亭主の寸話56 

『ゲテモノ食い』 

 

 食べ物の美味さとは一体なんだろうと思い巡らしているときに、ふと気がついたのが食べ物の好みには個人的な部分が大きいということである。自分自身、今までにそのことに思い至る場面にぶつかったことが幾度かある。本人は何気なしに食べているものも、そんな食習慣のない周辺の人たちから見ると嫌悪感を覚える、いわゆる「ゲテモノ食い」というやつである。それは両者の間に共通する文化的基盤がないために起こるものであろう。

 私がまだ仕事に熱中していた頃、イギリスの技術者を日本に招いてしばらく一緒に仕事をしていたことがある。彼はロンドンから離れたところに住んでおり、海外で仕事をするのは初めてだ、と言っていた。そんな彼をある休日、日本の食文化を味わってもらおうと日本料理店に招待した。そのお店では自慢の和食が続いて出されたが、彼は生もの料理が全く食べられない。手をつけずに下げられる料理が続いて、自分の考えの浅はかさを恥じたことを覚えている。

 また、家内の叔母のご主人の趣味が、蜂の幼虫を捕ってきて佃煮を作るというもので、よく我が家の近くの井の頭公園にも遠征してきていた。そして我が家に立ち寄ってはその佃煮の「スガレ」がいかに美味いかをひとくさり聞かされてから置いていってくれる。ウジムシのようなのが小瓶にぎっしり詰まっている。ありがたくお礼を言っていただくのであるが、これをどうするか、暫くの間は食器棚の片隅に鎮座したままになってしまう。そういえば私にも子供の頃に田圃の稲に群がっているイナゴを捕ってきて生きたまま火の中に放り込み、こんがり焼いて食べた記憶がある。これなども今の子供たちが聞いたらゲテモノ食い、と思われることでしょう。私は食べなかったがその頃には生糸の繭をとった後の蚕も食べていたという。食の文化遺産に登録されたメキシコ料理ではイナゴ料理が有名である。スペインの侵攻を受ける前のアステカの食文化では昆虫食材は大切な動物性タンパクの供給源となっていたからだ。

 また、若い頃にアメリカのある大学の近くでホームステイをしていたことがある。ここの家族と台所を共有していたのであるが、あるときにこの家の婦人が不可解な行動をしていることに気がついた。それは、私が台所で調理を終わって食事を自分の部屋に運んだ後で、婦人が台所でローソクに火をつけていることである。はじめのうちは大して気に留めていませんでしたが、これが何日も続いているうちに、私はあることに気がついた。それは夫人がローソクに火を灯すのは、私が台所で味噌汁を作った後だということだ。台所に味噌に匂いがこもっているのをローソクの匂いで消そうとしていたのだった。自分では味噌汁の香りは好ましい良い香りだと思っていたのだが、アメリカ人にとっては耐え難い匂いとなっているのに気がついた。 比較的アメリカの文化について理解をしていたつもりでいたのでさえ、このギャップである。ましてやもっと文化的に接触の少ない国とでは食べ物について、どれほどの落差があるのか、想像も出来ないほどであろう。

同じ日本に住んでいながら、長野県の伊那地方に育った叔父の「スガレ」に不気味さを感じてしまう、このことからも文化の違う他国の人たちに我々の美味さの基準を押し付けることの、いかに余計なことか、思い知らされる思いだ。

 我々が何気なしに「刺身」が美味いとか「味噌汁」が美味いと言っていてもそれは所詮、子供の頃から自分に刷り込まれていた自分の美味さ基準に過ぎないのであろうか。少し前に韓国人が犬を食べていると話題になったことがある。猫を好んで食べる国もあると聞く。そんなことに眉をひそめてみても、日本人だって「馬刺し」を好んで食べていたではないか。50年ほど前、初めてフランスへ行ったときにカタツムリ料理が出てきて驚いたが、食べてみておいしかったのですぐ慣れてしまった思い出もある。他の民族が食べているものは、食べようと思えば食べられるものだ。ただ、何らかの理由によって今まで食べていなかったにすぎないのだ。どの民族もみんな食べ物にへだたりがあって当然であろう。それは気候のせいであったり、宗教のせいであったりするが、まだ広域流通が発達していなかったことにもよるのであろう。だから人類とはほとんどが偏食であると言えるであろう。ということは、私たちが「これは美味い」と言っているのは、所詮自分たちの共有している文化圏の範囲の中にしか通用しない話に過ぎないのである。

 我が国の歴史では長い間動物の肉が忌避されていた。それは仏教で殺生を禁じていたからである。宗教が食べ物を規定している事例は枚挙にいとまがない。たとえばインドのヒンズー教では牛を食べない。イスラム教でも汚れた生き物だとして食べるものからは排除されている。彼らはベジタリアンとして野菜中心の食事になるのだ。以前にこれらの宗教に支配されている地域で販売されていた味の素調味料も、その原料の中に忌避されている動物が含まれている、として問題になったことがある。しかし、いかに宗教に支配されているとは言っても野菜の少ない北欧で肉食を禁じたら人は生きていけない。人が生きられない宗教なんてあり得ないであろう。日本も動物食を禁じても周辺は海に囲まれていて魚から十分な動物性たんぱく質が得られる。温帯モンスーン地帯では米や野菜、果物が豊富に得られる。だから仏教で動物食を禁じてもこの地域の人たちにとっては十分に食材を選択できる範囲に収まっていたのである。それだからこそ我が国で長い間動物食禁止の習慣が続けられたのである。

 同じ日本人でも地域によってはそれをゲテモノと思われているものはずいぶん多い。かつての国立歴史民族博物館の館長をされていた故佐原真氏は私に、「あなたが言っている日本食は、所詮日本の本州と九州までの範囲に過ぎないのだ。北海道と沖縄には独自の食文化がある」と言われて、動物の血を食べる食文化が沖縄に存在することを紹介されたことがある。しかも動物の血を集めて食べることは世界的にも普遍的なことで、栄養に富んでいる血を忌避する私の方が偏っていると言われたことがある。自分では意識していなかったが仏教による動物食を禁じたしきたりがまだ自分の意識の中に生き続けていたのかと思い知らされた。

 海外へ行ってそこの土地の水が合わないといって、軟水のペットボトルを買いながら旅行した、なんていう話はよく耳にする。しかしこれはそれぞれの水と体との慣れの問題であり、永年その土地に住んでいれば徐々に受け入れられるようになるものであり、ゲテモノとは違う。最近日本の豆乳メーカーがオーストラリアに昆布入り豆乳を輸出し、これが甲状腺異常の原因になったと集団訴訟を起こされている。昆布は我が国では昔から日常的に食べられているので健康被害が出ることはないが、普段食習慣のない国では難しい問題を引き起こすこともある。安易な食のグローバル化は意外な落とし穴を含んでいる危険性もある。しかし、このようなこととは違った食習慣の違いに出会うこともある。東南アジアに旅行すると蛇料理などにぶつかることがある。私は以前に台湾に行って夕食に招待されたとき、主賓テーブルに鳩の丸焼きが私の目の前の皿の上でこちらに向いて置かれていたことがあった。これに私が箸をつけないと晩餐が始まらないと現地の人に勧められたが、私はどうしても食べられなくて隣の席の方にお願いして最初の一口を食べてもらったことがある。いまでも折角設定してくれた現地の人たちに悪かったな、と心残りであるが、これなども文化の違いによるものであろう。また、若い頃に大勢でパリの片隅で蟻の唐揚げ料理をつまみにビールを飲んだことがあったが、酒の勢いと大勢の仲間ということでクリアしたが、同行した通訳がゴキブリの料理がある、と言われたときにはいかに酒の勢いがあっても、誰も注文は出来なかったことを思い出す。「4本足で食べないのは机と椅子だけ、2本足で食べないのはお父さんとお母さん」と中国料理を称してよく言われている。私は実際にこれらの場面に出くわしたことはないが、テレビなどの番組でも蛇やコウモリ、ネズミなどいろいろな動物の料理が紹介される。このような文化の中で育った人たちにとってはごく当たり前のことであるだろうが、この文化圏からはずれた人たちからは奇異な目で見てしまう。我々日本人が高い金を払って店内のイケスに泳いでいる魚を捕まえて喜んで食べている刺身に対しても奇異な目で眺めている多くの人たちがいることであろう。

 そういえば私たちの周辺にも鼻をつままなければ食べられないものが、この国にも沢山ある。私の経験でいえば、クサヤ、なれずし、ほやなどが頭に浮かぶ。しかし、それらが好きな人に言わせれば、そのくさい匂いが強いほど美味いとか、こう眺めてみると人の美味さの基準は人それぞれの食文化に根ざしたものであり、所詮他人に押し付けることの出来ないものであることがわかる。テレビなどで芸能人が「この料理はメチャウマだ」なんて視聴者に押し付けている番組を見かけるが、こんなのを見ていると、なんか裏がありそうに思えてきて仕方がない。所詮自分の味覚は永年の自分の食習慣によって築かれているのであり、他人と共有できるものではないと思っている。

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