亭主の寸話52 

『食べ物の始め、その2』 

「うどん、ちまき、アイスクリーム、お好み焼き」

 

 現在、私たちが日常口にしている食べ物も長い変遷の歴史が隠されています。それらを知っておくことも食を豊かにすることに繋がります。前回に引き続いて今回も食の歴史に触れたいとおもいます。

 

@                  うどん うどんは空海が唐から持ち帰った食べ物だ、という言い伝えがある。空海かどうかはわからないが、うどんが遣唐使によって持ち込まれたものであるというのは事実であろう。中国では魏の時代から熱餅、索餅、湯古餅などという名前もあり、いろいろな形で麺が食べられていたようである。平安時代に遣唐使が持ち帰った「混沌(こんとん)」という菓子がうどんの起源であるといわれている。わが国に持ち込まれた「混沌」はあんこの入った団子であった。その後「混沌」が食べ物であったことから漢字のサンズイヘンが食ヘンに変わり、さらに暖めて食べることから「温飩(おんどん)」となり、言葉が転じて江戸時代になって「饂飩(うどん)」になったと言われている。

中国では宋時代にはすでに細長い麺が一般化しており、日本でも平安時代の延喜式(905927)には77日の儀式には索麺(そうめんの前身)が食べられていたことが記されている。今でも古くからの習慣として仏教の儀式である盂蘭盆会(うらぼんえ)にはそうめんを仏前に供えることが行われている。これらに影響されてうどんの形が現在のように細長くなり、中国文化の影響が強い関西中心にうどんが広まっていったのもうなずける。 

室町時代になって田圃の裏作として麦が作られるようになり、宋から石臼が伝えられ、製粉技術が普及することになる。鎌倉時代の仁治2年(1241)に中国から帰国した僧円爾がうどん技術を広めたとも言われており、福岡市の承天寺境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑も建っている。

小麦粉のでんぷん質の粘度が高い粉を使うことにより、うどん特有の食感が得られ、しかも茹で溶けしない性質が汁物うどんに適していた。この麺生地をめん台で伸ばし、包丁でめん状にするという包丁技術は日本独特のものである。

  長井恒編「うどん通」などより

 

 

A                  ちまき、かしわもち  55日は今ではこどもの日になっているが、かつては端午の節句として子供の成長を祝う習しが長い間続いていた。この風習がいつから行われていたかは定かではないが、この日に作って食べるのが中国から伝えられた「ちまき(粽)」である。しかし、今ではちまきの代わりに日本で考えられた柏餅が一般的になっている。

 端午の節句にちまきを食べるという中国の風習の裏には興味深い物語が語り継がれている。中国最初の詩人であり楚の国の政治家、屈原(紀元前343277)は王に信任されていたが外交政策を巡って他の高官と対立し、讒言によって追放されることになる。屈原は自分の悲運を嘆き、洞庭湖に流れ込む汨羅江(べきらこう)で漁夫との有名な問答を残して身を投じて死んでしまう。その日は55日であった。民衆に慕われていた屈原の死を悲しんで笹の葉に米を包んで汨羅江に投げ入れて屈原の魂を安んじる風習が生まれ、これが転じて端午の節句に笹の葉で三角形に巻いたちまきを食べる風習につながっていった。この風習が病気や災難を除く大切な宮中行事、端午の節句となっていったのです。また、屈原の入水を助けられなかったことを悔やんだ周辺の民衆が舳先に龍の飾りをつけた船をこぐ龍船競争を始めたが、この龍船競争は各地に広まり、我が国でも長崎のペーロン(白龍)、沖縄のハーリー(爬龍)として今も続けられている。

 端午の節句の風習は我が国へは平安時代に伝わり、だんだんと姿を変えながら子供の健やかな成長を願った祝いとして定着し、ちまきも日本独特の柏餅へと代わっていった。柏餅は柏の葉で餅を包んだものであるが、柏の葉は新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があり、「子供が生まれるまで親は死なない」、「家系が途絶えない」との縁起を担ぎ、「子孫繁栄」につながるとされて家族皆で祝う行事となったのである。

 

 

B                  アイスクリーム  アイスクリームの始まりについてはいろいろな説があるが、4千年ほど前に中国で家畜のミルクを天然の氷や雪で冷やしたアイスミルクが元祖で生まれたものだとする見方もある。13世紀の末に中国でアイスクリームを食べたイタリアの旅行家マルコ・ポーロが帰国後、その作り方をイタリアに伝えた、と言われている。イタリアではこの製法を秘密にしていたが、16世紀初めにフランスに伝わり、そして世界へと伝わったのだというのだ。

ところで、最初にアイスクリームを食べた日本人とは、江戸時代の終わりの1860年、条約締結を結ぶためにアメリカにわたった江戸幕府の使節たちであり、そのおいしさに感動したと伝えられている。

日本で最初のアイスクリーム屋さんは、明治2年(1869年)6月(新暦で59日)、横浜の馬車道通りに店を開いた町田房蔵といわれている。房蔵はここに氷水屋「あいすくりん」を開業しアイスクリームの販売を始めている。これを記念して日本アイスクリーム協会では59日を「アイスクリームの日」と定めているのだ。房蔵の「あいすくりん」はミルク、卵、砂糖を使って作られた、といわれている。

汐見稔幸監修「知ってびっくり!もののはじまり物語」などより

 

 

C                  お好み焼き お好み焼きという食べ物がいつ発明されたのか、誰が名前をつけたのかについて、はっきりした記録があるわけでもない。ただ、お好み焼きに近い食べ物はかなり昔から存在していたようで、一説にはお好み焼きのルーツは江戸時代にあった「麩の焼き」だとするものもある。麩の焼きという食べ物は茶道の千利休が考案した茶菓子に「麩の焼き」がある。これは小麦を石臼で搗いて粗粉にし、これに水を加えてもみ、どろどろになったものを濾過して滓を取り除き、ほうろくの上で平たく延ばして焼いたもので、現在のクレープのようなものだったようである。

もう一つの説は、江戸時代の後期に現われた「文字焼き」ではないかというのである。これは水で薄く溶いた小麦粉に砂糖を加えただけのもので、屋台や駄菓子屋で子供相手に売られていたものである。名前の起こりは、小麦粉を鉄板の上にたらす時に文字を書いたり絵を描いたりするところから文字焼きの名前がついている。現在、東京の名物となっている「もんじゃ焼き」は文字焼きがなまったものである。文字焼きは駄菓子屋の片隅に置かれていた火鉢の上で子供たちにてんでに焼いて食べてもらうもので、この光景は現在の「お好み焼き」につながっていると見られている。

この「文字焼き」は明治時代に入るといろいろな具、たとえば切りイカ、さくらエビ、あげ玉、紅しょうが、ネギなどの野菜をミックスしたものに調味料を加えたものを焼き上げるようになり、関西風お好み焼きの原型へと発展していく。但し、調味料は醤油であり、ソースは使われることはなかった。

東京でソースを使ったお好み焼き風食べ物が登場するのは昭和に入ってからである。それまでの「もんじゃ焼き」に替わって、東京下町に「どんどん焼き」という屋台が出て、子供たちの人気を集めた。太鼓をどんどん鳴らしながら売り歩いたのでこの名前がついた。

池田弥三郎の「私の食物誌」によると『うどん粉に卵を入れて水で溶いたものを、火にかけてある鉄板の上にしいて、その上に実をのせて、また上から衣をかけて、へがしでひっくり返して焼き、ソースをかけて新聞紙の袋に入れてくれる。実には牛肉やエビいかがあって、それぞれ牛てん、えびてん、いかてんと言っていた。屋台の子供相手の2銭、3銭、5銭といったどんどん焼きが出世していつしか「お好み焼き」になった。それは昭和の初年頃ではなかったか』と書かれている。

那須正幹「広島お好み焼き物語」などより

茶話会の目次に戻る