亭主の寸話80日本語はどのように出来たのか

 詩吟の仲間と漢詩や和歌などを楽しんでいると、どうしても話題は言葉の不思議さに行き着くことが多い。一体日本語ってどのようにして出来たのか、そんなことに興味を持っていくつかの本を読んでみた。そこで私が知ったのは古代の、飛鳥、奈良、平安時代あるいはもっとさかのぼった縄文・弥生時代の、私たちの先祖の人たちの優れた言語能力である。日本語は2つの分野で出来ており、一つは話し言葉であり、もう一つは書き言葉です。

まず、話し言葉ですが、日本語の話し言葉がどこから来たのかについては、現時点ではよくわかっていないようです。民族の間で言葉が受け継がれ、分かれてきた過去の歴史を持っていれば、当然のこととして日本語に似た言葉がどこかの民族に残っているはずです。しかし、言語学者たちが調べても、日本語に似た言葉はまだ世界中で見つかっていないのです。とすると日本語は太古の日本列島に住んでいた人たちが独自に作った言葉である可能性が高いのです。

 では、太古に日本列島に住んでいた人とは、どんな人たちだったのでしょうか。このことについては最新技術を使った研究によって近年になって明らかになってきています。それは最新式DNAシーケンサーを使って、それぞれの地層にあった古代人の人骨から、わずかに残っていたDNA解析することが出来るようになったからです。

 そこで分かったことは、わが国の古代縄文人のDNAは近隣の中国、モンゴル、ベトナムの人たちのDNAと明らかに別のグループであることを示しているという事実です。ということは太古の時代にこれらの地域の人たちが移住してきていなかったことを意味しています。しかし弥生時代の人骨になると4割近く渡来人のDNAが混じっており、さらに古墳時代になるとさらに多くの渡来人のDNAが混在していることが分かっています。わが国の古墳時代は隣国中国では戦乱のさ中にあり、大量の人が避難して渡来していたことが想像されます。

 弥生人の人骨に見る渡来人のDNAのルーツは北東アジアからのものとみられていますが、古墳時代になると日本列島に住む人の骨には東アジア、特に南中国、タイ、ベトナム、モンゴル、インドの人たちのものと見られるDNAが多く含まれるようになります。このように縄文時代の人骨には大陸とは異なった遺伝子によって成り立っていますが、時代が進むにしたがって大陸との混血が進み、現代の私達日本人は多くの民族による混血によって成り立っていることがすでに分かっています。

しかし、現代の我々日本人には16,000年前から3,000年前に日本列島に住んでいた縄文人のDNA今も体に持っていることも分かっています。例えば現代の東京に住む人たちのDNAの中には1割程度の縄文人のDNAが残っているのです。沖縄の人たちで3割程度、アイヌの人たちには7割程度のDNAが縄文人と共通しているのだそうです。そしてそのような縄文人と共通するDNAがあることによって、我々日本人は他の国の民族との文化面での違いを生み出しているのではないかとも言われています。

 ところが近年になってタイの山奥に住む森の民「マニ族」には縄文人と非常に近いDNA組成であることが明らかになりました。ここから日本列島に最初に住んだ人たちのイメージが大きく膨らんできています。

 今から67万年前にアフリカを出たホモサピエンスはまず、西アジアに向かって歩いて行きますが、ここで2つのグループに分かれて、1つはヨーロッパに向かって北上し、もう一方は東に向かってアジアに近づいてきますが、東に向かったグループも途中で2つに分かれて、そこから北に向かったグループと海沿いに東南アジアに向かったグループに分かれ、そして東南アジアには45万年前に辿り着いたことが分かっています。

このグループの中でインドネシア周辺に住み付いたグループから別れて、更に海岸沿いに進んできた民族が3万年前に日本列島に最初に辿り着いた人たちだったのではないかとみられています。

 2万年程前までの地球はまだ氷河期にあり、対馬海峡や津軽海峡は歩いて渡れる状態だったのです。こうして新しい土地を求めて日本列島に辿り着いた集団は非常にフロンティア精神が強く、困難に挑戦する意欲の強いグループだったと想像されます。

 やがて氷河期が終わり、海面が上昇してくると、日本列島に住みついた人たちは大陸から切り離され、その後は日本列島の中で独自の文化をはぐくみ、縄文文化を築き上げていったのです。こうしてどの民族にも影響を受けていない日本の言葉を作り、文字のない話し言葉を発達させたのだと考えられます。

 そんな日本列島に中国大陸から漢字が持ち込まれるようになるのは弥生時代半ばとみられています。この頃になると中国大陸との間で舟を使っての交流が始まっており、後漢の光武帝から贈られた金印や、卑弥呼に贈られた金印など中国の漢字が国内にもたらされるようになり、弥生時代の土器にも漢字らしきものが刻まれるようになります。 しかし、日本のこの時代の人たちはここで簡単に中国の文字に引き込まれて行ったとは見えないのです。身の周りに漢字が増えていく中で日本の古代人は自分たちの日本語を大切にし、言葉で語り継ぐという口承文化を約500年にわたって守っていくことになります。

 飛鳥時代になって自分たちの気持ちを和歌として記録するときにも、漢字の文字を日本語に置き換えた「万葉仮名」を考え出して、あくまでも日本語としての書き言葉を作り出しているのです。

 言語学者の調査によると、「万葉集」に使われている漢字はたったの0.3%に過ぎず、大部分は漢字の音読みを使った日本語で出来上がっているのです。では万葉集以外での漢字の割合はどうであったかを見ると、平安時代の「伊勢物語」での漢字の割合は6.3%、「枕草子」で13.8%であり、平安時代前半の日本語文章の中の漢字の割合は10%程度、平安時代中期で1520%、鎌倉時代の武家の言葉では25%、室町時代になると30%、江戸時代になると寺子屋による教育が盛んになり、35%と漢字の割合が徐々に高まっていきます。そして現代の我々の世代になると45%が漢字にと、現代の私たちの方が漢字の影響を強く受けているのです。

 では漢語と日本語はどう違うのか、それは音読みするのが漢語であり、訓読みするのが和語なのです。例えば「登山」(とざん)と音読みすれば漢語ですが、これを「山に登る」と訓読みすれば和語、つまり日本語なのです。紫式部が書いた「源氏物語」は漢字を和語として使っており、漢字から作り出した平仮名で大部分は書かれているので、日本語の物語と言うことが出来ます。ひらがなは平安時代の宮中の女性たちが用いたことで洗練度を増し、カタカナは僧侶や学者たちが用いることで簡易化が進み定着していったとされています。

 漢字も中国の地域によって読み方が異なっており、それぞれの時代によって我が国にもたらされているので、古代の日本人たちにとって厄介な言葉だったと想像します。最初に日本に入ってきたのが「呉音」による漢字であり、7,8世紀になって遣唐使などが「漢音」を持ち帰ります。さらに鎌倉、室町時代には禅宗の僧侶たちによって「唐音」がもたらされます。それらは現代では私たちは何気なく使っていますが、当時の人たちにとっては少し難儀したことであったろうと想像します。

 例えば「行」という字は、「呉音」ではギョウと読み、「行事」、「修行」などとして使います。「漢音」ではコウと読み、「行動」などとして使い、「唐音」ではアンと読んで「行燈」、「行脚」などとして使われています。 しかし、日本人は漢字をそのまま受け入れた訳でもなかったのです。

例えば「はたけ」は中国語では「田」と書いていました。そして状況によっては「水田」、「陸田」、「白田」、「火田」などと表現していたようです。「白田」は水けのない乾いた田であり、「火田」は焼き畑などのはたけを指していました。これを日本では奈良時代になると「白田」を組み合わせて「畠」とし、平安時代になると「火田」を組み合わせた「畑」という字が作られています。

 こうした漢字とは別に、日本人は昔から自分たちの感性に合致する漢字を次々に作り出していきます。例えば「盃」という言葉も「杯」とか「酒月」というように自分たちの感性に合う言葉を作り出して楽しんでいたようです。こんな言葉もあります、「ゆだん」を僧侶たちは「油断」と書き、公家は「遊端」とし、武家は「弓断」と書いていたことが室町時代の「伊京集」に書かれています。さらに和風漢字として「凪」(なぎ)や「雫」(しずく)など、さらには明治の初めに坪内逍遥あたりから小説の中に和風漢字が生まれるようになり「五月蝿い」(うるさい)や、夏目漱石の「出鱈目」(でたらめ)など日本人の感性に沿った文字を作り出しています。江戸時代から八十八歳のお祝いを「米寿」と呼び、九十歳の祝いを「卒寿」と呼び、さらに九十九歳の祝いを「白寿」と呼んで皆で祝ってきた歴史もあります。そのような和風漢字の創作は現在にも引き継がれています。自分が住んでいる近所のスーパーマーケットで買ってきた秋田産ホーレン草には「芳恋草」のブランド名が書かれていました。

 このような当て字、当て読みは古くから始まっており、平安時代の小野篁(おののたかむら)は、嵯峨天皇から「子子子子子子子子子子子子」と書かれたものの解読を命じられかが、篁は直ちに「ねこのここねこ ししのここじし」(猫の子仔猫 獅子の子仔獅子)と読んだと鎌倉時代の「宇治拾遺物語」に残されています。

 このような当て字に相当するのが、漢字だけで書かれた「万葉集」であり、今も解読が出来ていない歌があるようです。

 外国語にも日本語を上手に当てはめて日常的に使うようになっています。例えば「クラブ」という言葉も「倶楽部」としたり、明治時代には「苦楽部」と書いていたこともあったようです。さらには外国語の「ロマン」に「浪漫」をあてて表現するなどとしており、このような漢字は日本人の感性として我々にも受け入れられています。 また、「学問的」とか「論理的」、「哲学的」などのような「的」は、英語の形容詞を作る「--tic」という音からあてはめたものであり、これも明治時代に作られ今や広く使われている言葉になっています。 

 こうして見ると古代の日本人は仏教や儒教、その他多くの文化を中国から受け入れながらも日本語という自分たち独自の言葉をいかに大切にし、自分たちの感性を守ってきたかを知ることが出来ます。現在、世界の中で日本人のように漢字、ひらがな、カタカナという3種類の文字を日常的に使いこなしている民族は何処にもいないのです。私たちは3種類の文字を上手に使い分けており、世界でも珍しいくらい優れた言語能力を持った民族なのです。

 中国で生まれた漢字は当然のことながら日本だけでなく周辺国にも広まっていきました。そして日本ではひらがなやカタカナが生まれたように、それぞれの土地で新たな文字に生まれ変わっています。西域では西夏文字になり、北では契丹文字、女真文字に、さらには蒙古文字、満州文字など世界でも珍しい縦書きの文字文化が広まっていきました。しかし、時代を経るにしたがって漢字文化は変形していき、今では漢字を日常的に使っているのは日本と台湾ぐらいしかありません。

今テレビでは平安時代に紫式部が当時宮中で広まっていたひらがなを使って「源氏物語」を書き進めていった大河ドラマが始まっています。このテレビ番組を見るにつけ当時の日本人たちが苦悩し、憧れを持って使い始めた漢字、ひらがな文化を改めて見つめ直す気持ちになってきます。

 

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