亭主の寸話81 『ご飯をもう一度見直そう』 


『ご飯をもう一度見直そう』 

20249月に新聞紙面で騒がれ消費者の間で大きな話題になったのが、店頭から消えたコメでした。我々の感覚では、コメは我が国の食糧で最も自給率の高い安定している食材だと考えられていました。それが突然のコメ不足の報道で急いでスーパーへ走った人も多かったのではないだろうか。ところがこのコメの流通を管理している農水省は、2023年の米の生産量は791万トンと国内の需要に充分に対応できているとして、消費者に冷静になるようにと繰り返すだけでした。確かに数週間でこの騒ぎは収まったが、一体何が起こったのか多くの消費者は戸惑うばかりでした。

 そもそも我が国のコメ食には太古の人たちが取り組んできた長い歴史が秘められています。わが国にコメが登場するのは縄文時代後期だとされています。岡山県総社市の南溝手遺跡から発見された縄文時代後期の土器の破片からはイネのもみ殻の痕跡が見つかっていたのです。その頃の気温を見ると、今から1万年前の縄文時代前期は今よりも平均気温が2ほど低くかったが、6000年前の縄文中期になると逆に約3℃上昇して東日本にはコナラ、クリなどの暖温帯落葉樹林が広がり、さらに河川でサケやマスが捕獲できたので食糧も安定しており、人口も252,000人と全人口の96%を占めるようになっていたようです(小山修三)。しかし、4,500年前から気温は再び低下を始め、縄文時代中期から晩期にかけて東日本の人口は下がり始め、弥生時代になると人口は西日本へと逆転するようになります。そして最初のコメは縄文時代後期に朝鮮半島を経て北九州へ入ってきたとされています。そのコメが瀬戸内を通じて近畿に伝わるまでに約400年、南関東までは700800年を要したとされています。しかし、東北地方への稲作伝来は関東よりも早く、2300年前(弥生時代前期)には東北最古の灌漑施設を備えた水田跡が見つかっています。

そもそも稲作の始まりは、1万年前の世界最古とされる最初の栽培稲のもみ殻が中国長江下流の上山遺跡から見つかっていたことによってその始まりとされていましたが、2005年になって中国湖南省にある玉蟾岩遺跡から12千年前の炭化米が1粒見つかっており、現在はこの米が最古とされています。この遺跡は旧石器時代から新石器時代への移行期の地層であり、土器の破片よりも深い地層だったようです。つまりこの時代から中国の一部では稲作が始まっていたということになります。そしてわが国にコメが入ってきたのは縄文時代後半とされていますが、その米が直ちに栽培されたという痕跡はなく、多くの学者は、コメの栽培とコメ食の歴史は弥生時代になってから始まったとしています。

しかし、その米をどのように食べていたのか、その調理法には大きな変化があったことが明らかになっています。当時のコメは現在とは違う熱帯ジャポニカという品種が中心でした。イネ科植物の葉にはプラントオパ-ルという物質が含まれており、米の種類によってその形状に若干の変化が見られます。古代遺跡から発掘されるプラントオパールを見ることによって、それぞれの時代に栽培されていた米の種類が分かるのです。宮崎県の遺跡でこれらプラントオパールの変化を調べ、我が国の稲作の歴史を読み解いたのが宮崎大学の宇田津徹朗教授たちです。その調査によって我が国の稲作は縄文・弥生時代の熱帯ジャポニカ主体から徐々に現在の温帯ジャポニカへ変化していった足跡が見られます。縄文・弥生時代のコメは東南アジア方面から伝えられた熱帯ジャポニカ主体であり、高温に強い品種であったと考えられます。

 しかし、我が国の古墳時代である4世紀から5世紀にかけて地球上に再び寒冷化の波が押し寄せます。この寒冷化によってヨーロッパでは北方民族の大移動が始まり歴史が大きく動きますが、アジアでも北欧ほどでないが寒冷化の影響が起こり、我が国では熱帯ジャポニカの不作が起こります。そして中国では北方の遊牧民の南下が始まり、それに押されて中国国内でも民族の南下が起こりました。こうして押し出されるようにして中国南部に住んでいた稲作農民が自分たちの作物である温帯ジャポニカを持って古墳時代になって我が国に渡ってきたと考えられます。

 こうしてわが国に入ってきた温帯ジャポニカは寒冷化気候に適応したと同時に、熱帯ジャポニカに比べて収量が多かったために我が国でその後も栽培を伸ばしていったのです。しかし、全体的に見るとまだ熱帯ジャポニカ主体の混雑米だったためにその調理に困難をきたしました。弥生時代の米の炊飯は土器にコメと水を入れて炊くというものでしたが、混雑米ではその炊きあがりが安定せず、美味しいご飯にはならなかったのです。熱帯ジャポニカに芯が残り、温帯ジャポニカには型崩れするという問題が起こったのです。そしてここで古墳時代の人たちの素晴らしい技術革新が起こります。それは混雑米を蒸気で蒸すという新たな炊飯技術の開発です。現代ではもち米を使った赤飯を炊飯するときに行っているような、蒸し器用の土器に米を入れて蒸しあげるという方法です。これによって縄文人たちは寒冷期の混雑米の炊飯を上手に乗り越えたと同時に、その後も我が国の気候に適合した温帯ジャポニカの栽培は伸びていき、徐々に温帯ジャポニカ中心の稲作へと移行していったのです。

 こうして温帯ジャポニカが主体になった江戸時代になると炊飯の仕方も定着してきます。私も子供の頃に祖母から教えられたご飯の炊き方の言葉を今も覚えています。それは『はじめチョロチョロ 中パッパ ブツブツ言う頃 火を引いて 赤子泣くとも蓋とるな』という言葉です。つまり、米が炊きあがって泡が出てきても蓋をとってコメの泡を外に逃がさないように、という教えです。コメの泡には豊富なでん粉が含まれており、それはコメの美味さを保つ成分なのです。これを逃がさないようにとコメの炊飯に使う釜には重い蓋が載せられていました。そしてこの泡に含まれるでん粉がご飯の炊きあがりと同時にコメの表面に戻ることによってでんぷん質に覆われたご飯はふっくらとした状態となり、冷めても美味しさを保つことが出来るようになったのです。

こうして温帯ジャポニカの調理法が定着した江戸時代には新たなコメ食の世界が広がります。それは冷めても美味しいご飯が出来たことによって「にぎり寿司」「おにぎり」「お弁当」という新たなコメ文化が生まれたのです。このように現在我々が日本人の食事として何気なしに食べているご飯には縄文人、弥生人、古墳時代の人たちをはじめとする多くの先人たちの知恵と工夫が込められていることを知っておく必要があります。
 こうして温帯モンスーン地帯に住む我々の先祖達はコメを中心とする穀物食が主体の食事形態へと定着していきました。そしてそのことによって我々穀物食民族には体内の変化が始まったと考えられています。つまり、でんぷん質の多い、もっと広く捉えれば炭水化物摂取の多い民族には穀物が美味しいと感じるように進化が始まるのです。体内ででん粉分解酵素アミラーゼを活発に作りでん粉を糖質に変え、それをエネルギーとして利用する体の仕組みが発達していきます。これに反して、狩猟民族たちは動物肉を中心にエネルギーを得ているので動物油脂をエネルギーに変える脂肪分解酵素リパーゼの分泌が活性化されたのではないだろうか。こうしてでん粉食民族の我々にはアミラーゼ遺伝子が多くなり、炭水化物に甘味を感じやすくなり、コメやでんぷん食品を美味いと感じるようになるのです。
 ただ、コメ食を続けると気になるのが食べ過ぎによる肥満ですね。どうも肥満というのは人間だけが陥るもののようで、野生動物は肥満にはならないのです。それは野生動物にとって自分の身を護るためには肥満による動きの鈍さは極めて危険だからです。食欲の調節をしているのは脳の中の視床下部にある空腹中枢と満腹中枢によるものだそうです。動物たちにとってはこれらの働きにバランスが獲れていますが、人間は前頭葉が発達しているので満腹中枢の司令を無視して、満腹でも人間関係などの環境要因で食べたり飲んだりしてしまうのです。仲間と気が合うとはしご酒が始まったり、満腹になっても「別腹」といって甘いものにも手が出るのは我々人間だけだそうです。また脂肪食を多く摂ると視床下部に炎症反応が起り、ますます満腹中枢が正常に働かなくなるようです。我々の消化器官は糖類にしても脂肪分にしても、エネルギーとして消費する以上に体内に取り込むとそれらは皮下脂肪として肥満の原因を作ります。われわれは動物たちよりも前頭葉が発達しているのなら、その機能を活用して自らを律することを心掛けるしかないのです。

ところでこのコメが現在、我が国であまり栽培されていない小麦に主食の座を奪われているのは、一体どのような経過があったのかを見ておく必要があります。現在の日本のコメの消費量は、国民一人当たり年間(202351.1kgであり、1日当たり約140gとされています。それは1962年の118.3kgに比べても60年で半減しているのです。そして平成23年(2011)には既に1世帯当たりのコメに対する年間支出額は27,425円とパン食の28,321円に抜かれ、その後もこの差は開くばかりです。しかしその小麦粉の国内自給率はたったの16%と、ほぼ外国からの輸入に頼っている食糧なのです。さらに令和4年になるとコメへの支出額は麺類にも抜かれてしまい、いまや長い歴史を誇ってきた我が国のご飯は国民から食卓の片隅へと押しやられようとしているのです。そのきっかけには一体何があったのでしょうか。

 アメリカは第一次世界大戦で欧州の同盟国に対して食糧補給をしたことによって国内の農業は活性化し世界にその足場を築いてきましたが、第二次世界大戦では世界でも稀なほど国内の農地が戦争で荒らされず、外国から食糧援助の要請が集中したことによりその農業生産力が大きく伸びていきました。こうして軍と政府の後ろ盾を得たアメリカ農業は世界の農業大国へと発展していったのです。しかし、小麦を中心としてその生産力を伸ばしていったアメリカ農業も世界大戦が終り、徐々に各国の農業が回復し、さらに朝鮮戦争による海外需要も一段落すると、アメリカは過剰な小麦の在庫を持て余すようになります。1954年にもアメリカ小麦は大豊作で、前年度の小麦も含めた余剰小麦を貯蔵する倉庫が足りなくなり、戦時中に使っていた軍艦にまで積み込んで保管したほどでしたが、政府が支払った保管料は倉庫代だけで12億円と言われています。こうした中でアメリカのアイゼンハワー大統領は自国の余剰農産物を友好国の経済復興に使いたいとして「余剰農産物処理法」を成立させます。そして海外の食糧事情を調査した結果、日本が浮かび上がりました。そこには日本のコメの価格が高いこともその背景にあったとされています。しかし、この年の日本の稲作も大豊作で40ha減反したにも関わらず余剰米は530万トンに上っており、古米の処理に掛かる費用が1兆円を越え、国民一人当たり1万円の負担となっていたほどです。その一方、コメの消費はすでに下降状態にあり本来なら余分にアメリカ小麦を受け入れる状態ではなかったのです。

そんな中で、アメリカは1956年(昭和31)からキッチンカーと称する移動式調理バスを日本に提供して全国の農村を廻り、日本人調理士によるパンや麺などの小麦食品の普及に力を入れます。この運動に参加した人は200万人にのぼったとされています。もちろん普及活動はアメリカの資金援助を得た日本人によって行われたのですが、国民の誰もこの運動がアメリカ政府によるものだとは知らなかったようです。国内ではパン食のキャンペーンにさらに拍車がかかります。アメリカからの資金援助を得た大学からは我が国のコメの栄養的偏りを大きく取り上げてパン食を支持する研究結果を次々に発表し、栄養改善活動と称した活動が展開されました。大学の研究者たちからは「白米過食は短命のもと」「日本人の早老短命はコメの大食偏食による」との発表が相次ぎました。こうして結果的に、富めるアメリカ農家と貧しい日本農家を作ってしまったのです。

当時の日本の稲作は空前の豊作で、コメ農家は外国からの小麦の輸入を止めるように政府に要望したが、米価は据え置きのままにして小麦の輸入は止めなかったのです。アメリカは生産した小麦の60%を輸出し、日本は使用小麦の95%はアメリカからの輸入だったのです。こうして日本では学校給食に小麦を使ったパン食が始まりました。そして子供の頃に親しんだパン食は、成長して大人になると家庭食となり国内に一般化して国民食になっていったのです。こうしてパン食は現在みられるような自国生産のコメの消費量を上回るところまで拡大していったのです。

そもそも現在の日本の稲作農業の基本構造は戦後の農地改革からスタートしています。従来の地主制度の小作農中心から自作農中心へ移行したことから多くの小規模農家が生まれ、更にその後の農地法によって農家以外からの農業への新規参入が難しくなり、小規模農家が定着したことと、その後の改革が停滞してしまったことにより農民の定着化により高齢化を促す要因となってしまいました。政府は高度経済成長期に農業から工業への労働力の移動促進政策を進めて、小規模農家の離農を促して農地を集約し、農業の経営規模拡大を目指しましたが、同時に従来の食糧管理法をそのまま温存したことにより米価水準も引き上げたために離農と農地集約は進まず、兼業農家はそのままの状態で構造改革は進まなかったのです。こうして我が国の実働農業従事者一人当たりの耕地面積は現在1.6haとアメリカ(55ha)やカナダ(117ha)、オーストラリア(115ha)、さらにはフランス(18ha)、ドイツ、英国(各10ha)の経営規模からも取り残された状態となっています。このことはこれらの国の農産物との価格競争には勝ち目が少ないことを意味しています。そのために日本は主食であるコメ中心の農業となり、輸入米には高い関税をかけて国内農業を保護し、国民は国際価格よりも高い国産米を受け入れることによって現在の日本農業は成り立っていると言えます。そして、その他の日本の食文化を支えている大豆や小麦などの農産物は海外に依存しており、大豆の自給率は5%、小麦は13%というのが実情です。

このようにして我が国の稲作農業は消費者の視点からも逆行した中に置かれ、コメの消費量は減少を続けており、それにつれて販売価格も1995年の21,017/60kgから2022年の13,865/60kgへと大きく値下がりしています。一方肥料代などの生産コストは高騰しており、コメ農家の収益性の低下がますます農業の魅力を押し下げています。こうして基幹的農業従事者と言われる人口は高齢化によって現在の100万人レベルから30万人へと減っていくとも見られています。我が国の農業は就業者数で全体の4%、国内総生産(GDP)では1%に過ぎず、さらに就業者の多くは昭和の前半世代であり、すでに引退期に入っているとされます。その面では我が国の農業は弱体化傾向にあると見ることが出来ます。

一方、アメリカの稲作農業は長い間、輸出産業として捉えられており、生産量に対して国内の消費量は極めて少ないのが特徴です。私が若い頃に一時住んでいたアーカンソー州リトルロックなどの南部には稲作水田が広がっており、水田地帯を車で走ると今自分がアメリカにいることを忘れてしまうほどの光景でした。広い農地で生産する安いコメに多額の輸出補助金をつけて海外市場を席巻したために、アメリカのコメの輸出量は今やタイに続く世界2位を保っており、その生産量は日本と並ぶところまで伸びて来ているのです。

日本のコメの生産量は1967,8年の13百万トンをピークに現在では7百万トンまで半減しています。そのため当時一人当たり年間126kgのコメを食べていたのが、今では64kgになっています。この日本人のコメの食べる量は今やアジアの平均一人当たり消費量65kgを下回るところまで低迷しているのです。日本人の食事の主体はコメから徐々にアメリカなどからの小麦類・畜肉乳製品へと移っていっているのです。これは日本だけの現象ではなくタイや台湾、マレーシアなどアジアのコメ産地でもすでに起こっており、中国でも所得が上がればコメの消費量が下がる、という図式に入っているようです。

しかし、米の生産効率は優れており、1ヘクタール当たりの収穫量はコメが3.6トンと小麦の2.5トンを上回り、しかもコメには小麦の2倍の有効タンパク質を含んでいるので、人類を支えていく栄養は小麦に比べてコメのほうがはるかに優れているのです。小麦を食事の中心に置くと、どうしても肉のような他の蛋白源が必要になってきます。

ところで日本人がアメリカのコメに脅威を感じないのは、高関税に守られていることにもありますが、我々がジャポニカの短粒種米という世界市場でも限られたコメの品種を好んでいるところにあります。しかし、今やコシヒカリの種子などは世界の稲作国に行き渡っており、日本の市場開放とともに徐々に身近で目にすることが多くなっていくことでしょう。そのときまでに日本農業再生の道を見極めておかなければ、今のわが国の輸出産業が国際競争力を失ったときには次世代の日本の子供たちが飢餓に襲われる恐れが生じてきます。

1993年のウルグアイ・ラウンド(多角的貿易交渉)農業合意を受けて日本が外国の農業国に一定のコメの輸入を認める代わりに、このミニマムアクセス(最低輸入量)枠外のコメの輸入には高関税をかけてコメの流入をブロックするという交換条件で稲作を保護しているのです。こうして日本のコメ農業は国際市場での展開が難しくなり、若い世代にとっては難しい産業となっているのが実情です。このようにコメの需給は国内市場に限定されているために、現在の我が国の農政はコメの需要の減少に対応して行われており、これから直面するかもしれない地球規模の温暖化に伴う食糧供給難への対応姿勢が見られないのが問題だとも言われています。世界の気温は今後も高まり、干ばつや砂漠化が予測されている中で、我が国が立地している温帯モンスーン地帯に適したコメの栽培はどうあるべきかの視点も欲しいものです。

 農水省としては、一方では現実のコメ政策としての農家を保護する施策として、消費者の高齢化と少子化により米の消費量が毎年10万トン減少すると見込んだ需給バランスを前提にしており、もう一方では主食米生産に加えて加工食品用や家畜飼料用などのコメの生産にも財政的な支援をしてコメ農業を支援していこうとの姿勢で臨んでいますが、はたしてこのままの状態を続けてよいものだろうか。勿論政府も食料の自給率を上げる目標を掲げて取り組んでいますが、その成果は表れていません。それは今まで農業を軽視して工業に力を入れてきた結果であり、今後その取り組み姿勢を見直さない限り、基本的な流れは変わらないでしょう。工業製品の輸出さえ伸びて貿易黒字が維持すれば、足りない食糧は海外から輸入できるとしていた従来の考えを変えなければこの流れは変わらないでしょう。今までの発想は安定した国際情勢の中で成り立つ発想であり、近年の温暖化による干ばつと水不足による食糧危機を前に緊張した国際関係の中では危険な考えと言わざるを得ないでしょう。これからは金さえ出せば食料品が安定的に買える時代ではなく、各国が自国民の保護を優先することによって、自国の限られた食糧には輸出規制が掛けられる時代になると予想されています。

 では、どのようにして若者が安心して農業に就業できる体制を作るか、この答えを見出すことが現代の我々に求められている課題です。国の農業を守ることは、そのまま国民の命を守ることにつながります。まず、若者が自分の将来を農業にかけたいと思える産業にしないと我が国の農産物の自給率は回復しないでしょう。農業で家族を養い、子供の教育もかなえられることが見えないと若者は農業に立ち向かっていかないでしょう。そのためにはまず、現在の政府の姿勢を大きく転換しなければなりません。そのためには農地の流動的活用などの農地法の改定が避けられないと思っています。そして温暖化が差し迫った今こそこの抜本的な農業革命を行うべき時だと思います。それは政府だけの役割ではないでしょう。国民が安心できる持続的な国内農業をどう作り上げるか、そのためには消費者の支えがないと政府の力だけではこの危機は脱せられないし、我々の民族は将来に続かないでしょう。

 先にも書きましたように我が国の先祖の弥生人や古墳時代の人たちはコメ作りの壁に立ち向かって多くの改革をし、苦難を乗り越えてきました。現在の温暖化に直面した我々の世代にも、時代に合わせた技術革新が迫られているのです。幸いにして日本は雨量が多いモンスーン地帯に住んでいます。作物を育てる農業用水は外国に比べて恵まれていると言えるでしょう。政策転換さえできれば可能性の地盤は整っているのです。

 そして我々消費者も海外の穀物に多くを依存するのではなく、自国で生産できる主食のコメだけは共に育てる気持ちが必要です。コメを食べるのは時代遅れで、欧米人が食べているパン食がスマートだ、なんていう時代遅れの錯覚は早く克服してもらいたいものです。

 21世紀の日本農業は従来の農民発想では大きな変革は不可能です。私は若い頃にアメリカのトウモロコシ農家や大豆農家と交流した経験があります。そして彼らの経営感覚と日本の農民思想との違いを強く感じたことがありました。彼らの農業はまさに事業経営者です。マーケット情報を検討しながら自分の限られた農地に何を植え付ければ収益を最大化できるか、収穫した農産物をどのように売却して利益を確保するか、これらを全て自らの経営判断で行っています。我が国は江戸時代からお上が栽培作物を決め、その値段を決めてくれて、農民はただ働くだけという仕事を続けてきました。今でも農水省が決めたことをするだけの農業では江戸時代と何ら変わりません。公的情報などを参考にしながらも、自らの経営環境に最もふさわしい事業展開をどう作り出していくか、この姿勢が求められているのがこれからの農業だと思います。そしてそれらを支援するために政府は農地売買の自由度を高め、自国民であることや農業を目的にした用途活用など必要な制限を設けながらも意欲ある若者に必要な農地が手渡せるようにしていく必要があります。こうして農地が市場ニーズに沿った形で供されていくことこそが大切です。また、少子化の時代に適応した農業には、AIなどの最新技術を活用した農業機械の開発にも積極的に取り組んでいかなければならないでしょう。補助金だけでなく、それらの環境を準備するのは政府の役割だと思います。我が国の農業が魅力的な産業になれば多くの耕作放棄地は生まれ変わり、農地価格も生き返るはずです。

わが国の農業の前に横たわっている大きな壁は農民の高齢化です。世界の農業はすでに多面にわたり新しい技術を使った「スマート農業」に足を踏み入れています。そして政府も「ディープテック」として新しい時代に向けたスタートアップに取り組もうとしています。こうした動きを速めながらも、もう一方では農民自らが経営者となり事業活動として取り組む姿勢への変革が必要であり、これこそが21世紀の日本の農業のあるべき姿だと考えます。

こうして国内の食糧自給率を高める取り組みを国を挙げて進めないと温暖化に直面したこれからの世界の食糧事情に日本は対応できないと思っています。

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