亭主の寸話 H『トランス酸油脂について』


 朝食にはパン食が多くなっていると聞く。パンにはマーガリンを、コーヒーには白濁のフレッシュを入れて、あとはおしゃれにハムサラダかベーコンエッグをつけ添えて、なんて朝食風景はどこの家庭でも見られそうである。これだと忙しい朝の時間を有効に使えて、後片付けも簡単だ。子供たちもポテトフライには目がない。食の簡便化はひとつのライフスタイルである。現代の日本の食生活は厨房を汚さずに食事が出来るようになっている。調理済み食品を買ってきて我が家の食卓で食事をする中食というやつである。調理する手間を省いて、その分を仕事やレジャーに振り向ける、一見合理的な生活に見えるが、ここにいろいろな問題が潜んでいるようである。

 今、アメリカを始めとしてヨーロッパ、カナダなどで大きな話題となっているのがトランス酸、正確に言うとトランス型脂肪酸の健康への影響についてである。この耳慣れない油脂成分はマーガリンやショートニングを作るときに副産物として生まれてくるものです。そして、このトランス酸を私たちが多く摂取すると悪玉コレステロールを増やして心臓病の危険性が高まったり、糖尿病などにも影響を与えるといわれているのです。このほか腎障害、脳出血の可能性も指摘されています。最近の研究報告を見ると、女性の不妊症や脳機能障害などの可能性も指摘されています。アメリカで毎年起こっている50万件の心臓病による死亡のうちの3万件はトランス酸による心臓病が原因といわれているほどです。このような声の高まりの中で、アメリカでは2006年1月より油脂を含むすべての食品にトランス酸含量を表示するよう義務付けたのです。また、ニューヨーク州などでは学校給食やレストランでのトランス酸の使用を禁止しているほどです。アメリカの大手食品メーカーは早々と、自社の製品にはトランス酸は含まれておりません、とのアナウンスを始めています。ケンタッキーフライドチキン、タコベル、バーガーキング、スターバックスなどなどですが、これらの製品の日本向けの製品は別枠です。アメリカではトランス酸の少ない油脂を遺伝子組み換え技術を使って開発しており、それらの油脂に切り替えているのです。アメリカ人はこれらの遺伝子組み換え油脂を健康に良いと積極的に買っているのです。日本人の遺伝子組み換えアレルギーとはずいぶん違いますね。現在アメリカのほかにカナダやデンマークでもトランス酸含量の表示を義務付けていますが、日本はこれらのことについて、ほとんど無風状態です。今回は、この気になるトランス酸について、私たちはどのように見ておけばいいのかをお話したいと思います。

 トランス酸とはどんなものか、簡単にいうと次のようになります。かつての欧米人は、油脂を使う調理には主に動物性油脂のバターを使っていました。しかし、バターの使用量が増えるに従い心臓病などの循環器系疾患が増えてきたためにバターに代わるものとして、植物油脂を原料とした固型脂を作り出したのです。それがマーガリンです。多くの植物油は不飽和脂肪酸から出来ているので液体の状態ですが、これを固型にするために不飽和の部分に水素をくっ付けて飽和脂肪酸に変えてしまうのです。この操作によって液状であった植物油が固体のマーガリンになるのです。ところが、この操作の中で、副産物のように天然の油脂にない形の油脂が出来てしまうのです。それがトランス酸なのです。このトランス酸は正常な油脂とほとんど同じ性質を持っているために分別して取り除くことが不可能なのです。マーガリンなどを作った当初は、この不純物についてそれほど気にしていなかったのですが、研究が進むにしたがっていろいろな体に対する健康被害が明らかになってきたのです。

 どれほどの量のトランス酸が健康に影響を与えるのかについては1990年ごろから検討が始まり、2003年になってWTO(世界保健機関)が、1日の総摂取エネルギー量の1%未満に抑えることを目標に掲げたのです。このレベルを日本人に換算すると、1日に2g以下が望ましいということになります。平均的なアメリカ人の1日のトランス酸摂取量は5.8gで、摂取エネルギーに占める割合も2.6%と、完全にWTOの目標を超えてしまっています。では私たち日本人は、このトランス酸をどの程度食べさせられているのか気になるところです。2007年6月に厚生省の食品安全委員会で国民の摂取量調査の結果を発表しました。それによると日本人の平均摂取量は0.7〜1.3gです。これを1日の摂取エネルギーに占める比率は0.3〜0.6%であり、WTOの目標を下回っていました。しかし、平均的な摂取量とは、どのような食スタイルであるのか、いろいろな疑問の声も出ています。もう一つ気になることは、今回の調査で、国内メーカーの油脂製品のトランス酸含量が大きくばらついていることです。メーカーによって30倍以上の差があることです。しかも、それらの商品には表示がないためにどのメーカーの商品が安全なのかを誰も見分けることが出来ないのです。

 このような不安な食べ物なら食べるのをやめればいいのに、と思うのですが、そこがなかなかうまくいかないのが悩みでもあるのです。いまや、このマーガリンやショートニング、その他の加工油脂類は私たちのあらゆる食材の中に深く浸透しており、これらを使わずに調理食品を作ることが難しいほどです。マーガリン、ショートニングの持つ主な機能は、独特の風味や食感を出したり、保存性を高めたりすることにあります。そしてそれらの機能は、パン、クッキー、ドーナツ、ケーキ、フライドポテト、コーヒークリーム、カレールーなどに欠かせない働きをしているのです。たとえば、パンやケーキの柔らかさやクッキーのサクサク感などはショートニングやマーガリンの働きによるものなのです。

 しかし、我々日本人がアメリカ人などのようにトランス酸で大騒ぎすることはないとの指摘もあります。その第1の理由は、日本人は油脂そのものの摂取量がアメリカ人などに比べて少ないことです。日本人の1人当たりの油脂の摂取量は、年間21kg程度ですが、アメリカ人は45kgを越えています。油脂の摂取量が多いと、その分トランス酸が多くなる可能性が高いからです。第2の理由は、アメリカ人は油脂の多くはマーガリンやショートニングとして利用していますが、日本人の多くはサラダ油などの液状油脂を利用しており、これらの中にはトランス酸が含まれていないのです。日本人の摂る液状油脂の中にはリノール酸などの不飽和脂肪酸が豊富に含まれているからです。第3の理由は、日本の油脂の加工技術がアメリカなどよりも優れていることです。日本の油脂は、液状油も固型脂もともに世界でもトップレベルの品質を持っているのです。そのためにマーガリンなどに含まれるトランス酸の量は格段に少ない商品が多いのです。固型脂のひとつでもあるチョコレートを想像してみてください。海外からお土産で買ってきたチョコレートが包装紙にベタベタくっついているのを見たことがあるでしょう。国内のメーカーで包装用紙を汚すチョコレートなどはほとんどお目にかからないほどです。これなども日本のチョコレート油脂の分別技術の高さを物語っているといえるでしょう。

 朝食はパンにマーガリン、昼食は蕎麦かうどん、夕食はご飯にいろいろなおかず、というサラリーマンの食事風景からはトランス酸の心配はなさそうに思うのですがいかがでしょう。家庭料理の中にトランス酸が入り込む隙間は余りありませんが、調理済み食品には注意が必要ですね。特に子供たちが好きなスナック菓子、ポテトフライなどにはトランス酸が入っていると思っていたほうがいいでしょう。限られた食品だけに執着するのではなく、いろいろな食品をまんべんなく食べていることが安全な食べ方といえるでしょう。せっかく備わっている人類の雑食性を大いに活用することですね。


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