亭主の寸話54
『食べ物の始め、その4』
「とうがらし、そらまめ、ジャガイモ、さつまいも」
私たちが日頃何気なしに食べている野菜にも一つ一つに歴史がある。それらを追ってみるのも食卓の話題を盛り上げることになるであろう。今回は身近な食べ物として4つの野菜を取り上げてみた。
@ とうがらし 「とうがらし」の原産地はペルーのアンデス山脈の周辺であり、ここでは紀元前8000年頃から現地の住民によって栽培されていた、とされている。しかし、この劇辛の調味料が我々の目の前に現われるのは遙か後になってからである。我々が現在食べているとうがらしはメキシコから伝えられた品種だとされているが、ここに住むアステカ族は主食のトーモロコシやインゲン豆の味付けに唐辛子を使っていたらしい。アステカではトウガラシを「チリ」と呼んでおり、今でもメキシコではこの名前が使われている。
コロンブスが第2回目の航海に出た頃(1493年)にはとうがらしはすでにスペインに持ち込まれていたようであるが、それがいつのことであったかは定かではない。ヨーロッパに持ち込まれたとうがらしは長い間観賞用植物として栽培されており、調味料として使われてはいませんでした。ところが、ナポレオン1世がイギリスを経済的に封鎖するため、1806からの2年間ヨーロッパ大陸とイギリスとの間の通商を禁止したことによって、スパイス類を含めアジアの物産を一手に扱っていたイギリス東インド会社との交易が途絶えてしまい、大陸諸国ではコショウをはじめとする香辛料が入手しにくくなった。これで、ヨーロッパの多くの人たちが今まで見向きもしなかったとうがらしを香辛料として利用し始めたのである。
とうがらしが日本に伝えられたのは16世紀の半ばと考えられるが、当時の日本人の口には合わず、すぐには定着せずに立ち消えになってしまった。日本にとうがらしが受け入れられなかった背景には、この頃の日本の料理にはすでに多くの香辛料が使われていた。古くから使われていた香辛料としては、ネギ、せり、ワサビ、シソ、ミツバ、ショウガ、サンショウなどであり、ショウガとサンショウを除けば野菜としても使われていたほどである。これらは刺激も弱いものが多く、このようなものが日本料理の魚と野菜を主体とした素材にはよく合っていたのである。そのため香りや味が強烈なとうがらしのようなスパイスは日本の料理にはなかなか入り込めなかったようである。
ヨーロッパ人が始めて日本にやってきたのは、ポルトガル船が種子島に漂着した1543年のことであり、1552年にはポルトガルの宣教師バルタザール・ガゴが豊後を訪れて、領主である大友宗麟に「トウガラシ」と「カボチャ」の種子を贈った記録が残っている。また、トウガラシが朝鮮半島から伝わったとする史料もある。これは秀吉の朝鮮出兵の際にトウガラシの種子を持ち帰った、というのである。
初めて持ち込まれたとうがらしは我が国では定着しなかったが、同じ頃に持ち込まれていた中国では沿岸部から四川省、雲南省など南西部に伝わってそれらの土地に受け入れられ、18世紀には辛味のきいた四川料理として日常の食卓に欠かせないものになっていた。
我が国でもトウガラシは当初、赤く実る果実を愛でる植物として盆栽仕立てなどにしていたようである。それが食卓に上るようになったのは江戸・両国の薬研堀で七色唐辛子が売り出されて以降である。日本における本格的な辛味文化は七色唐辛子に始まっている。薬研堀で芥子屋を営んでいた中島徳右衛門は漢方薬を食べ物に使うことは出来ないかと試行錯誤しているときに、干しトウガラシ、焼きトウガラシ、黒ゴマ、アサの実、サンショウ、ケシの実、陳皮(ミカンの皮を乾かし粉にしたもの)を混ぜ合わせることによって、トウガラシの強烈な辛味を抑え、香り豊かでマイルドな辛味を味わえる「七色唐辛子」を売り出した。七色唐辛子は庶民の食卓にのぼるうどんやそばに欠かせない薬味として江戸っ子の人気を博し全国へと広まっていった。ところが七色唐辛子が伝えられた上方ではこれを「七味唐辛子」と呼ぶようになり、この呼び方が江戸に逆流してきて現在に至っている。
酒井伸雄 「新大陸の植物が世界を変えた」 (NHK)より
A ソラマメ ソラマメは地中海や西南アジアが原産地だとされている。古代エジプトやギリシャでは広く食べられていた食材ではあるが、黄泉の国と現代を繋ぐ不吉な植物とされていた時代もあったようである。わが国へは中国からもたらされたものであるが、その中国へは紀元前2000年頃にシルクロードを通ってギリシア、ローマなどの西方から伝えられたものといわれている。日本にソラマメを持ち込んだのは、聖武天皇によって東大寺の大仏開眼に招かれたインド僧の菩提遷那(ぼだいせんな)だとされている。菩提遷那は行基の出迎えを受け平城京の大安寺に入って僧正となり、翌年の大仏開眼供養の開眼師を務めている。菩提遷那は持参したソラマメを行基に与え、行基はその豆を兵庫県の武庫村に植えつけたといわれている。
ソラマメは春早く花を咲かせ、5月頃に緑の莢の中に3,4個の実をつける。そのとき豆の莢が上向きについているところから、空を向く豆ということで「空豆」と名づけられたとされている。
B
じゃがいも ジャガイモの原産地は南米アンデスの標高4000mの高地であり、紀元前3000年まではここで栽培され、この地にインカ文明など高度に発達した文明を支えていた。こんな高地には他の穀物や野菜もあまり育たなかったために、ほとんどジャガイモがインカ文明を支えていたと言っても過言ではない。新大陸を4回も訪れたコロンブスはこの地に足を踏み入れておらず、彼がスペインに持ち帰った作物の中にはジャガイモは含まれていなかった。ジャガイモがヨーロッパに持ち出されたのは、インカ文明を滅ぼしたフランシスコ・ピサロ軍であり、この軍に属していたスペイン人によって16世紀半ばにスペインに渡ったといわれている。しかし、スペインの貴族たちはジャガイモの花を観賞するだけで長い間食用にはされなかった。その後、イタリア、オランダを経由して1600年頃にはヨーロッパに広く「鑑賞花」として知れ渡るようになっていた。
ジャガイモがヨーロッパで食べられなかった理由がある。それは、キリスト教の教義である聖書には種をまかずにイモがそのまま増えるような食べ物は書かれていなかった。そのためにエデンの園の禁断の果実に等しい捉え方がされていた。ジャガイモの表面がボツボツくぼみがあるので、ハンセン病にかかるのではないか、など極端な偏見が横行していた。
このジャガイモが食べられるようになったのはプロシャ(現在のドイツ)のフリードリッヒ大王の働きかけがあったからである。大王の着眼点は、国土の地上は戦争で荒らされるが、ジャガイモは地下に育つので戦争の被害から免れること、冬の寒い季節でも地下に育つジャガイモは、他の作物が不作でも確実に収穫できるので救荒作物となること、などであった。そこで1756年に国民に強制栽培令を出し、各地に軍隊を派遣して強制的に栽培をさせた。このことにより、その後ドイツは食糧難から救われて発展していくことになる。
わが国へジャガイモを伝えたのは1600年頃のオランダ人によるものであったが、当時はまだ鑑賞花として持ち込まれていたに過ぎなかった。戦国時代には鉄砲、キリスト教などと共に南蛮の食材もいろいろと持ち込まれていた。その頃にはオランダはジャワのジャカルタにアジアの基地をもっていたのでジャカルタから来たイモとして「ジャガイモ」と呼ばれるようになった。ジャガイモのもう一つの呼び名である馬鈴薯は中国名である。
ジャガイモより前(1542年)にカボチャがわが国にもたらされている。これもカンボジアから持ち込まれたことから「カボチャ」の名前がつけられている。
酒井伸雄 「新大陸の植物が世界を変えた」 (NHK)より
C
サツマイモ サツマイモは1594年にフィリピンから中国に持ち込まれているが、これを1618年宮古島の村役人が島へ持ち帰り栽培を始めている。それに先立って1604年には沖縄県、当時の琉球王国にはサツマイモの苗がもたらされており栽培がはじめられていたようである。このイモが1698年頃に琉球王より種子島の領主に寄贈され、種子島では救荒作物として西村時乗という人が栽培に成功したとして、島内の西之表市下石寺神社下には「日本甘藷栽培初地之碑」が立っている。
1705年には薩摩藩の前田利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰り「カライモ」として薩摩で栽培を始める。一方、備中笠岡の代官であった井戸正明は琉球渡来のサツマイモの種を入手し、それを栽培して食料不足を救ったとして芋代官の異名がつけられて、後にその功により贈従五位の光栄に浴している。その後サツマイモは大岡越前守に贈られた。大岡越前守は享保17年の大飢饉で餓死者30万人という大惨事があったことから、サツマイモの栽培の必要性を痛感し栽培者を物色していたが、江戸町奉行組下同心であった青木昆陽を見出し、享保19年に今の小石川植物園、千葉県幕張、九十九里浜などで栽培を始め、東日本に広がっていった。
このように我が国へは琉球を経由して九州、薩摩藩へと持ち込まれた芋が救荒作物として「サツマイモ」として全国に広がっていったのである。平成21年度現在の日本のサツマイモ生産量は100万トンを超えている。都道府県別でみると旧薩摩藩である鹿児島県が全国の41%にあたる41.6万トンでダントツであり、2位の茨城県の17%を遙かに引き離している。さすがは自分の地名がついている貫禄というところでしょうか。