亭主の寸話 76 『どのようにして東京が都になったのか』 

 私は日本の明治、大正、昭和初期を中心とした近代史に興味があり、いろいろと本を読んでいますが、興味深い記事にもいくつか出会えて楽しんでいます。それらの中からいくつかを紹介してみたいと思います。まず初めに天皇陛下を東京に遷っていただいて都を京都から東京に移すという計画がどのように進められたのか、について書いてみたいと思います。

 わが国の都は平安時代以来、約1,000年もの間京都にあり続けた長い歴史があります。それだけにこの長い歴史を突然変えて都を移すことには強い反発があったものと想像します。この微妙な課題をどのようにして実現させたのか、興味が尽きないところです。

 実は、慶應4年の4月に江戸城無血開城し、5月に上野、彰義隊との闘いが終わって間もなく年号を明治に変更しますが、それに続いて江戸を東京と改めています。そしてその年の10月には天皇は東京に遷られているのです。これらはどのように成し遂げられたのか、朝廷の内部の反対をどのように説得し、遷都の議をどのように御採用になられたのか、興味が尽きません。それを記した「明治裏面史」(伊藤仁太郎著、大正9年発行)などから紹介したいと思います。

 この東京遷都を始めは大久保市蔵(後の大久保利通)によって建議されたかのように伝えられていますが、実はこの動きはもっと早くにすでに動き出していたのです。それは江戸時代の文化文政の頃の学者、佐藤信淵が帝都を江戸に移す必要があることを説いているのです。しかしこの時はそれ以上に議論が発展することなくそのまま静まってしまっています。ところが明治になって慶應年代の末に前島密がこの佐藤信淵の論法を蒸し返して江戸に遷都することを主張したのです。しかしこれも民間人が議論を吹っかけたにすぎず、これもそのまま見過ごされてしまっています。その後大久保利通が帝の大阪への御遷座を建議し、これは朝廷で議論されていますがこれも認められずに却下されてしまいます。この時の大久保の建議は都を江戸に移すという内容ではなく単に大阪への行幸ということでしたが、このことの裏には大阪への遷都を構想していたと言われています。

 では誰が東京への遷都を提案したのか、それは佐賀藩の江藤新平でした。この人は後に明治政府の司法卿兼参議にまでなった人ですがその人生は波乱万丈に満ちた人でした。江藤は子供の頃は家が貧しく進学できなかったので弘道館教授であった枝吉神陽の私塾に学び、ここで神道や尊皇攘夷思想に影響を受けることになります。彼は自分の貧困を「人智は空腹より出る」を口癖にしていたと言われており、貧しい中にもいつも前向きな姿勢を崩さなかった人だったと言われています。嘉永3年に師匠の枝吉神陽が「義祭同盟」を結成すると大隈重信、副島種臣らと共にこれに参加します。そして22歳の時(1856年)にアメリカのペリー来航やロシアの艦隊などが我が国に通商を求めてきたのに対して開国の必要性を説いた「図海策」を書いています。

江藤は1862年に佐賀藩から脱藩し、桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触した後帰郷しますが、通常脱藩は死罪とされていましたが江藤の見識を高く評価した鍋島直正の裁断で永蟄居に軽減されます。しかし江藤は蟄居中も寺子屋の師匠などをしながらも同志らとの交流を続けています。 

 15代将軍徳川慶喜が大政奉還で幕府が消滅したことにより江藤の蟄居も解除され郡目付として復帰することになります。1868年(慶應4年)1月の王政復古の大号令により新政府が誕生すると今度は京都に派遣されます。そして戊辰戦争では東征大総督府軍監に任命され江戸に向かうことになります。そして江戸開城が決まると城内の文書を接収し、これを持って京都に戻ると岩倉具視に対して大木喬任との連名で、江戸を東京と改称すべきとして東京への改名と帝の東京遷都を献言しています。その時に書いた東京遷都についての部分の献言は簡単に書くと次のような文章になります。「江戸の混乱の原因の一つは徳川慶喜の処遇が放置されたままになっていることによる。誰もが納得する処遇をすることによって新政府の公明正大さを世に示すことが大切である。慶喜にはなるべく別の城を与え、江戸は急いで東京に改名することが重要であろう。そのうえで恐れながら天皇によって東京をもって東方を治められる拠点とされるようにしていただきたい。そのうえで東西両京の間に鉄道を敷くこと無しでは日本の将来は安泰することはないであろう。しかし江戸の情勢は必ずしも都としての体制が整っているとは言い難く、そのためにも江戸城を東京と定めておくことこそが大切と考えます。これは策略とも謀略とも違って公明正大なる計画です。このこと腹を割って慶喜様に申し上げれば当然慶喜さまは承知してくださることでしょう。東京の人民も安心し、安堵することと思います。そうすれば皇室の威厳も高まり将来も安定してくると考えられます。しかしこのことは天皇の東下がなければその機会を逸することになります。天皇東下の機会を捉えて徳川時代の悪弊を少しずつ取り除き、市民の苦労を察して善政をすることが大切と考えます。これも天皇の東下がなければその機会を失い、うまくいかないと思われます。」今の言葉で書くとこのようになると思います。江藤のこの建議を見た岩倉は江藤の能力を見込んで徴士に登用します。徴士とは明治政府が能力を買って採用した者のことです。 この提言を江藤と連名で献上した大木喬任とは同じ佐賀藩に育ち、身分は江藤とあまり違わなかったのですが大木の家は富んでいたので江藤が脱藩している間は江藤の経済的援助を続けていた間柄であったのです。江藤はその恩義を感じて岩倉具視に進言するときに大木との連名にしたと考えられます。 

最初はこの建議は佐賀藩へと提出され、佐賀藩内で議論されてから朝廷に建白することになりました。しかしここで長州藩の廣澤兵介が時期尚早と唱えてなかなか前に進みませんでした。そのためにこれは一時棚上げになっていましたが木戸孝允が長崎のキリスト教徒処分問題の視察から帰ってきてこれを見て、廣澤を説得して納得させたので廟議に呈上されて議論され可決することとなります。そしてこれを木戸孝允と大木喬任の両名が詔を奉じて江戸に下り、有栖川熾仁親王、三条実美、大久保利通、大村益次郎などで評議することになりました。江藤新平はこの自分の提言が議論される前に、鎮将府の役人として江戸に来ていたので、大木と木戸が江戸に着くと直ちに江藤と相談して三条を主席として大久保、大村などを交えて会合を開き、3日間の会議の後に江戸を東京に改め、天皇の行幸を仰ぐことなどに合意となりました。

 この決定を持って大久保と木戸は直ちに京都に戻り、このことを岩倉具視に報告し、正式に廟議を開いてもらい、ここで江戸を東京に改め、陛下には東京に親臨して政をみていただくことが定まったのでした。この時に発せられた帝の詔には「朕、今万機を親裁し、億兆を綏撫す、江戸は東国第一の鎮、四方輻湊の地、宜しく親臨以てその政を視るべし、因って自今、江戸を東京とせし、是れ朕の海内一家東西同視する所以なり、衆庶この意を体せよ」と発せられています。この詔と合わせて副書が発せられていますが、そこにはもう少し詳細に天皇のお気持ちが述べられています。

 ここに東京遷都が実行され、明治元年10月に明治天皇は東京に行幸することになります。実は、明治天皇は明治元年4月11日に江戸城が無血開城された4か月後の8月に15歳で即位されたばかりだったのです。そして翌月の9月には京都を離れ東京に向かうことになります。この時の随行者は3300人であったとされています。230年間御所から出たことがなかった天皇が京都の地を離れて、当時は京都の人たちからは低く見られていた東京に行くことに公家の多くや皇族の一部に反対の動きが始まりますが、時世に押されて東京行幸が実現していくのです。御所を出た天皇は大阪まで来て初めて海を見ることになります。そしてその海の広さに驚かれるが、その後も東海道を通る間に周りの景色や商人の姿によって初めて現実の社会を垣間見ることになります。こうして10月13日に明治天皇は東京城(江戸城)に入ることになります。しかし京都に残した人たちへの心配りもあり、天皇はその年の12月に京都へ戻ることになります。後にこのことを「京都への還幸」と呼んでいます。
 翌年の明治2年3月28日に明治天皇は再び東京に「行幸」されます。この時に江戸城を改称して東京城と呼んでいたのを「皇城」と改めてそのまま定住することになります。しかしあくまでも天皇は東京に行幸している形のままであり、法律上は今も東京を首都とは定義していないのです。これらは千年都が続いた京都への遠慮であるとされています。明治天皇は明治45年7月30日に崩御され、大喪の礼は現在の明治神宮外苑の地で行われますが、葬られているのは京都伏見の桃山陵です。これは明治天皇ご自身の意志であったとされています。15歳で生まれた地京都を離れ、その後東京から離れることが出来なかった明治天皇にとって幼少時代の思い出につながる京都の地で安らかに眠ることは心から望んでいたことだったのでしょう。

 このように東京遷都は佐賀藩の江藤新平による提言だったのです。江藤はさらに江戸の町の行政に詳しい元幕臣から聞き取り調査をおこなって江戸の町には7つの弊害があることを提言します。それは9割の人は貧しいこと、その原因は借金を抱えていることによるとしています。さらに借家に住んでいるものが多く、その家賃が高いこと。火事が多いことなどを挙げて、これらに対する改善策を実行していきます。

 東京に名前を変えたが新政府の財政は窮地にあり、国家財政の立て直しが急がれていました。そこで政府は江藤を国家財政の仕組みを作る会計官判事に任命します。そこで江藤が作ったのが「政府急務15条」です。そして政府内に予算を立てる部署「会計局」を作り、各省庁には報告の義務づけをします。また、従来は農民に偏っていた税を士族にまで広げて、天皇を除くすべての国民に納税の義務を課したのです。このことにより江藤は士族から怨まれ、明治2年12月に6人の刺客に襲われます。襲ったのは元佐賀藩の下級武士で、これに驚いた元佐賀藩藩主で佐賀県知事の鍋島直正は彼らに死刑を言い渡します。しかしこれに被害者であった江藤が異議を唱え、自分が犯人を説得すると嘆願するが処刑は断行されてしまいます。このやり方に江藤は大いに疑問を持ち、江藤はイギリスやアメリカの司法制度を研究して三権分立を提言します。このことにより司法省が設立され江藤は初代の司法卿に就任します。
 それまでの裁判はお上が民を裁くと言うものでしたがここで江藤は、司法は民のもの、民の権利を保護する制度として近代的な司法制度を確立することになります。

このように江藤は単に江戸を東京に遷え天皇を迎えただけではなく、わが国の司法制度の基本を作っていったのです。

 

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