亭主の寸話62 『食品表示偽装事件に思う』 

 

 今年(2013)の12月には日本の「和食と日本人の食文化」がユネスコの文化遺産に登録されようとしている矢先の10月に食品表示を偽装していたことへの謝罪がテレビ、新聞などで連日報じられた。これには政府も慌てただろう。なにしろフランス料理、地中海料理などに次いで和食がユネスコの無形文化遺産に推薦されようとしていた直前の出来事だからである。政府としては和食離れが進んでいる国内の流れに歯止めをかけるきっかけになれればと期待していただろうに、これでは思惑に逆行することになる。早速業界団体に改善策を迫ってその実態を調査させたところ、傘下の百貨店85店の食堂での食品表示偽装は65.9%、ホテル245社での調査では34%に上ることがわかった。ブラックタイガーを車エビと称して料理を出したり、輸入エビを国産芝エビと騙っていたり、冷凍魚が鮮魚に化けていたりと消費者の無知をいいことにやりたい放題の悪事が明るみに出てきた。また、牛脂を注入した加工肉を牛ステーキと表示していたことも分かってきた。しかもこれらに携わっていた当事者たちが食材の違いも判らない素人とは違うだけに、まさに確信犯の仕業といえる。こんなことがいたるところで横行しているものが、果たして世界遺産と言えるのだろうか。まんまと騙されていた我々一般庶民にとって憤懣やるかたない思いである。恐らく会社上層部から利益確保を迫られたのに耐えかねて、いけないこととは知りながら食材のごまかしという悪の道に手を出したのではないだろうか。最初の内は恐るおそる部分的にやっていたものが、麻薬と同じで一度甘い汁を吸ってしまうとそこから抜け出せなくなって次第に常態化していったのではないだろうか。

私は個人的には比較的安価な牛肉を筋切りし、牛脂を注入して老人でも食べやすい軟らかい肉にして調理してくれるのは有難いことで、多くの消費者の支持が得られると思っている。ただ、それを偽らずに「柔らかい加工肉」としておけばいいだけのことである。高齢化社会ではこちらの加工肉を希望する客の方が多いのではないだろうか。一部のマニアは別として天ぷらとして揚げられた「エビ」が芝エビであるかバナメイエビであるかを気にしながら食べている客は少ないのではないだろうか。美味しければそれで十分に満足をして帰っていただろうと思っている。わざわざ国内であまり捕れない芝エビと希少価値を騙って客から高い値段をとるのは正に詐欺行為と言わざるを得ない。しかし、こんなことを書いていると他にも怪しいものがまだ隠れているのではないか、とつい勘繰ってしまう。

かつて「魚沼産こしひかり」が産地生産量の数倍もが店頭に並んだことがあったり、また国内の生産量がせいぜい20万トン程度しかなくその多くが自家消費されている国産大豆が煮豆、納豆などに「国産大豆使用」のパッケージで店頭に所狭しと並んでいる光景を見るとそんな悪い予感を抱かせてしまう。現在国内で消費されている大豆は約350万トンである。そのうちの食品用として使われているのが約100万トンとほとんど変化していない。これに対して国内で生産される大豆は20万トン前後であるが、生産者が加工業者に出荷しているのはその半分以下と想像している。つまり、「国産大豆」が商品となるのはせいぜい全体の10%前後の10万トンとにらんでいるのだが、店頭の仰々しい「国産大豆使用」をうたった商品の陳列には驚かされるばかりである。

 

そもそもこれほど消費者を馬鹿にしたように偽装が横行したのは一つには消費者の無知があるのでは、とのコメントをテレビで聞いた。確かにそれも理由として挙げられるかもしれないが、果たして我々の味覚はそれほど研ぎ澄まされているものだろうか。私はかつて食用油脂の世界にいたことがある。この業界には味のプロがいて、調合油を口に含んだだけでどんな油種をブレンドしてあるかを即座に言い当てていた。しかし、それは長い間の訓練の賜物であって素人が短時間で出来る芸当ではない。食べ物の研究をしている伏木亨先生がこんなことを書いていた。人はその食べ物が安全だとわかっていればなんの疑いもなく安心して食べるが、その中のどれかに辛子が入っている、と言って食べさせると途端に臭いをかいだり食べ物をしげしげと眺めながら恐るおそる食べる原始的な姿に戻るという。つまり人は食べ物については、安全性やおいしさの判断に可能な限りの情報を駆使しようとするのである。新聞やテレビで「魚沼産こしひかり」が美味しいと報道されれば食べたことがなくとも自分のおいしさのモノサシをそれに合わせて納得してしまう。某店のケーキが美味いと聞けば我も我もと店の前に行列が出来てしまう。人が美味いと言っているのに対して賛同しなければ自分の味覚が間違っていると思って自分を合わせていく、それが大多数の人たちの味覚なのである。

では、他人が美味いと感じる食べ物がその他の人にも美味しさが当てはまるものなのだろうか。これには多くの研究があり、人の味に対する感度はその人の過去の経験によって築かれており、味の感じ方には個人差が大きいとされている。だからテレビや雑誌で美味いと言っても、それはそれを取材した担当者の味覚に合っていただけであり、その他の人にとっての美味しさには関係がないことである。私がかつて食品会社で新製品を作るときに、その製品の味を判定するためにパネラーを社内で募集したことがある。応募した社員がパネラーにふさわしいかどうか、味覚の偏りについてテストした。まずは基本的な、甘い、塩っぱい、酸っぱいの3種類にたいする感度のバランスを調べてみた。その結果、大部分の応募者には大きな味のかたよりがあってパネラーに適さないことがわかった。せいぜいパネラーに適していると考えられる範疇にとどまっていたのは応募者の2割程度であった。このことはその社員を子供の頃に育てた母親がどの地域で育てられていたかによって母親に味の偏りがあり、それが子供の味に対する感度の偏りに影響していることが分かってきている。つまり、母親や自分が東北地方で育ったか、西日本で育ったかによってもその社員の味覚の感度に差が出るということだ。また、舌の上にある味蕾の数にも個人差があり、それによって味に対する感度も異なってくる。但し味に対する感度が鋭い人が幸せか、というと必ずしも一概に決められないところに味覚の難しさがある。これらからも他人が美味しいと言ってもそれが自分にとって美味しいことにならないということを示している。

この他にもさらに他人の言葉に自分の味覚が引っ張られる理由として、それは、味は舌だけで決めているのではなく匂いや触覚、色彩の他にも耳で聞いた情報も味の一部に組み込まれているからである。店頭で「国産大豆」とのラベルを見ただけで、アメリカ大豆には遺伝子組み換え大豆が混じっているかも知れない、中国産大豆には汚染水の影響を受けているかも知れない、だから国産大豆なら安心だろう、という意識が働いて国産大豆表示を選ぶことにつながるのである。食品の味覚にはこのような舌に頼らない情報も大きなウエイトを占めているのである。だからそれらを裏付けてくれている食材ブランドや有名店に安心感を求めていくことにつながるのである。このように多くの消費者は安心感に価値を感じていたからこそ、それらを否定する情報、例えば遺伝子組み換え大豆が規定値以上に混入していた豆腐の報道などは新聞紙面に大きく取り上げられることになる。消費者が高級料理店やホテル、デパートの有名店を選ぶのは、この店なら自分の安心感に応えてくれるだろうと考えていたからである。それが裏切られたことに対する怒りや失望が今回の有名デパートやホテルの食品表示偽装事件であったと言えるであろう。

 

今回は、はからずも人の味覚に対する曖昧さのスキを突く事件であったと言えるであろう。しかし、このような事件を起こした店はごく一部の店であり、その他の大部分のレストランは消費者の信頼を勝ち得ようと日々真剣に仕事に取り組んでいると思っている。今回明らかになった、消費者の信頼を踏みにじった店にはしばらく行かなければいいことであってすべての店が同じことをしているとは思えない。今回の事件をきっかけにして我々消費者も賢くなっていかなければならないだろう。

                     2013年11月 記

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