亭主の寸話78「大豆の歴史について」

 私は長年、仕事の一環として取り組んできた大豆について、現代の若い世代の人たちが充分にその姿を認識していないのではないかと思い、大豆が現在に至るまでに辿ってきた歴史を本にまとめてみました。

 私が仕事として取り組んでいたのは、大豆の栄養面での分析評価や新しい大豆の用途開発が中心であり、多くの大豆研究や著書もその分野について触れているのが中心となっています。さらにもう少し専門的になると、大豆の栽培技術や穀物としての国内国際的需給状況についての研究、調査も多く見られます。

 しかし、大豆が現在の姿にまで発展してきた足跡について触れている本はほとんど見当たりません。私は今や世界の五大穀物の一つとまで言われるようになっている大豆が何故ここまで成長してきたのかを皆さんに知ってもらいたくてこの本を書いてみました。

 ここで、この本に書かれている大豆の歴史の概要を示すと次のようになります。


 大豆は、元々はツルマメという野生の雑草だったのです。このツルマメが生えていた地域は、世界の中でも限られており、日本、中国、朝鮮半島を中心とする東アジアの一角にしか存在していなかったのです。そして現代の考古学的研究によって、それぞれの地域で独自にツルマメから大豆に変身していったことが分かっています。それは今から約
5千年前の、日本では縄文時代の中期とされており、我が国では山梨県北杜市にある酒呑場遺跡から見つかっているのが、現時点では最古の大豆とされています。

 縄文人たちが狩猟採取生活から栽培生活に移っていく過程で、それまで食糧としていた野生の雑草であるツルマメを、繰り返し種まきしているうちにツルマメの種子が徐々に大きくなり、5千年前の縄文時代中期に大豆に変身したのです。また中国の大豆も、朝鮮半島の大豆もほぼ同時期にツルマメから大豆に変身していることがそれぞれの考古学的研究によってわかっています。

   こうして縄文人たちはツルマメを栽培しながら大豆に育てていく一方、土器を作って大豆調理へと進んでいったのです。大豆には、加熱処理して失活させないと食べられない酵素が少なくとも2種類含まれています。そのため大豆の加熱処理のためにも土器が必要だったのです。縄文土器にはそのような役割があったのです。 こうして私たちの先祖の人たちはツルマメ時代を含めると1万年ほどもの長い間、大豆に関わってきたと想像されます。しかしそれも多くの他の食材の一つに過ぎなかったと見ることも出来ます。しかし、縄文時代の後半になると稲作文化がわが国に渡ってきて、大豆は稲作と共に日本中に広がっていったことが分かっています。こうして古代飛鳥、奈良時代になると大豆は重要な食料として税として収められていたことが分かっています。

 日本が国を挙げて大豆に取り組んだ画期的な出来事がありました。それは明治新政府が取り組んだ富国強兵政策です。西洋諸国を視察して帰ってきた政府高官たちは日本人の体格の弱小さを痛感し、食糧増産に乗り出します。そこでまず指摘されたのが、農業肥料が人糞や牛糞に頼っている当時の日本農業を近代化し、もう少し窒素分の多い効果の高い肥料に切り替えていくというものでした。

 そして、検討の結果焦点が当たったのが、周りの海で大量に獲れていたニシンやイワシでした。これらは当時、自分たちが食べる量を遥かに超えて獲れていたので、これらを釜茹でした後に天日干しして「魚肥」にしようとしたのです。今も北海道の江差などへ行くと、当時の面影を見ることが出来ます。 
 この計画は数年間はうまくいきましたが、突然これらの魚が獲れなくなると言うアクシデントに見舞われます。すっかり魚肥に頼っていた国内の農業は大混乱に陥り、政府も新たな対応を迫られることになります。

ここで脚光を浴びたのが、当時の満州で農業用肥料として利用されていた、大豆から油を搾った残りの大豆粕でした。我が国の肥料商人が臨時に輸入して農家に配布したところ魚粉に勝る効果があると大変な人気になりました。急遽、政府の研究機関も大豆粕の栽培試験をしますが、その結果は、米だけでなく、その他の農産物に対しても大豆粕のほうが魚粉よりもはるかに優れていることが証明され、国内の農業肥料は一気に大豆粕利用へと傾いていきます。

一方、日露戦争でロシアに勝利した賠償として満州の鉄道利権を手に入れた日本政府は、ここに「満鉄」(南満州鉄道株式会社)を設立し、満州で広く栽培されている大豆から大豆粕肥料を作る取り組みに力を入れていきます。このことによって国内の大豆粕肥料は安定し、国内に満州大豆が輸入されることにより国内需給に余裕が生まれる一方、国内の大豆農家は安価な満州大豆に押される格好になっていきます。 
 こうして国内には輸入大豆を原料とした大豆製油工場が次々と生まれ、大豆油の生産と副産物として生れる大豆粕を農業用肥料へと拡げていきました。こうしてわが国の農業は大豆粕肥料によって大きく発展しましたが、その勢いも、その後新たに生まれた化学肥料である「硫安」の登場によって、肥料としての役割は途絶えてしまいます。

こうして農業用肥料を大きな用途として発展していた国内の大豆製油会社は大きな試練に立たされることになります。そしてここで新たな大豆粕の用途として生まれてきたのが、第二次世界大戦後の肉食、牛乳飲料などの洋食ブームでした。

従来の農家の周囲に生えている草などで育てる肉牛や乳牛に比べて、タンパク質の豊富な大豆で育てる畜産が、肥育効率としてはるかに優れていたのです。こうして日本だけでなく、世界の畜産業は一気に大豆粕の飼料化へと傾注していき、現在もその流れの中にあると言えます。

一方、食糧としての大豆の役割も世界の大きなうねりの中にありました。そのきっかけとなったのが、1904年に始まった日露戦争です。この戦いは世界の多くの予想に反して日本が大国ロシアに勝利して終了します。この戦争を多くの西洋諸国の軍事関係者は興味を持って研究しています。そしてその中で浮かび上がってきたのが、満州と言う極寒の地で戦われた戦争の勝敗を左右した要因にひとつとしての食糧問題でした。日本軍は戦地である満州で調達した大豆を兵士の食料としていましたが、当時はまだ大豆という食材に触れたこともなかったロシア軍にとって大豆を有効に利用することが出来ていなかったのです。

日露戦争終了後、ロシア軍の跡地を調査した報告書では、ロシア軍の食糧倉庫には大量の大豆が残っていたが、十分に活用されたとの形跡が見られなかったとのことでした。つまり戦争では限られた小麦だけではなく大豆の活用が重要だとの認識が、特に寒い地域のドイツ軍の中で広まっていきました。このことが続いて起こる第一次世界大戦でのドイツ軍の取り組みに現れてきます。ドイツ軍は第一次世界大戦に備えて大豆を確保しましたが、その量が不足して食糧不足を引き起こしてしまい、民衆の反乱、革命へとつながっていくことになります。

第二次世界大戦前になると、大豆は戦時体制での食料としての認識が西洋諸国に広く行き渡り、ヨーロッパ諸国を含めたロシア、ドイツからも大豆に対する強い要望が湧き起こってきます。ドイツ軍はすでに満州と言う大豆生産地を抑えている日本との同盟を望み、三国同盟締結へと進みます。それに対してイギリス、フランスやロシアは大豆の最大生産地である満洲に依存することが出来ず、新興農業国アメリカに大豆の供給を強く要請していったのです。
アメリカはこれらヨーロッパの同盟国からの要望に応えるべく、第二次世界大戦が始まると大豆の国内生産に国を挙げて取り組み、その結果戦争が終了した時点では、アメリカは世界最大の大豆生産国にのし上がっていました。一方、戦争に負けた日本は、満州国を手放したことにより国内生産に頼るしかなく、戦後の大豆不足状態は深刻な事態となり、結果的に大豆王国となったアメリカからの大豆輸入に頼る状態になっていきます。。

第二次世界大戦中はヨーロッパ、アメリカなど、今まで大豆を食べたこももなかった国々でも大豆食品が大量に出回り、各国は政府をあげての大豆食品の奨励に力を入れていきます。しかし、これらの流れも戦争が終了すると共に消えていき、今では元の肉食中心の食生活に戻り、大豆は肉食を作る飼料になっているのはご承知の通りです。

第二次世界大戦が終了し、世界の食料事情が安定してくると大豆に対する期待も違った形となって表れてきます。まず大きなうねりとして現れてきたのが、アフガニスタン戦争によって引き起こされたアメリカの穀物の輸出規制と、それによって起こるアメリカ農業のつまずきでしょう。そしてここで頭をもたげてきたのが南米の大豆生産への取り組みでした。それまではアメリカからの輸入に頼っていたソ連が、アメリカからの穀物の輸出停止を受けたことによって、食糧の安定供給先としてアメリカ以外の供給国を求めて南米に目を向けていったのでした。

実は、大豆の供給先として南米に目を付けたのはソ連が初めてではなく、日本の田中内閣が進めたブラジルのセラード開発がすでに大きな流れを作っていたのです。1972年に南米沖で起こったエルニーニョ現象によって、それまでアメリカなどで肥料として利用していたアンチョビー(カタクチイワシ)が不漁となり、それに代わる肥料として大豆粕に需要が集中する状態となります。

アメリカにとっては大豆価格が高騰してくれるのは有難いことですが、そのことによって国内の畜産物の価格高騰が起これば国内の消費者から強い不満を買うことになります。当時のニクソン大統領は、国内の大豆価格を安定させるために、海外への輸出を一時的に停止するという処置に出たのです。これに対して、国内の大豆供給を大きくアメリカに頼っていた日本にとっては大豆の在庫が底をついてしまい、町の豆腐屋の前には長い行列が出来る大きな社会問題に発展しました。そこで、大豆の供給をアメリカ一国に頼っている不安定さを認識した田中内閣は、南米に飛んでブラジルの不毛の地(セラード)の開発に乗り出します。このセラードはブラジル全土の24%を占める広大な面積でした。

すでに多くの移民をブラジルに送り込んでいた日本は国際協力機構(JICA)を核とした取り組みをはじめ、大量の資金と長期に亘る技術供与によって、ブラジルの不毛の地を大豆畑に変えていったのです。結果としてブラジルは今や世界最大の大豆生産国となり、このことによって、日本はその後も北半球のアメリカから安定的に大豆を輸入することが出来るようになっているのです。

かつては大豆が生まれ、世界に供給していた大豆王国だった日本、中国、韓国は今や南北アメリカからの大豆の最大輸入国へと変身しています。この激変の一世紀をまとめたのがこの本です。

 世界の大豆は今や新たな時代を迎えています。この本には大豆が持つ新たな可能性についても大きな示唆を含んでいると思っています。これら大豆について詳しく見てみたいと思われる方は、この本「大豆 その歴史と可能性」(幸書房)を見てください。恐らく多くの読者が知らなかった大豆の歴史に驚かれることと思います。

 

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