亭主の寸話51 

『食べ物の始め、その1 

「饅頭、せんべい、あんぱん、羊羹」

 

 私たちが日頃何気なしに食べている身近な食べ物はどのように生まれ、どのような変遷を辿ってきたのかについて、何回かに分けていくつかの食べ物について眺めてみることにした。今回は饅頭、せんべい、あんぱん、羊羹について取り上げてみました。

@ 饅頭 「まんじゅう」の起源は古く中国の「三国志」で有名な諸葛孔明に発しているいわれている。蜀の諸葛孔明が孟獲を討って凱旋する途中で大風が吹いて川が渡れなくなった。困った孔明が土地の者に聞くと、水神の怒りを静めるには生け贄をささげなければならない、といわれた。しかし孔明は人の命を犠牲にすることを許さず「羊豚の肉を麺に包み人頭のごとくせよ」と指示し、これを川に投げ入れた。すると嵐は収まって川を渡ることが出来た、との故事が伝えられている。最初は「饅首」とされていたが、いつのまにか「饅頭」となったという。元々中国では小麦粉を麺にして饅頭(マントウ)として食べるという食べ方があった。北方の黄河流域の饅頭は肉饅頭や具のない饅頭で、それは主食的なものであった。これに対し、我が国の和菓子の雛形になったとされる砂糖饅頭は南方系の饅頭と言われており、これが日本に伝えられてきた。

わが国へは中国から帰った留学僧によって伝えられているが、それには一説として、1241年に宋から帰国した円爾であり、帰国後には博多に臨済宗承天寺を創建し、その周辺をいつも托鉢して廻っていた。彼は饅頭の製造技術を持ち帰っており、親切にしてくれた茶屋の主人に肉の代わりにあんを使う饅頭作り方を教えた。これが現在の「虎屋の饅頭」に繋がっていったというものである。

もうひとつは1349年に京都建仁寺の龍山禅師が中国留学から帰ったときに中国人の弟子、林浄因を伴って帰り、その弟子が饅頭を広めた、との説がある。浄因は後に京都烏丸で饅頭屋となり「塩瀬饅頭」の元祖となった、とされている。日本に帰化した林浄因は奈良の地で結婚するが、このときに饅頭を世話になったいろいろな方に贈ったことが発祥で、今日に至るまで結婚式に紅白の饅頭を引き出物にする風習がはじまったとされている。   

     松崎寛雄「饅頭博物誌」などより

 

 

A 煎餅 せんべいは遣唐使で中国に行っていた空海が、当時の皇帝順宗に招かれ、そこで振舞われた料理の中に煎餅が出されていたと言われている。中国の文献では6世紀には宮中で煎餅を食したとの記録があり、空海が渡った唐の時代には正月7日や33日の朝食には煎餅を加えていた、と書かれている。これらの煎餅は現在のものとは違ったものの可能性もあるが、邪気や穢れを祓う日に宮中で煎餅を食べるという風習は、煎餅が特別な食べ物であったことが伺われる。空海はこの製法を学び、帰国後山城の国小倉の里の和三郎に伝えた。和三郎は葛根と米粉に果物の糖液を混ぜて焼き、「亀の子煎餅」と名づけて天皇に献上している。これが我が国最初の煎餅だとされている。

 ずっと時代が下って戦国時代になると煎餅は贈答品や茶会に用いられるようになり、ほぼ現在のものに近いものが菓子として使われるようになる。千利休の弟子で幸兵衛という人が小麦粉に砂糖を入れた焼き菓子を作り茶道に使ったことから広まり、千利休からアイディアをもらったことから「千の幸兵衛」と呼ばれていたが、いつのまにか「せんべい」となったとか。

 日光街道2番目の宿場町だった草加宿一帯の農家では蒸した米をつぶして丸め、干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。やがて草加宿が発展するにしたがい、この塩煎餅が旅人向け商品として売り出され、各地に広まっていった。その後、利根川沿岸の野田で生産される醤油で味付けされるようになり、現在の草加煎餅となっていったという。   

草加市史調査報告書第5集「草加煎餅 味と歴史」などより

 

 

B               あんぱん 世界のパンの歴史は古代エジプト(Bc1190頃)からだとされていますが、我が国におけるパンの歴史は1543年に、種子島にポルトガル船が漂着したところから始まっている。このときに彼らは鉄砲を伝えたのに続いて宣教師たちによるパンの伝来も始まったのである。聖フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教を目的に鹿児島に上陸したのが1549年のことである。キリスト教の布教には「キリストの肉」とされるパンと「血」とみなされるワインとは不可欠なものであった。キリスト教の布教が活発化すると我が国の従来の宗教である、特に仏教との間で強い軋轢が沸き起こった。それはキリスト教が肉食を当然としていることに対して仏教では不殺生の戒律として肉食を禁止していたからである。こうしてついに1639年には3代将軍徳川家光によるキリスト教の布教を禁じたるために鎖国を徹底すると共に全ての日本人はいずれかの仏教宗派に属するという宗門人別帳制度を実施したのである。更に隠れキリシタンを摘発するために徹底した踏絵と共に民衆に隠れキリシタンを訴え出るように仕向けていった。このような状況ではパンを食べていることは隠れキリシタンであるとの疑いがもたれることから日本からパン食はいっせいに消えてしまった。この宗門人別帳は明治4年(1871)の戸籍法の公布までの実に230年間続くことになったのである。こうして我が国のパンの歴史はキリスト教布教活動と徳川幕府の鎖国政策に翻弄された格好で揺れ動いたのである。しかし、こうした中でも長崎出島にはオランダ屋敷が置かれここを窓口とする貿易が続いていたので、この人たちのためのパンは作られていた。そしてこの地で我が国最初のパン屋が安政2年(1854)にフランス人のフーデルという人によって長崎の大浦で開業されている。そもそもパンの製法はすでに戦国時代にポルトガルの宣教師によって伝えられていたが、米食を基本としていた日本人には取り入れられることはなかった。それが現在のようにパン食が普及していった背景には明治政府の富国強兵への動きが大きく影響している。

 鎖国によって外国に門を閉ざしていた幕府もイギリスと中国との間で始まったアヘン戦争で中国が敗れたことにより大慌てで軍隊の近代化に取り組み、幕府の兵備の強化に取り組んだ。そしてそれを推進して行ったのが兵学者の江川太郎左衛門であった。彼は伊豆の韮山に反射炉を築いて大砲を作るための良質の鉄を作る一方、蘭学を学ぶなかで西洋では兵隊の兵糧にパンが用いられていることを知り、パンの研究にも取り組んでいった。彼はオランダ屋敷にいた作太郎というパン職人を韮山に招き、パンの量産に取り掛かった。そして江川塾に学んだ門下生たちによって各地にこのパンの製法が広められることになる。このことから江川太郎左衛門は我が国でパンを焼いた最初の日本人とされており、我が国のパン祖と言われている。今は韮山で町おこしの取り組みのひとつとして当時の兵糧パンが再現されている。

幕末になって水戸、薩摩、長州の各藩では軍用の携帯食糧としてパンを採用するようになる。水戸藩の携帯パンは真ん中に角の穴を開けたもので、ここに紐を通して腰に下げる兵糧パンと言われるものでした。そして明治政府も海軍に「乾パン」を軍用食として採用していくと共に軍用パンの改良研究を進めていくことになる。

こうした中で「あんぱん」が生まれていくのである。

アンパンの創始者木村安兵衛は下級武士であり、剣術の達人でもあったが維新の掛け声を聞いて武士と決別し明治初年、長崎から上京してきた梅吉と一緒にパンの商売を始めた。彼は明治3年東京芝日蔭町にパン屋『木村屋』を出したが近くで売っている外人経営のパン屋にはかなわなかった。そこで彼は日本酒の元となる酒ダネをパン種として用い、その中にアズキあんを包んで焙焼したアンパンを試作した。これを剣術の友人であった山岡鉄舟に食べてもらい批評を乞うた。当時、鉄舟は西郷隆盛の推薦によって明治天皇の侍従職にあった。鉄舟はこのアンパンを食べてみて大いに満足し、これを明治天皇のお茶菓子として献上することを決めた。安兵衛のアンパンの発想とは、大福餅や酒饅頭など中に餡を包んだ軽食をヒントにし、これら餅かわや饅頭かわをパンのかわに代えたものであった。しかし、当時の宮中には京都からお供をして東京に来ていた伝統の古い京菓子屋が占めていて新菓子を陛下に差し上げることは難しかったが、鉄舟は思案の末陛下が外出された時に、外出先でのお茶菓子として差し出すこととした。これを食べられた明治天皇は気に入られて木村屋は宮中御用の店に加えられた。こうして発売されたアンパンは日本人の食味にも合致して当初から大変な人気であったと言われている。さらにアンパンの中央をくぼませてエクボに見立てるようにすると「へそパン」の愛称で人気となり、後にそこへ八重桜の花びらの塩漬けを加えて食味を新たにしたり、ケシのつぶを付けて焼いたりして独特の香ばしさを誇った。アンパンはその後に続くジャムパン、クリームパンと共に人気パンとして長い間民衆に受け入れられていったのである。

        安達 巌 「パンの歴史」
     締木信太郎「パンの百科」などより

 

C 羊羹 「ようかん」は漢字では「ひつじ」の「あつもの」と書く。つまり「羊の肉などを煮た汁もの」のことである。そもそもこれは中国では羊の肉を煮たスープであったもので、これが冷めると肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となっていたものであった。『唐書』には「洛陽の人家、重陽に羊肝餅を作る」とあることから重陽の節句には食べられていた栄養食であったようだ。

この羊羹が我が国にもたらされたのは平安時代の遣唐使によってとされている。当時の中国では「羹」とは鳥、獣、魚の肉や肝を使って作られた吸い物であり、羊羹はそのひとつであった。しかし、その頃の日本は肉食を忌み嫌っていたために植物性の材料、つまり小豆の粉、すりおろした山芋、小麦粉、くず粉を練って羊の形に切って蒸し、汁の中に入れたもので、料理の一種として宮廷や上流社会でもてはやされた。さらには鎌倉、室町時代になると禅僧によって、羊の肉の代わりに小豆、山芋、小麦粉を入れて精進料理として用いられるようになった。さらには茶道の茶菓子「点心」として使われるようになり、そして汁のない点心が蒸し羊羹へと発展し、今日の羊羹の原型が出来上がっていくことになる。

やがて江戸時代になって、1589年京都伏見の駿河屋岡本善右衛門がアズキと寒天と砂糖を原料として練り羊羹を考え出し、現在の羊羹へとつながっていった。最初は砂糖が国産できなかったので大変貴重であり、一般的な羊羹には甘葛などが使われることが多く、砂糖を用いた羊羹を特に「砂糖羊羹」と称していた。しかし、砂糖の量産化と共に砂糖羊羹が中心となって現在に至っている。

この蒸し羊羹は、さらに「芋羊羹」や「ういろう」などへと派生していくことになる。

             村岡総本舗「羊羹百話」などより

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