亭主の寸話57 

『蕎麦その1 江戸っ子とそば』 

 

  若い頃、「そば」という食べ物は四国の田舎育ちだった私にとってある種の距離を感じさせるものであった。昭和30年代の半ばに私のように田舎から東京の大学に出てきた多くの若者にとっては学校での勉強と同じ重みで田舎弁の矯正という壁にぶち当たっていた。新しい仲間と大声で喋りあいたい、との一心で東京言葉を真似していたのだ。そんな学生にとって身近に在ったもう一つの東京が「そば屋」である。当時の四国では麺といえば「うどん」であり、蕎麦などは食べたことがなかった。もちろん東京のそば屋にも「うどん」はあったが、これを注文するといかにも「田舎者」を証明するように思えて、あえて「蕎麦」を注文し続けていたことを思い出す。心の中では口に馴染んでいる「うどん」を注文したいのだが、なにしろ「江戸っ子は蕎麦」と信じきっていたからである。だけど本当に江戸っ子は蕎麦ばかり食べていたのだろうか。あるときふと図書館で手にした蕎麦の本を見て東京における意外な蕎麦の歴史に興味が引かれた。それは「江戸っ子は蕎麦だ」って言うほど単純な歴史ではなかったからだ。

 江戸という街は徳川家康が開府をする以前は湿地と草原しかないような寒村であった。この地に三河周辺の武士や町人が、さらには関東周辺の農民が工事現場に集められ、慶長8年(1603)から天下普請をして切り開いたところである。三河や上方から持ち込まれた食文化はもちろん蕎麦食よりもうどん食であり、記録からも江戸時代前半はうどん文化であったようだ。そして江戸では京、大阪の洗練された文化に憧れ、上方の食べ物を上等なものとして有り難がっていたものだった。そもそも100万人に膨れ上がったとはいえ江戸の人口の半分は地方から来ている武士であり、町民も京・大阪から来ている出先店の店員のようなものであった。しかし、全国からの寄せ集めであった江戸の町民もしだいに経済力をつけ、将軍のお膝元との意識も芽生えるにしたがい、江戸の町民文化が徐々に育ち始める。それは上方に対抗する形で「江戸っ子」意識をはぐくんで行ったようだ。この「江戸っ子」にも経済力や文化的素養を身につけた者もいれば、新しがり屋で見栄っ張りな者など雑多であるが、この「江戸っ子」意識が蕎麦を「江戸っ子の食べ物」に押し上げて行ったと言える。それは上方のうどんに対する対抗意識であったり、初鰹に憧れる見栄っ張りの江戸っ子にとって、採れたての「新そば」を味わうことが彼らの初物嗜好に合致したからであろう。

 そもそも蕎麦は今のように細い麺に切って食べるようになるのは江戸時代の半ばからであり、それまではそば粉を熱湯で溶いた「そばがき」であったり、皮をむいた粒のまま炊く「そば粥」として食べられていた。それが細い麺の「そば切り」となるのは天正2年(1574)の木曾・定勝寺の記録が最初となる。しかしこれに続いて「そば切り」が広く普及したという記録はない。「そば切り」が江戸市中に姿を現すのは寛文2年(1662)からである。「そば切り」とはそれまでの「そばがき」と区別するために付けられた名前であるが、現在の「蕎麦」そのものである。この蕎麦は江戸に登場以来、「けんどん蕎麦」、「風鈴そば」、「夜鷹そば」、「二八そば」などと呼ばれながら定着していった。その食べ方も「もりそば」でスタートしてから寛政年間(1789-1801)には「ぶっかけそば」「かけそば」へと展開されていく。また「三箸半」という三口と少しで食べられる量のざるそばが、忙しい江戸っ子職人たちの間で人気があったようです。さらに蒸しせいろのままで出された温かい「せいろ蕎麦」が明治になって刻み海苔を乗せた「ざる蕎麦」へと進み、江戸末期には「南蛮蕎麦」「天ぷらそば」などいろいろな具と組み合わせた蕎麦が登場してくることになる。

 江戸時代半ばの宝暦年間(1751-1764)には「手打ち蕎麦」が登場している。今の我々が「手打ち蕎麦」と聞くと店頭で職人が蕎麦を伸して切る手作りの蕎麦を意味しているが、機械切りのなかった江戸時代に「手打ち蕎麦」が看板になるのには別の意味があった。この時代、「お手打ち」といえば家臣に切らせるのではなく、殿様直々に切ることを言い、このことからそば屋の職人にそば切りをさせるのではなく主人自らが蕎麦を切っていることを指して「手打ち蕎麦」といった。今では機械で切るのではなく職人が切っているのを指しているだが。

ところで、夜そば売りでいう「二八そば」とは蕎麦粉が8割で小麦粉が2割のそば、との説と、掛け算で1杯16文の値段を表しているとの二つの説があるが、どちらにもあてはまりそうである。「10割そば」とか「生蕎麦」という蕎麦粉だけで作るそばがあることから考えると蕎麦粉8割説も大いにありうる。ちなみに現在の日本農林規格によると蕎麦粉40%以上の麺を標準品とし、50%以上の麺を上級品としている。不当表示防止法に基づく「生めん類の表示」では『蕎麦粉30%以上の麺には「蕎麦」の表示が認められる』とされている。これら現代の規格から見ると蕎麦粉8割の「二八そば」は相当に上等な蕎麦ということになる。蕎麦粉の中に小麦粉を混ぜると蕎麦の繋がりが強くなり切れにくくなるのに加えて見た目には白く、美しい麺になる。これは小麦粉と蕎麦粉の中に含まれているそれぞれの蛋白質の性質が大きく関係しているのである。

小麦粉の蛋白質にはグルテンが多く、小麦タンパクの85%を占めている。それに対してそば粉に含まれる蛋白質はグロブリンから出来ている。小麦粉の蛋白質グルテンはうどんやパンからもわかるように水を吸収して膨張し、弾粘性を生じて強く結着する性質がある。これに対し蕎麦粉の蛋白質グロブリンは水に溶けやすく他の成分と分離し易くなるので蕎麦粉だけで作った蕎麦は切れ易くなるのである。だから蕎麦粉に少量の小麦粉を混ぜるだけで蕎麦は色白で粘り強い麺になる。蕎麦をゆでた湯の中には蕎麦粉から溶け出したグロブリンが多く含まれているので「蕎麦湯」を飲むことはたんぱく質補給になるので是非飲んでおきたい。しかし、蕎麦粉が30%しか入っていない蕎麦湯はほとんど「おもゆ」でしかない。これに対して店頭で蕎麦切りをしている店は蕎麦切りのときにそば粉を振るので、これを茹でた蕎麦湯には蛋白質のグロブリンが沢山溶け込んでいる。蕎麦湯がねっとりと粘り気のある店の蕎麦には蕎麦粉の割合が多い証拠である。蕎麦湯も店の様子を見ながら頼むしかないだろう。

  さて、江戸の蕎麦文化発展に貢献したお寺の話をしよう。江戸開府と共に小田原から神田に、さらには浅草に移転してきた称往院はその前から信州須坂の寺と親しくしていた。そんな関係からこの寺の境内にある道光庵という末寺の住職が信州出身で蕎麦が大好きであり、ついには当代随一の蕎麦打ちの達人と言われるようになる。この噂はたちまち広がり、道光庵には檀家だけでなく蕎麦好きの江戸っ子たちが大勢集まるようになる。そして、この寺に蕎麦好きな住職が3代続いたために、ついに道光庵は寺なのか蕎麦屋なのか見分けがつかなくなってしまうほどの人気となる。これを憂いた称往院は、ついに道光庵での蕎麦つくりを強制的に禁止してしまった。それでもなお大勢の人たちが押し寄せてくるので道光庵の入り口に「蕎麦境内に入るを許さず」の石碑を立てた。この石碑は現在称往院がある世田谷区北烏山の境内に今も立っている。今では道光庵という寺はなくなっているが、道光庵の人気にあやかろうと多くの蕎麦屋が今も「○○庵」という名前を使っている。

 もう一つ蕎麦の発展に寄与した寺院として東京三鷹の「深大寺」がある。ここは奈良時代に創建された名刹で、今でも天台宗の関東別格本山であり、末寺27ヶ寺、門徒15ヶ寺とされている。かつては広大な敷地の一部に蕎麦を栽培し、いろいろな法要の際に檀家の人たちに蕎麦をふるまっていたが、その味は天下一品との評判が広がり、そば愛好者たちの垂涎の的となっていった。寺院の間では安土桃山時代から檀家の信者に対して蕎麦を精進料理として振舞う習慣が広まっていたようである。そして深大寺もこの習いにしたがって蕎麦を栽培して檀家の人たちに振舞っていたのです。この深大寺の蕎麦の味に折り紙をつけたのは上野寛永寺の門跡である公辨法親王である。公辨法親王は後西天皇の皇子であり、将軍家からも厚い信頼を得ていただけに、このご門主の「真に風味甚だ他に異なり美味である」の一言は諸大名に広まり深大寺蕎麦の名声は動かぬものとなった。そもそも寛永寺の門跡は、味覚では江戸の最高級クラスとの定評があったからである。どの宗派の寺も多少なり蕎麦とのかかわりを持っていたが、特に天台宗はそばと強い関係がある。天台宗では比叡山を1000日かけて駆け巡る千日回峰行という荒行があるがこの間は五穀を断ち、口に出来るのは唯一蕎麦だけとされている。信州の戸隠蕎麦も天台宗の関連から伝えられて今では信州の名物そばとなっている。

 話が少し横道にそれてしまったが、江戸時代の半ばから江戸っ子意識の芽生えと共に蕎麦が市民権を得て庶民の間に浸透していき、幕末の文化文政時代(1804-1830)にその頂点に達することになる。古代より救荒作物として日蔭的存在として細々と生きながらえてきた蕎麦が江戸っ子の「粋な食べ物」として一躍晴れの表舞台に立つという大変化には驚かされる。江戸の街のいたるところに蕎麦屋が店を構える時代を迎えるとともに、蕎麦屋の場面は歌舞伎など江戸文化のあらゆるところに登場するようになる。その余波なのか、忠臣蔵の討ち入り直前の集合場所まで蕎麦屋の2階という舞台設定になっている。江戸っ子の粋な蕎麦の食べ方が知りたかったら歌舞伎『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』の一場面「雪暮夜入谷畦道」の幕を見るといい。この場面の主人公は御殿坊主の河内山宗俊の子分直次郎である。追われる身の直次郎は、せめて最後に恋しい花魁三千歳に会いたいと雪の中、三千歳が療養中の入谷寮近くの蕎麦屋に入ってくる。この蕎麦屋で3者の蕎麦の食べ方が演じられる。まず、直次郎を探している追っ手がそば屋に入ってきてクチャクチャと野暮な食べ方を見せる。次に江戸っ子の粋を絵に描いたような直次郎が登場して「掛け蕎麦」を注文する。熱々の蕎麦汁を吹きながらスルスルッと吸い込むようにして鮮やかに食べる。この仕草に江戸っ子は理想の蕎麦喰いを見ていたことであろう。最後に登場する盲目のあん摩が極熱の掛け蕎麦を2杯注文する。当時江戸では2杯食べるのが美味い食べ方とされていたようだ。まさにこの幕は江戸っ子の粋な蕎麦の食べ方を見せることが主眼の題目であるかのようである。しかし、この蕎麦人気が頂点であった時代は長くは続かなかった。明治維新の掛け声とともに、蕎麦にとっての苦難の時代が待ち受けていたのである。

 明治維新は徳川時代の終焉である。新しい時代が目指した文明開化とはすなわち欧米化である。いままで「粋な食べ物」とされていた蕎麦は一転捨て去られる古い時代の食べ物にされてしまった。さらに江戸に詰めていた各大名は江戸屋敷を引き払って各地に帰ってしまったので江戸の人口は半減してしまい、江戸城近辺から山の手に密集していた武家屋敷はことごとく主を失い、一時は廃墟化して畑や牧場になっていた時期もあったという。政府も肉食解禁の示達を出し、今まで江戸っ子を自慢していた町民も手のひらを返したように牛鍋など洋食に飛びついて行った。明治政府が掲げた極端な欧化主義は、裏を返せば徳川蔑視、江戸蔑視主義でもあったのだ。この新政府が掲げた江戸蔑視政策は市民の中に根深く浸透していった。それを端的に表しているのが、江戸の蕎麦を支えていた夜そば売りの姿が消えてしまったことである。それでも、明治20年代には東京の人口は徐々に戻って行ったが蕎麦屋の数は半分にしか達していなかったようである。しかし新しく東京に生まれ変わった街には、江戸を去って行った武士に替わって新たな市民が流入してきて新時代のカフェーやミルクホールが乱立する賑やかさを取り戻してくるようになる。蕎麦屋も少しずつ元気を取り戻し、徐々に回復の兆しを見せ始めていた。そんな途上に起こった関東大震災は東京の街を打ち砕いてしまい、蕎麦の復興にも大きな打撃となった。さらに、その25年後に訪れる第2次世界大戦の敗戦によってあらゆるものが無に帰してしまったのである。

私が学生として目にした東京はそんな底辺から這い上がっていく姿であった。その後は日本の経済復興の波に乗って大都市東京の飲食店は新たな発展の道を辿るが、戦後教育を受け、そして牛乳とパンの学校給食で育った若者の支持を得たのは圧倒的に洋食であった。「江戸っ子のそば」は、はたしてこのまま過去の「文化遺産」として時代の波に押し流されていくのだろうか、気になるところだ。

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