亭主の寸話48『高天原の神々の食べ物』 

 

 私はいま「古事記にまつわる阿波の神社巡り」を楽しんでいる。このように神社を尋ね歩いていると阿波の地に住んでいた上古の人たちの姿が垣間見えてくるような錯覚を覚えることがある。「一体、古事記の時代に住んでいた人たちはどんな生活をしていたのだろうか、何を食べていたのだろうか」と思いを巡らす。そこで今回は我々の上古の祖先である、古事記に書かれていた神代の人たちの生活ぶりや食べ物を探ってみることとした。

ところで、古事記に書かれた神代の時代とは現代の我々の歴史感覚からしてどの辺の時代を想像してみたらいいのだろうか?

これには古事記は明確な手がかりを我々に残してくれている。古事記では高天原での出来事の中に『食物を大気津比売神(おおげつひめのかみ)に乞いたまいき。ここに大気津比売、鼻・口また尻よりくさぐさの味物(ためつもの)を取り出して料理をして差し出した。速須佐之男命(はやすさのおのみこと)汚きものを奉ると思って大気津比売神を殺したまいき。殺されたる神の頭に蚕が生まれ、二つの目には稲種生まれ、二つの耳に粟生まれ、鼻に小豆、陰に麦、尻に大豆が生まれた。神産巣日神(かみむすひのかみ)がこれらを採って種とした。』(一部読みやすく私流に書き換え)としている。つまり蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆などが高天原に住むオオゲツヒメの時代から始まったとしているのである。では、これらの農産物はいつごろからわが国で栽培され始めたのか、それを知れば神代の時代がいつごろのことかが想像できる。そこで遺跡から確認されている、これらの作物の最も古い時代での出土記録を調べてみた。

私たちは子供の頃に、稲作は弥生時代から始まった、と教わっている。現在では遺跡からの出土品解析により、水田稲作は縄文時代晩期、紀元前600年頃からの栽培と見られている。そして大豆も出土品から稲作とほぼ同時代にわが国に持ち込まれていた、とされている。大麦、小豆などは縄文時代後期の地層から、粟は弥生時代の地層からそれぞれ出土している。蚕については、私の友人で元農水省蚕糸・昆虫農業技術研究所所長のK氏に調べてもらったところ、わが国の最古の絹布は紀元前100年頃と推定されている、とのこと。

もうひとつ、時代を知る古事記の記述として、天照大神が天岩戸に姿を隠したときに『安河(やすのかわ)の天堅石(あめのかたしわ)を取り、天の金山の鉄を取りて鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)に鏡を作らしめ、、、』と青銅器あるいは鉄で出来た八咫鏡(やたのかがみ)を作らせて天照大神を天岩戸から導き出すことに成功することが書かれている。わが国に青銅・製鉄技術が持ち込まれたのは紀元前200年頃と見られているので、このことから天の岩戸の出来事は弥生時代中期ということになる。つまり、高天原の神代の時代とは弥生時代前期から中期にわたっての頃ではないか、と想像できる。

では、弥生時代の人たちはどんな暮らしをしていたのか、これも遺跡からの出土品から当時の生活の様子や食べ物の全容がほぼ明らかになっている。今回は大阪府立弥生文化博物館がまとめた資料を中心に、古代料理研究家、奥村彪生氏の講演などに基づいて高天原の神々の食事を想像してみた。

まず、弥生時代とはどのような時代であったのか、概略に眺めておこう。弥生時代から作物の栽培が始まり、定住生活が始まったとするならば、その前の縄文時代後期はクリ、クルミ、ドングリなどの木の実などを採取したり、狩猟によってシカやイノシシなどの肉、あるいは海や川で魚や貝を取って生活をしていた時代である。以前に新聞記事などで紹介された青森県三内丸山遺跡の出土品から当時の豊かな食生活の紹介が思い出されるが、あの時代が縄文後期である。また、西日本などではこの頃、東南アジアから渡ってきたヤマイモや里イモなどが主食に加わっていたとされている。つまり縄文時代後期は主食をドングリ、トチなど山で採取した木の実とし、副食は海や山で獲った魚や獣肉を食べていた時代であった。

そして弥生時代になると、この縄文時代の食生活に米、大豆、小豆、粟、ヒエなどの栽培作物が上乗せされて定住生活が始まり、社会が構成されて人口が急速に拡大していった時代だったのです。つまり弥生時代とは、山での狩猟や木の実の採取が減って平野から得る作物の利用が広まっていき、さらに狩猟技術よりも漁労技術の発達が目覚しかった、つまり山から平野や海、川へと重心が移っていった時代だったのです。

弥生時代は稲作が始まったといってもまだ米は少なく、他の穀物や木の実、山野菜、海藻、魚鳥獣肉を組み合わせた混食の時代でした。この頃に米を主食に出来たのはごく一部の権力者であり、神様と後の時代に崇められる限られた人たちだけであった。人々は、米のほかに粟、ヒエなども栽培しており、少ない米の増量剤としてこれらを一緒に炊いていたと考えられる。わが国では稲作の栽培は短時間のうちに東北地方まで広まっていったが、このように短期間に定着したのは、稲の生育がわが国の温帯モンスーン気候と適合していたからであろう。わが国の天候は、田に水が必要な発芽・育苗の時期には梅雨の季節となり、稲が生育する時期には充分な夏の太陽が照りつけ、秋の収穫期には乾燥した秋空が待っている、というまさに稲の生育サイクルにマッチしいたものだったからでした。

弥生時代には米を搗く杵と臼が出土しており、神様たちは今で言う「五分搗き米」くらいを食べていたのではないかと考えられている。お米は、お粥や雑炊にしたり蒸らしておこわとして食べていたと考えられる。石川県鹿西町の弥生時代の遺跡からはササの葉で包んで蒸したチマキが、蒸し器となる土器などと共に出土している。

副食は地域にもよるが魚の残骸が多くの遺跡で見られている。フグ、クロダイ、タイ、スズキなどを貝包丁やサヌカイトを使って小さく切って塩をつけて食べていたようだ。もうひとつは焼き魚で、味付けは塩と酢と思われる。また、稲作は、灌漑水路や水田を発達させ、鯉、ふな、どじょう、なまずなどの淡水魚が簡単に手に入るようになり、水田漁労にも道が開かれていった時代でもあった。

このようにして縄文時代の山での狩猟や木の実の採取時代から、弥生時代は平野での栽培と魚食という時代に移ってくるが、肉食はその後も蛋白質の重要な供給源として根強く続く。肉は焼いたり、煮て食べていたようである。後年仏教が伝わってきた天武天皇時代になると牛、馬、犬、猿、鶏を食べることを禁止する勅令が出されており、その後も各天皇が禁止勅令を出し続けているほどである。

佐賀県の菜畑遺跡などからはゴボウ、マクワウリ、ヒョウタンなど野菜の利用が見られている。また、あくの強い山野草も煮て塩の味付けで食べていたと考えられる。この頃には塩以外に醤油や味噌のような調味料はまだなかった時代である。

酒は縄文時代の中ごろには山ブドウ、ガマズミの実、カジの実、アケビ、イチゴなどが酒の原料とされていたようだが、稲作が始まると「口噛み酒」が生まれ、弥生時代の中ごろには麹を使った酒が出来ていたと思われる。古事記にも応神天皇の頃、ススコリという渡来人がやってきて、天皇に酒を献上したと書かれている。恐らくこれは「麹の酒」だっただろうと思われる。

このように神代の時代と想定される弥生時代は、充分とはいえないまでも季節に応じた食べ物に恵まれた時代を迎えていたのでした。

では、具体的にこの当時の部族の長(神様)はどんな食事をしていたのか、古代の食事に詳しい奥村氏はこのように想像している。

のある日の夕食。マダイの刺身、ハマグリの羹(あつもの)、  ヒガンフグの干物の焼き物、菜の花・たけのこ・フキのゆでもの、ヨメナごはん、草餅黄な粉まぶし。

のある日の夕食。クロダイとアワビの刺身、サザエのつぼ焼き、ゆでダコとウリの酢の物、モクズガニのたたき汁、焼きナス、ハモめし、マクワウリのデザート。

のある日の夕食。シカ刺し、酢ガキと橘酢、スズキの埋火焼き、焼きマツタケとサトイモのゆでもの、おこわとゆでアズキ、ノブドウ・クリ・クルミ・カヤのデザート

のある日の夕食。ヒラメの刺身、焼きクジラ、イノシシのなれずし、ダイコン・ゴボウ入りのフグ汁、カブラの葉のゆでもの、粟めし、団子のエゴマ和えと干し柿。

この献立を見てどう感じましたか?当時の一般民衆の栄養状態は、人骨から推定すると、現代人と比べて飢餓線といわれるハリス線の数が多く現れており、かなり栄養的に厳しかったと考えられている。しかし、古事記の時代の神々の食事は、季節の旬の素材を活かした、まさに現代の和食の原型だったといえないでしょうか。

さらに、この時代の生活様式も現代の私たちに引き継がれているのです。竪穴住居には中央に炉が掘られて、そこで煮炊きをしたり、その周りに家族皆が取り囲んでの家族団らんの場となっていたようだ。炉は古墳時代になるとカマドへと調理の役割を移していくが、その後も囲炉裏として生き続いており、田舎などで今も見られる囲炉裏は縄文、弥生時代の名残を今に留めているのである。現在では、囲炉裏はコタツへと形を変えながら家族団らんの場を作っているのです。外国に囲炉裏やコタツがないように、神代から受け継いた我々の遺伝子は深い愛着を持ってこれらを今に引き継いでいるのです。

古事記の時代の神々は、きれいな水と空気の中で、季節の移り変わりを舌で味わいながら豊かな時代を生きていたと言えるのではないだろうか。古事記の時代は決して現代の我々と断絶した架空の世界ではないのです。現代の我々は、古事記の時代の生き様を引き継いで、今を生きていることを認識しなければならない。

 

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