腹の底からわき上がる。
 しかしまっすぐに自分を見つめ続ける小野田の表情があまりに自分を信用しきったもので、そんな風に手放しの信頼を寄せる小野田の姿を見ると自分の中で膨らんだ欲望は急速に萎んでいってしまった。全身から力が抜けて、今度こそ小野田の上に倒れ込む。
「わっ、巻島さん!?」
「おまえには負けたっショ……」
 これだから天然って怖い。
 
 ――いつでも食えそうなのに、無防備すぎて逆に手を出せないって拷問以外の何物でもないっショ……

 ハァとため息を吐くと「え、え?」と瞬きを繰り返す小野田の髪を乱暴に撫でる。きっとコイツは、自分の言った言葉の意味もこちらの葛藤も何も分かってはいないのだ。

 似合わないが仕方ない。小野田のために、もう少し『優しい先輩』でいてやってもいいかもしれない。

 巻島の変化についていけない小野田が不安そうに見つめている。その頬に頬を擦り寄せるようにすると触れた箇所から小野田の体温が伝わってきた。
 こうして触れているとどうしても胸に燻るものがあるのだが、それはしばらく封印しなくてはならないらしい。いつまで保つか、自分の理性に期待するしかないだろう。

「先は長いなァ」

 それでもこの自分を慕う可愛い後輩を裏切るような真似などできるはずがないのだ。結局は自分も甘いということか。
 だがそれは決して悪い気分ではなく、もう少しこの甘ったるい状況を楽しむのもいいだろうと、大事に、大事にするようにそっと頬に口づけた。






Text top