亭主の寸話77「遷都の立役者、江藤新平の悲惨な最後」

 江藤新平は「亭主の寸話76」にも書いたように明治新政府になって都を京都から東京に移すことを企画立案した立役者であり、新政府で初めての司法卿として一切の法律はこの江藤が作ったのです。その江藤が佐賀藩の元士族たちの不満分子に担ぎ上げられて、最後は自分の作った法律によって死刑となり、さらにそのさらし首の写真が全国の役所に配られるという、悲惨な結末を迎えたことについて触れたいと思います。

 佐賀藩の士族たちには幕末の権力移動という天下の一大事のときには藩内で議論ばかり繰り返していて意見の一致を見ないうちに天下のことが決まってしまい、結果的に薩長の後ろについていくことになって、藩内には大きな不満が溜まっており、いつかは佐賀藩の実力を示したいとの思いが強かったようです。そんな時、明治6年に征韓論が起こったので、これをチャンスとみて他の藩よりも早く我が藩が朝鮮に渡って藩の実力を示したいと思っていたが、征韓論は敗れてしまいそのことによって江藤新平、副島種臣は西郷隆盛と共に職を辞したとの知らせが届いたので藩士たちは憤激して憤りが収まりませんでした。

この一連の事件は明治6年(1873)、岩倉使節団が欧米に視察に行っているあいだに起きました。当時の東アジアの国際情勢は日本にとってロシアの南下政策という脅威が拡大していた頃だったのです。そこで日本にとっては朝鮮を開国させて彼らを盾としてなんとかロシアの南下を食い止めてほしかったのです。しかし当時朝鮮の実権を掌握していた大院君は日本の欧米化を夷狄に化した国として嫌悪していました。そんな中で起こったのが釜山の日本人居留地の封鎖でした。これに対して閣議で議論した結果、居留民保護のために派兵すべきという方針に傾いていきます。これに反対したのが西郷隆盛でした。彼はいきなり派兵すると戦争に発展しかねないので、まずは外交交渉で解決しようというもので、その役を自ら買って出たのです。しかし、これに反対したのが欧米視察から帰国したばかりの岩倉や大久保でした。ここで両者の意見が激しく対立し、明治天皇の裁断を仰ぐことになります。明治天皇の反対によって西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが辞表を提出して政府から去ることになったのです。

そんな中で藩士たちからは「政府が征韓を止めても我々はあくまでも実行しなければならぬ、我が佐賀藩は独力で韓国国土を蹂躙して皇威の発揚をはかり、海の外に領土を求めんとするものなり」と言ってその事務所まで作り、そこに「征韓先鋒請願事務所」の看板を掲げて同志を募り始めていたのです。このような動きは当時ではどこの藩にも起きていたようですが佐賀藩では特に激しかったようです。しかしこの時になっても佐賀藩では維新前に勤王佐幕で藩内では二派に分かれて争った感情がそのままに残っていて、やはり何事についても双方相容れぬしこりがあったようで、佐賀藩には江藤を信奉してその意見に従うものと、やみ雲に江藤派を毛嫌いする一派とがあったのですが、それがそのまま征韓論にもつながっていき、両者の間には激しい亀裂が生じていたのです。江藤が唱える改革案はいつも10年先を指摘しているところもあり、それを理解できない輩たちは江藤にたいして異端邪説を唱える人として毛嫌いしていたのです。しかしこの征韓論については両派の士族ともに多少のニュアンスの違いはあるにせよ征韓については積極的であることには違いがなかったのです。これらの藩内の動きに対してその当時、佐賀藩の参事であった森長義はこの藩内で起こっている、政府が取り止めた征韓論に対する反対運動に対して心配して、これらの熱気を静めることに気をもんでいたが、どう話し合っても両派ともに静まる気配がないので森はこのことを中央政府に報告して最後の指揮を仰ぐことにしたのです。

 佐賀藩の報告を受けた東京の政府は今にも佐賀藩士族の反乱や謀反が起きるのではないかと神経をとがらせる者もいたようです。江藤自身はこれら佐賀藩内で起こっている動きをそれほど神経質にはとらえていなかったようですが、政府がこれを妙な制止の仕方をするとかえって不測の事態を招かないとも限らないので、副島とも相談して自分が佐賀へ帰ってこの動きを先導している主だった者をなだめておく必要があると思っていました。そのうちに佐賀藩内ではこれらを進めている中に憂国党という組織が出来上がり益々状況は不穏になってきました。ここに至って江藤が副島と相談して二人で帰国することにしました。江藤はこのことを書面で板垣退助に報告していますが、板垣は江藤からの書面に驚き、直ちに副島の家に出かけていきます。そこには江藤もいたので板垣は二人に「もう一度考え直してもらえないか。実は土佐にも同じような動きがあり士族が動揺しているようである。今にわかに我々が帰国するとかえって火に油を注ぐようになって皆をなだめることが難しくなるのではないか。自分は帰国しないつもりだから君たちもしばらく様子を見ていてもらえないか」と思いとどまるよう説得したが江藤は「佐賀藩の士族が動揺しているのをこのまま見過ごすことは出来ない。土佐藩の士族はそれほどでもないだろうが、佐賀藩は二つに割れてお互いがしのぎを削る争いになる可能性がある。このまま放置しておいて騒動が起こってから駆け付けたのでは納まらなくなってしまう。一日も早くなだめておくことがいいと考えて副島さんと一緒に行くことにしたいので許してもらいたい」と折れないので、板垣はさらに頑強に押しとどめます。最後には、今回は取りあえず江藤だけが佐賀に帰って高まっている皆の昂っている気持ちを慰撫するということになったが、板垣はこのことに「喜んで同意は出来ぬ」と言ったとされています。あとから考えるとこの板垣の忠告は的を得ていた感があったことになります。

 江藤はこの後、板垣が言った通り佐賀へ帰国した後には不平士族のとりこになり謀反の渦中に巻き込まれてしまうことになります。政府は江藤が佐賀へ帰ったことを聞いて、不平分子と一緒に征韓論に対する謀反の動きに加勢するのではないかと皆が心配を始めます。それも当然のことで、江藤が帰国した時には佐賀県庁の役人の大半は江藤の味方と称する勢力で占められていたからです。その江藤が不平分子を扇動したら大騒動が持ち上がり、それに呼応するかのように他の藩の不平士族が反政府運動を引き起こして九州各地に広がることも考えられたからです。だから政府は江藤が佐賀に帰国することに神経をとがらせていたのです。そこでこれらの動きを封ずるために政府は高知県出身の岩村高俊を縣令に任じて佐賀県へと派遣しています。しかし岩村が鎮台兵を率いて佐賀入りしたのに佐賀の士族たちは佐賀人を侮辱した態度だとして激昂してしまいます。
 江藤はまずは佐賀に入って主だった顔ぶれと話し合ってみますが不平士族の鼻息は荒くとても収めることが出来そうにないので、そこで一旦は彼らの矛先を避けるために長崎の深堀に潜伏することにします。しかし鹿児島から帰ってきた佐賀藩士に見つけられて、こんなところに隠れていないでしっかりと話し合ったほうが良いのではないか、と言われて改めて江藤は佐賀に入っていきます。この時点でそれまで二派に分かれて反目しあっていた県内の藩士たちもここにきて一つにまとまり、あくまでも征韓の目的を達しようと士族たちの意気込みはますます激しくなっていきます。しかもそれらの動きはさらに発展して政府の改革にも手を付けていこうという雰囲気になってきます。

 ここにきて政府も一大決心をして熊本鎮台の兵を繰り出すことを決めます。これに対して佐賀士族たちは「もし政府が理不尽に兵を繰り出して佐賀に乗り込んでくるようなことがあれば、我々もこれに応戦する覚悟である」としてますます意気盛んになっていくのでした。実は江藤はこのような動きになることを好んではいませんでした。しかし周囲の様子がひっ迫してきて今となってはどうすることも出来ない状態でした。ここにきて江藤も板垣から言われたことが当を得ていたと知ることになりますが、事態は江藤にとってもどうすることも出来なくて、挙兵に同意をするしかありませんでした。これらの佐賀の様子は刻々と政府に伝えられていたので、政府もここに至っては鎮圧に乗り出すしかないとして陸軍少将野津鎮雄に多くの鎮台兵を繰り出すように指示します。これら政府の動きも佐賀にも伝えられたので彼らは直ちに佐賀県庁を襲撃するのです。それは明治7212日のことでした。それに引続いて彼らは小野組の銀行に押し込み15萬両の金を押収してこれを軍資金として堂々の陣を張ることになります。こうして両者の激闘が始まりますが、当初は佐賀の士族たちの勢いが勝りましたが、東京と大阪の鎮台から繰り出された官軍の本隊が到着すると形勢は逆転してしまいます。両者の間には兵器の量においても大きな差があり、その月の25日には反乱軍は決定的な劣勢へと追い込まれてしまいます。政府の側もこの戦いを一日も早く終わらせておかないと九州の他の不平士族たちが立ち上がる危険性も感じていたので、大久保利通が自ら佐賀に乗り込んでくることになったのです。大久保は内務卿であり、本来は軍事には直接関与しない立場ではあったが、佐賀に潜り込んでいた間者からの報告に危機感を感じて自ら乗り込んでくることになったのです。

 この頃になると政府の中で大久保に対して厳しい進言が出来る人物が少なくなっていましたが、唯一伊藤博文が大久保に対して思い切った提言が出来る者であったとされています。そしてその伊藤が大久保の後ろについてなにかと進言していたことは容易に想像されます。佐賀の不平士族たちの先頭に立って戦うということは江藤には得意とするところでなかったので、実際の官軍との戦闘指揮は朝倉尚武がもっぱら行っていました。いずれにしても烏合の衆を集めて、しかも不充分な武器では長く戦争を続けることは出来ません。江藤は戦いの初期から、「この戦争を数十日間続けているうちに各方面の不平分子が随所で兵を挙げれば、たとえその力が微弱であっても官軍は敗れるに違いない。そのためには自分が薩摩に行って兵を挙げるよう要請してくることが肝要である。西郷一派を挙兵させるのが良策であろう。」としてこの官軍の囲みを破って薩摩へ行く作戦に出ます。この時にはすでに官軍の本隊は到着しており蟻の這い出る隙間もないほどでしたが、苦心の末に江藤は護衛の船田次郎と江口十作の両人を連れて、この囲みを破って薩摩に向かって昼夜兼行で走り、鹿児島に辿り着くことが出来たのでした。鹿児島へ行ってみると西郷は日奈久の温泉に行っているということだったので、直ちに引き返して江藤は西郷に会っています。江藤は懇懇と話し込んだが西郷は江藤の話には承知しなかったのです。仕方なく江藤は鹿児島を離れて四国に逃れて、佐田岬に上陸した後、そこから山道を越えて高知県に入っていきました。高知県の林有造と片岡健吉を頼って来たのですが、政府は佐賀の騒ぎが始まると同時に土佐も不穏な状態にあることを察知していてすでに陸軍大佐の北村長兵衛が軍艦に乗って土佐の浦戸まで来ていました。危険を察知した江藤はここで甲浦に引き返しています。しかしすでに江藤の顔写真がこの地帯にも配られておりこの地で逮捕されてしまいます。

この時に江藤を逮捕した地方役人は江藤に顔写真を見せて「これは誰の写真であるか」と聞いたのに対して「自分は江藤である」と名乗ったので、その役人は「自ら名前を名乗った以上は自首したのと同じであるから縄をかけずに県庁に引き立てる」と言ったのです。江藤はこの役人の武士道の扱いに感激してここで自分の心境を歌に残しています。 [ますら男の涙に袖をしぼりつつ迷う心は唯国のため] 後にこの歌を江藤の辞世の句とされています。

 江藤が拘束された後、佐賀の主だった反乱分子のほとんどは逮捕されます。そして佐賀に臨時裁判所が開かれ、江藤をはじめとする反乱士族の審判をすることになりますが、ここでこの審理を誰がするかが大きな問題になりました。ここでの裁判をする裁判官は司法卿であった江藤新平を裁くことになるので、江藤以上の立場の者で司法部内でも屈指の人物でなければならない。しかも政府からは「最も厳重な処分をしろ」との注文があったので人選が大変であった。司法部内の者は皆な一度は江藤の世話になったことがある者ばかりであるからである。ところがこの役目を引き受けたのは大判事の河野敏鎌であった。この者は普通の人情から言えば江藤を裁くことが出来ない人物であるはずである。河野は維新前に武市半平太の獄に連座して命が危なかったところを明治政府になった時の大赦令によって赦免の恩典で出獄できたが誰一人手を差し伸べる者がいなかったものを、江藤が引き取って自分の司法省へ引き入れてくれたのです。その後河野は大判事まで栄進したが、ここで大恩人の江藤を裁く役を引き受けたのには周りは驚き、世間でも非難が起こっていたほどです。しかし河野はこの裁判を引き受けて直ちに佐賀へと出発します。当然のこととして政府内にも江藤の命を助けたいとする動きもあったのですが、大久保、伊藤を中心に江藤を死刑にしろとの強い圧力をかけていたのです。この頃には木戸孝允と西郷隆盛も政府から去っており、残された中で大久保の意向に反対出来る者はいなくなっていたのです。

 大久保から強く指示されていた河野は1回の取り調べだけで、まだ江藤本人の意見陳述もないまま江藤に対して最も重い死刑である梟首(犯人 斬首 を公衆の前にさらす 刑罰 )を言い渡したのです。それを確認して同席していた大久保は引き上げていったとされています。そしてその日のうちに佐賀城内の刑場に引き立てられて江藤は断頭台の露と消えてしまいます。そして大久保が治める内務省からの通達で江藤が梟木にさらされている写真を全国の役所に配って「最も人目に触れるところに掲げるように」との指令があったとされています。

江戸を東京にし、さらに天皇を東京に向かえて近代日本に大きく舵を切った、そのきっかけを作った江藤のなんとも悲しい結末を見てきました。なぜこんなことになってしまったのか、そこには誰に対しても間違ったことに対しては厳しく糾弾する江藤の性格を大久保が嫌っていた、とも言われているが、なんともやりきれない思いが尾を引いてしまいます。そして大久保の指示に従って江藤を裁いた河野は後に農商務大臣から枢密顧問官になっています。


 

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