亭主の寸話53
『食べ物の始め、その3』
「弁当、駅弁、1日三食、喫茶店、食べ物の貴賎」
私たちが普段何気なしに食べている食べ物の歴史を探る3回目になるが、今回は武光誠「食の変遷から日本の歴史を読む方法」(河出書房新社)、宮崎正勝「知っておきたい食の日本史」などからわが国の食事形態にまつわる話題を取り上げてみた。
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お弁当の始まり。弁当という言葉は織田信長の時代から用いられ、それ以前は中国から伝わった行厨(こうちゅう)と言われていた。さらに古くには我が国では「頓食(とんじき)」とか「干し飯(ほしいい)」とか「糒(ほしいい)」とかと言われていた。これらは調理済みの乾燥米を入れ物に入れて携帯する食べ物で、旅の途中でそのまま食べるか、これに水を入れて煮るなどをして食べていた。この頃の庶民の弁当容器には朴(ほう)や柏の葉が使われていた。
戦国時代から使われ始めた「弁当」という言葉は、人を大勢招待したときに食事が全員に行き渡るようにするという、配当を弁ずることからきている。この頃から今に見られるような漆器の弁当箱が作られるようになり、弁当は花見や茶会といった場で食べられるようになる。
江戸時代になると世は天下泰平の時代となり庶民には竹の皮に包んだおにぎりを腰に巻いた「腰弁当」が一般的となり、街道を行き来する旅人にとっての携帯食となっていった。一方、能や歌舞伎を見に行くときに持っていく弁当は、これらを観劇の幕間で食べることから「幕の内弁当」と呼ばれるようになる。
阿波藩(今の徳島県)においては子供たちが春の野山で遊びながら食べる弁当箱として美しい「遊山箱」があり、自然豊かで優雅な雰囲気を想像させるものである。
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駅弁の始まり 鉄道が開通したのは明治5年の品川―横浜間であったが、距離も短かったので弁当を用意するところまではいっていなかった。明治18年(1885年)7月16日、上野―宇都宮間が開通したときに宇都宮駅では日本で始めての駅弁が売り出された。駅弁を売り出したのは地元で旅館「白木屋」を経営していた斉藤嘉平であった。鉄道会社から頼まれて1日4往復の列車のために駅弁を始め、握り飯にタクワン付きというのを竹の皮に包んで5銭というものであった。続いて信越本線の横川駅で売り出され、さらに高崎駅へと駅弁は広がっていった。 現在のような折り詰めに入った駅弁は、1889年に姫路駅で売り出されたのが初めとされている。その後いろいろな駅で駅弁が売られるようになる。
汽車がプラットホームに到着すると立ち売りの売り子が駅弁をうず高く積み上げた箱を胸の前に吊るし、大声で弁当の名前を連呼しながらプラットホームを往復する。駅弁を買う乗客は売り子を呼んで窓越に代金を払って駅弁を受け取る。しかし、現在の列車は窓が開かなくなっており、駅弁は今では駅構内の売店で買うのが一般的になっている。
B 三食の始まり 決まった時間に食事をするという習慣は人類の歴史にとって比較的新しいことである。人間がまだ狩猟採取の生活をしていた頃は1日の食事時間も回数もまだ定まってはいなかった。獲物がつかまらなければ食事にありつけないからである。そのなかでも比較的1日の生活リズムが定まり易かったのは農業民であったろうことは想像がつく。しかし、石毛直道氏によればこれら農業民であっても初期の食事回数は1日2回が多かったという。それは、農作業が主に昼間行われていたので、その農作業の前後を食事時間としていたことによる。
平安貴族は夜遅くまで歌を詠んだり、月を眺めながら宴会をすることが多かったが、ここでの飲食は一日の食事とは数えなかった。大した労働をするわけでもない貴族たちはあまりお腹が空かなかったようだ。そのため彼らの食事は1日2食であった。貴族と付き合った平家の武士も表面上は2食としていたが、彼らは労働もあり、武術の訓練もあるので間食が欠かせなかった。これら貴族の風習から距離を保った鎌倉幕府は武士の世界を築き、自分たちの体力を保つために三食としていた。鎌倉に居を構えた僧侶たちも平安時代は朝食だけの一食としていたのを三食に切り替えていった。しかし1日3食が社会に定着するのは江戸時代になってからである。これはヨーロッパでも同じである。それは夜間の照明の発達に伴って夜の生活時間が長くなり夜の食事が必要になってきたことによる。
こうして1日3食の生活が徐々に普及していったが、我が国での1日3食はせいぜい200年の歴史でしかない。
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喫茶店 コーヒーの原産地はエチオピアであり、3000年以上の歴史を持っており、1000年ほど前からコーヒーに着目するようになったといわれている。人類が最初にコーヒーと出会った場面については、キリスト教説とイスラム教説の二つがある。
キリスト教説によれば『高原の羊飼いカルディーはある時、野生の赤い木の実を食べて興奮し、日夜騒ぎまわっている羊の群れを見つけた。彼は大変興味深く思い、近くの修道院の僧に告げ、一緒にその実を食べたところ全身に精気がみなぎってくる効力を知った。早速他の修道僧にも勧めたのが発端となって長い間彼らを悩ましていたミサの勤行と睡魔の苦行から僧侶たちを救うことが出来るようになった』とされている。
一方、イスラム教説によると『アラビアの回教徒シェーク・オマールは領主の美しい娘を病から救ったことが禍し、娘との関係を疑われて領主の激しい怒りをかった。無実の罪に問われてイエメンのモカを追放される憂き目にあった彼は飢えに苦しみながら山中をあてどなく歩いていた。ふと、一羽の小鳥が木の枝に止まり、陽気にさえずるのを耳にし、そっと近づいてみるとそこには枝に赤い実をたわわに実らせた喬木があり、小鳥がその実をしきりについばんでいた。彼は誘われるように小鳥が教えてくれた世にも不思議な木の実を採り、煮だし汁を飲んで飢えを癒したが、意外にもそれには心身に活力を与える効能があることを知った。医者でもあったオマールは、彼を訪ねてきた以前からの患者にこの煮汁を与え病人を救ったので、その功績により罪を解かれ再びモカに迎えられ、その後、彼のために修道院を建て、聖者として厚く尊ばれるようになった』とされている。
このようにしてAC1300年頃、アラビア人によって広められたコーヒーの煮汁利用の風習はイラク、エジプト、トルコへと伝わっていったが、それはまだ回教寺院の中だけのものであった。15世紀末にはコーヒー豆を火で焙って飲むようになり、寺院の門を出てイスラム諸国に広まっていった。寺院の周辺にはコーヒーの露店も立ち並ぶようになる。1554年コンスタンチノーブルに開業したコーヒー店は、その名を「カフェ・カーネス(コーヒーの家)」とし、最初のコーヒー店となった。そして1650年ユダヤ人ヤコブがイギリス最初のコーヒー店を開業した。
日本には1641年から長崎出島に居住するオランダ人からコーヒー飲料について知らされているが、まだ限られた情報と言う程度のものであった。
ところでコーヒーを漢字で書くと「珈琲」となるが、「珈」は婦人の髪に刺す珠玉の飾りで、コーヒーの赤い実を指しており、「琲」はその玉を貫くひものことで、コーヒーの枝を示しているとされている。
明治時代になって文明開化の時代を迎え、わが国のコーヒーに動きが見え始める。新聞紙上に焙煎コーヒーの広告が見られるようになり、そのうちに『弊店にて御飲用ご自由に』としてコーヒーを飲ませる店が登場してきた。明治7年(1874年)創業の神戸元町の茶屋「放香堂」こそ日本最初の喫茶店ということになる。ちなみに明治20年頃のコーヒー1杯の値段は1銭5厘であり、当時の蕎麦1杯が8厘、米1升3銭5厘であり、「1杯のコーヒー」が「蕎麦2杯」と同じ値段であった。
伊藤 博 「コーヒー博物誌」などより
D 食べ物に貴賎が 平安時代の庶民には食べ物を手に入れることも難しく、絶えずぎりぎりの状態で命を繋いでいた。こんな時代にあっても平安貴族は豊かな食材を欲しいままに、下品な食べ物には手をつけなかった。こんな話がある。
『源氏物語を書いた紫式部はイワシが大好きであったが、イワシは下魚とされていたので公然と食べるわけにはいかなかった。そこで主人宣孝が外出した留守の間にイワシを焼いて食べていた。そこへ主人が帰ってきたのでこれが見つかってしまった。主人が「そんな下魚をたべると身分にかかわりますぞ」とたしなまれてしまった。しかし、そこは当代一流の女流文学者、こんな歌を作って返事したとか。「日の本に はやらせ給ふイワシ水 まいらぬ人はあらじとぞ思う」』とか。当時の記録には鰯にまつわるものも多く、どうやらイワシは大量に獲れて庶民の栄養源になっていたようである。
このように平安時代の食べ物には貴賤の区別があったようだが、これはあくまでも食べ物を選り好みできる貴族だけの贅沢であったにすぎない。