私は自分の少年時代に家族の期待を背負って田舎の水田で稲作に励んでいた思い出があります。そして老境に差し掛かった今になって再び数人の仲間と一緒に同じ田圃に挑戦する機会に恵まれたことは感慨深いものがあります。はたして私はここでこれからどんな農業の姿を描いたらいいのだろうか、65年前の昔の姿を再現するのがいいのか、はたと考えてしまった。勿論少年時代の稲作は、農耕馬で鋤を引きながら田起こしをしていた時代であり、現在のトラクターなどを使った耕作や稲刈りとは道具は大きく違っていますが、周りの農家がやっていることは基本的には昔と同じ作業のようです。
私はここでこれから始める農業をサスティナブルな農業へと目標を定めることにしました。それは「食糧生産をしながら同時に環境汚染を減らし、大気に炭素を放出しない、生物多様性を守り、農家収入を増やす」道への模索です。そのことに触れる前に私たちの身の回りで行われている現在の農業はどんな道を歩んできたのか、まずはそこから眺めてみたいと思います。
世界の農業は紀元前から各地で始まり、我が国では縄文時代中期から稲作や大豆の栽培が始まっていたことが知られています。しかし農業が大きくその姿を変えていったのは肥料や農薬の利用が始まった19世紀の初め頃からと見ることが出来るのでそこから眺めることにます。
1804年にドイツの探検家アレクサンダー・フォン・フンボルトがペルー沖合の島グアノから白い岩石を持ち帰り、これを砕いて農地に撒くと魔法のように作物が収穫できることに当時の人たちは驚きました。この岩石は実は鳥の糞の塊だったのです。そしてこの白い岩の粉末には畜糞の30倍以上の窒素が含まれていたのです。農民たちは熱狂してこの岩石を求め、ついにグアノの島々が掘りつくされてしまい、19世紀末には島は姿を消してしまいました。ここに至って皆は、農作物の収穫量を増やすためには窒素、リン酸とカリを充分に与えることが必要なことを知ります。そしてそのことを力説したのがドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒでした。彼の考えにより農民たちは昔からの腐植堆肥から植物が栄養を吸収するという考えを捨ててしまいます。そしてグアノ島に代わる窒素源を懸命に探すようになります。このリービッヒの考えが長く続いたことで、農学は応用化学の分野へと向きを変え、土壌肥沃とは化学物質によるものであるとの考えが農業試験場の研究者の間でも定着していきました。
こうしてグアノ島に代わる窒素源を求める声が高まってきます。それはちょうど第1次世界大戦が始まる直前のことでしたが、当時ドイツではイギリス軍の海上封鎖に対抗する軍事力強化が急務となっていたのです。そのために爆弾原料となる硝酸塩の前駆物質であるアンモニアの合成に必死でした。1909年に数年の試行錯誤の末にフリッツ・ハーバーがその実験に成功します。それを引き継いだ形で別の化学者カール・ボッシュが連続的に硝酸塩を作る工程を工業化します。こうしてドイツは第1次世界大戦が始まるころには硝酸塩工場での生産が出来るようになります。しかしこれらはすべて高性能爆弾の製造に振り向けられて農民には与えられませんでした。そしてこの世界大戦が終了してから初めてこれらは農業用肥料として庶民に与えられますが、政府はドイツの爆弾製造能力を維持するためにも、農民に対してこの肥料を積極的に使って硝酸塩製造技術を絶やさないように指導していきます。こうした政府の指導によって農民はさらに化学肥料中心の農業へと導かれて行きます。第1次世界大戦でドイツに勝利した連合国側はドイツにこのハーバー・ボッシュ法の開示を迫り、アメリカ、イギリスでも硝酸塩の生産が始まり、世界は化学肥料の時代に入っていきます。これら一連のシステムを開発したことでハーバーとボッシュにはノーベル賞が与えられました。こうして高窒素肥料「硝酸アンモニウム」が誕生し、これら化学肥料を使った農業が一般的になっていきます。
では日本の農業を取り巻く状況はどうであったか、江戸時代半ばまでは我が国の農業を支えていた肥料は人糞と畜糞によるものでした。だから人口が密集していた江戸の町には近郊から人糞を買い集める業者が大勢入り込んでいました。しかし明治時代になって富国強兵をスローガンにコメをはじめとする農産物の増産が叫ばれるようになると、明治政府は糞尿よりも肥料効率の高い魚粉の利用を推奨します。こうして我が国の魚肥の生産は北海道を中心に始められ、イワシやニシン漁が活発に行われていきます。この頃の面影は北海道の江差などにニシン御殿として残されており、今も当時の隆盛だった姿が想像されます。またこの時に漁師たちに唄われていた「ソーラン節」もその頃の名残として今に残されています。ところが明治時代の中頃から北海道での不漁による魚肥の減少が始まります。明治時代終わりの1908年になるとさらに激減してしまい1906年に47万貫あった北海道の干鰯が、2年後にはたったの500貫になってしまったのです。これらの不漁が日本の農業に与えた影響は計り知れなく、一気に国内の肥料価格が暴騰してしまいます。この時に日本の肥料業者が目を付けたのが、当時満州で使われていた大豆の絞り粕でした。満州では古くから大豆の絞り粕を肥料として利用していたのです。満州から輸入した大豆粕を肥料として使った農家からは絶賛の声が上がります。大正時代になって我が国の農商務省の試験場では大豆粕とニシン粕による栽培試験が行われますが、稲、麦、桑、茶のいずれも大豆粕の方が好成績を示しており、さらに価格も魚肥に比べて大豆粕の方が安価であり、供給も安定していたのです。こうして我が国の農業肥料は一気に魚肥から大豆粕へと切り替わっていきます。そして我が国でも満州から大豆を輸入して国内で肥料用大豆粕を作る工場が連立していきます。
ところがここに思わぬ強敵が現れます。1923年ころから化学肥料「硫安」が徐々に我が国に輸入されるようになります。大豆粕に比べて価格的にも勝っていた硫安が一気に日本の農業を飲み込んでいき、国内にも多くの硫安工場が建設されるようになります。こして日本の農業はここで有機肥料から化学肥料に切り替えられて今に至っているのです。
しかしこれら硫安の製造工程は空気中にある窒素ガスを400℃以上の高温と100気圧を越える圧力という過酷な条件で加工し、さらに原料とする水素の精製にも膨大なエネルギーが費やされ、大量の温室効果ガスを発生するという効率の悪さがありましたが、窒素肥料に対する強い需要からこのことにつては問題にされることはありませんでした。
このように欧米と日本の農業は第2次世界大戦の前から有機肥料から無機の化学肥料へと舵を切って現在に至っています。ところが私が注目をしているのはこれらの無機肥料を否定する試験データーもしっかり残されているのです。
まず初めに示すのはイギリスの農学者サー・アルバート・ハワードです。彼は有機物に土壌肥沃度を回復させる作用があることを試験栽培で示していきます。彼はイギリスのケントにあるワイ大学でホップの病虫害の研究をしていました。ここで彼は成長が盛んな植物と害虫や病気にやられ易い植物があるのは何故か、これに対していくつかの仮説を立てますが実験で確かめる場所がなかったのです。彼は1905年にインド植民地政府の応募に応え、ニューデリー近郊にあるプサ農業研究所に拠点を移し研究を始めます。それから20年、彼は実験を進めるうちに植物がなぜ病気になるのか、その結論に辿り着きます。それは作物を病気から守るために殺虫剤や除草剤を使用すると、作物自身が健康に育ちにくくなるというものでした。さらにそれら除草剤や殺虫剤などを使うとそれに対する耐性が生じ、さらに強い薬品が必要になることを知ります。また昆虫と菌類による被害については大きな問題ではなく、むしろ彼らを生物的清掃係だと見るようになります。それは傷ついたり弱ったりした作物を取り除いてくれる役割をしてくれるからです。ハワードは化学物質を乱用する近代農業は作物を病気にかかりやすい体質にする道を突き進んでいると考えるようになります。植物には自然に持つ防衛システムがありそれを活かしてやることこそが大切だと考えるようになりました。彼はさらにインド中央綿花委員会が作った新しい研究所でも研究をすすめます。ハワードはここで大規模な堆肥製造方法を開発します。この方法を活用した綿花の収穫量は従来の化学肥料の2倍以上になり病気は畑から姿を消していたのです。これらの試験栽培で使用したプランテーションの所有者は感激し、この噂は直ちに広がって綿花、茶、砂糖のプランテーションへと展開していきました。しかし農業試験場の同僚たちはこれらの研究に対して冷ややかな視線を送っていました。
堆肥化した腐植が作物の病害虫を防ぎ、土壌肥沃度も改善するとなると化学肥料や品種改良や害虫駆除に対する自分たちの研究はどうなるんだという、つまり農業試験場研究者たちの研究生命にかかわる問題に直面してしまったのです。今までリービッヒの農芸化学哲学を指針として研究活動を進めてきた彼らにとってハワードの成果は自分たちの立場を危うくすることになってしまうのです。さらに農家や園芸家を顧客として企業化した肥料会社、農薬会社などにとってはハワードの成果は自分たちの前途を危うくすることにもなります。そして植物病理学者も寄生虫が堆肥の中で生き延びて作物を壊滅させると恐怖を煽ったのです。なにしろ堆肥とは腐りかけた植物と動物の糞便でできているのだからハワードの味方は栽培試験を実施したプランテーションの所有者以外はほとんどいなかったという状態でした。
一方でハワードの方は自分の研究成果に自信を持ち、複雑な生物的な問題である栽培技術に対して小手先の化学合成品を売りつける企業を遅れた取り組みと見ていました。
ハワードはさらに試験を進めていき、化学肥料による短期的な増収は長期的な土壌の健全さを犠牲にして成り立っている、つまりステロイド剤のようなものだと見るようになります。こうしてハワードは、すべての解決は土壌の中にあると見ており、堆肥を使って有益な土壌微生物を育成していけば農民は化学肥料と縁を切ることが出来ると考えたのです。そしてそれらをいくつかの圃場試験で証明していきます。その中で化学肥料を施した圃場では施された窒素は雨水に流されるか地下水にしみ出してほとんど土壌から失われていたが、堆肥を1世紀にわたって施していた圃場では窒素含量が3倍に増加していたのです。
またハワードは土壌中のミミズの数が増えると土壌が健康になることも見出しています。ミミズの糞には表土の5倍の窒素、7倍の水溶性リン酸、11倍のカリウムが含まれており、ミミズは自分の腸内で土を有機物と混ぜ、さらに植物養分を含ませて土壌に戻している、つまりミミズは小さな肥料工場として働いていると唱えています。彼らは1エーカー当たり25トンの栄養豊富な糞を作り出していることになるのです。そんなミミズを殺す化学物質を農地にまくことに何の意味があるのか、として化学肥料中心の農業を批判します。イギリスでは毎年1300万トンの有機廃棄物がゴミ箱行きになっており、これを土壌に戻すと大きな効果が生まれるとハワードは指摘しますが、政府は肥料や農薬の企業を保護し、同時に化学肥料の生産が戦争時の爆弾製造の準備になることを考えて農民に肥料の使用をさらに勧めていったのです。
このようにハワードは、農作物は土壌の健全さに支えられるものであり、化学物質を与え続けると土壌の健全さが損なわれ、肥沃度は低下してより多くの農薬や肥料がさらに必要になっていくことを多くの実験で示しました。しかしこれらは経済界からも農業機関からも支持されず、政府も化学肥料会社の活動を支持してハワードの研究成果は皆の記憶から消えていきます。
もう一人、農業の本質を見抜いた研究者がいます。それは20世紀初頭のドイツの植物病理学者ローレンツ・ヒルトナーです。彼はバイエルン農業植物研究所の初代所長で、ハワードと同じように圃場試験を根気よく行い土壌微生物が植物の健康に与える影響を明らかにした研究者です。ヒルトナーは植物の成長を促進する微生物改良剤を開発し、植物栄養に微生物が与える影響の草分けになっていきます。彼の研究で土壌中の有用な細菌の個体数を増やせば植物の衰えを食い止め、改善できることを示したのです。現代科学はこれらヒルトナーの説を立証しています。現代の科学では、植物はそれぞれに適した微生物を根の周りに住まわせており、これを「根圏」と表現しています。根圏はクモの糸ほどの植物の根毛1本1本を取り巻いており、それによって植物と土壌微生物の間に相互作用が起こっていることを見出します。根毛に集まる微生物の数は、最大で周囲の土壌の100倍になるとされています。さらに根圏には植物の根から放出される化学物質(フィトケミカル)の作用を受けた微生物の集落が取り巻いており、微生物群の特定の組成が逆に植物の耐病性に影響するのだとヒルトナーは仮説を立て、現代の研究者たちはそれを今も立証しています。
そしてこれらの流れをくむ現代科学は土壌中の炭素量が微生物の数に大きく影響されていることを明らかにしています。植物は炭素を光合成で取り込み、それを炭水化物の形で根圏に流して微生物たちに与えています。根圏の微生物に与えているのは炭水化物だけではなく微生物の生育に必要なフィトケミカルを多く含んでおり、研究がすすんでいるタバコではその数は2500種を越えると言われています。初めのうち科学者は滲出液が根から消極的に漏れ出しているのだと考えていましたが、根の表面の細胞を詳しく調べることによって他の細胞よりも多くのミトコンドリア、細胞内膜構造、小胞が詰まっている境界細胞が見つかったのです。植物はこれらの根の細胞を通じて光合成で作った炭水化物の30-40%が根滲出液に占められていることが分かりました。植物はこのように根圏の微生物に栄養を与えながら自らも助けてもらっている関係にあり、これら微生物を守ることこそが丈夫な作物を育てる基本であると考えるようになります。
大豆栽培と土壌細菌
この二人の勇気ある研究者によって作物は土壌中の微生物に支えられていることが明らかになりましたが、ここで土壌微生物を活用しながら自分の栄養源に利用している作物があります、それが大豆です。
大豆も他のマメ科植物と同じようにその根圏に多くの微生物を抱えていますが、その中に空気中の窒素ガスを取り込み分解して自分の栄養にすることが出来る微生物と共生しているのです。それはリゾビウムという窒素固定細菌であり根粒菌として知られています。この細菌はマメ科植物の根がある種のフラボノイドを放出すると根圏に入ってきて根に根粒を形成します。そしてこの根粒菌は空気中の窒素ガスを取り込み、このガスの三重結合を切り離して水溶性窒素化合物に姿を変えて宿主のマメ科植物の栄養として供給しているのです。この窒素固定菌が供給する窒素量は年間で1haあたり225kgに達するとされています。この量は小麦やトーモロコシが必要としている窒素量に匹敵しているのです。だから土壌微生物を大豆に組み合わせる栽培は両者の強みをつなぎ合わせる最強のコンビと考えられます。
このように大豆栽培地では相当量の窒素を自給することが出来るために大豆栽培地から大豆種子だけを収穫して、それ以外の茎などの残渣や生えていた雑草などを腐植材料として田圃に残して行けば徐々に土壌中の腐葉層や微生物層が豊富になっていくと同時に雑草も減っていくものと考えます。そうすることによって化学肥料や農薬を使わないで雑草と共生しながら健全な土壌細菌に支えられて大豆の栽培が可能となると考えられます。つまり冒頭に掲げた「食糧生産をしながら同時に環境汚染を減らし、大気から炭素を取り除き、生物多様性を守り、農家収入を増やす」道につながるのです。この農法にかかる費用は初年度の種子の購入費だけであとは土壌微生物と人の働きによって収穫物を得ることが出来るのです。ただ、今までは水田として活用していた土壌には大豆を守り育てる微生物は少ないと思っています。しかし数年大豆栽培を繰り返すことによって土壌中の微生物フローラは大豆に適した環境に変化していくと思っています。大豆は米と共に日本人の食事の基礎を支えています。しかし、その自給率はコメが生産オーバーで調整しているのに対して大豆の自給率は7%と、まさに絶滅危惧種に近い状態です。高齢者でも出来る大豆の栽培方法を確立していけば大豆の自給率を高め、輸出国の輸出規制による大豆不足などの不測の事態に備えられるのではないかと思っています。
現在世界の耕作可能面積は塩害や表土の喪失、沙漠化や地力の劣化などで毎年大きく減少しています。一方地球上の人口は増え続き、近い将来には100億人に達するとも言われています。この危機感から国連は「国際土壌年2015」を宣言し、各国に土壌育成に対する取り組みを促しています。これに対して我が国は平成18年には「有機農業の推進に関する法律」を定め、その中で「有機農業は農業の自然循環機能を大きく増進し、農業生産に由来する環境への負荷を低減するものである。近年、有機農業が生物多様性保全や地球温暖化防止 等に高い効果を示すことが明らかになっており、その取組拡大は 国連の持続可能な開発目標(SDGs)の達成にも貢献する。」としており、次のような目標を掲げています。
10年後(2030年)の有機食品の需要を2017年の1,850億円から3,280億円に増大。
有機農業の取組面積を 23.5千ha (2017) から 63千ha (2030) へと拡大。
有機農業者数を
11.8千人 (2009) から 36千人 (2030) に広げたい、としています。
私は先人たちの埋もれた知恵をここで活用しながら新しい農業に挑戦してみたいと思っています。そしてその姿を周辺の農家の皆さんにも見ていただき出来るだけ多くの農家に、このサスティナブルな農業に挑戦してもらいたいと思っています。
作成日、 2021.3.4