亭主の寸話40 『家康はてんぷらで死んだ?』
天麩羅が庶民の間で一般化する以前に徳川家康が天ぷらを食べて命を落とすという大きな事件があり、天麩羅の普及に大きな影響をもたらすことになる。この話は話題性に富んでいるだけに、どこまでが真実でどこからが尾ひれの部分か今となっては分からないが、天ぷらにまつわる一大出来事であったことには間違いない。天ぷらシリーズの最後にこの話をしたいと思います。
家康は大阪冬の陣、夏の陣と立て続けに豊臣陣営を攻め立て、徳川政権を確立した後、将軍職を息子秀忠に譲りここ駿府の城に隠居していたが、頭の中では出来上がったばかりの徳川政権の基盤強化に思いを巡らしていたことであろう。そんなある日、家康公は大勢の供を引き連れて好きな鷹狩りに出掛けていった。そこへ家康お気に入りの京都の豪商茶屋四郎次郎が尋ねてきて都の様子を話すうちに、京の都で食べた鯛の天ぷらに話が及んだ。ちょうど家康の手元には鯛が届けられていたので早速天ぷらを作って食べた。ところが、その晩から腹痛を起こし、回復しないままその3ヵ月後に死んでしまうのである。これが「家康の鯛の天ぷら死亡説」ということになる。
一般には家康の死因は鯛の天ぷらを食べて死んだと言いふらされているが文献にはそうなっていない。『徳川実録』には次のように書かれている。私流に現代語で書くと次のような文章になっている。
『家康公は元和二年正月21日駿河の田中(現在の藤枝市)で鷹狩をしておられた。そこへ茶屋四郎次郎が京より参謁して、いろいろな話をしている中で、家康公から近頃何か上方で面白いものはないかと尋ねられたので、そうですね、このごろ京阪の辺では鯛を榧(かや)の油で揚げ、その上に薤(にら)をすりかけて食べるのがあります。私も食べましたがなかなか良い味わいでした、と答えた。ちょうどそのときに榊原内記清久より能浜の鯛が献上されていたので、早速その鯛で調理するように命じられ、それを食べた。ところがその晩より腹痛が始まり、急いで駿河の城に帰り療養するのだが、一旦は治まったかに見えたがご老体のことでもありまたぶり返しなかなか良くならない。家康公も心を決めた様子に見え、、、。』とあり、天ぷらとは一言も出てきていない。
これが書かれた「徳川実録」は初代将軍家康から十代将軍家治にいたる各将軍が行ったことを書き記したものであり、この鯛の天ぷらの事件は実際にあったことと考えられる。ここに登場する茶屋四郎次郎は京都の政商で、本能寺の凶変をいち早く家康に急報し、家康帰国の先導もしている。それ以来家康との関係は深く、側近として近侍していた。
この頃の料理書である「大草家料理書」(1600年頃)や「料理物語」(1643年)によると『鯛南蛮焼は油にて揚げる也』とか『鯛を焼いて豚脂で揚げた後煮ると南蛮料理という』とあり、家康が食べたような鯛肉を油で炒めた料理が紹介されており、このような料理が存在していたことは想像できる。
ただ、衣を付けたという言葉がないところを見ると天ぷらというよりもむしろ空揚げの一種ではなかったかと思われる。
いずれにしても鯛の空揚げを食べた家康は、その晩から腹痛を起こして一晩たっても治まらず、やむなく居城である駿府の城に帰っている。家康は平素から用心深く、いつも薬を持ち歩いていたが今回の腹痛には効果がなかったようだ。周囲の者は驚いて江戸にいる将軍秀忠に通報したり医者を手配したが一向に回復しなかった。朝廷からも御水尾天皇の勅使が見舞いに来ている。しかし、ついに元和二年4月17日午前10時に死亡した。当時としては長生きといえる75歳であった。 鯛の空揚げが発病の原因だったとしても、亡くなるまでに約3ヶ月が経っている。このことから家康の死亡原因としては「天ぷら死亡説」は当を得ていないとみる人は多い。
家康が亡くなる1ヶ月前の3月17日には、太政大臣に任ずる旨の宣命が下り、勅使が27日に駿府に着くと家康はこれを上座に据えて対面し、任官の宣命を拝して後、勧盃の儀を執り行い、29日には城中で能楽を催している。その間家康は衣冠束帯でいささかも姿勢を崩さず、とても病中の人とは見えなかったと記録されている。このことから見ても「鯛の空揚げ」を食べる前から病状は進行していたと想像できる。
では死亡原因はなんだったのか、ここから先は推測でしかないが、「腸カタル」、「悪性胃腸病」、「胃がん」など諸説が取りざたされているが真相はどこまでも霧の中である。
家康公が天ぷらで死亡したとあっては徳川幕府の幹部が鯛の天ぷらを避けたことは容易に想像できる。結局江戸に天ぷらが根を下ろすのはそれから100年ほど経ってからとなる。
京阪や長崎で天ぷらが登場したのは社会の上層部の食べ物として迎えられたのですが、江戸で天ぷらが登場するのは社会の上層部である武士社会ではなく下層階級の下賎な屋台の食べ物として登場したことは、徳川家康の死亡原因となったことと無関係ではないだろうと思っている。だから江戸の武士が天ぷらを食べようとすると手ぬぐいで頬かぶりをしなければならなかったのかもしれない。
初代将軍徳川家康公が天ぷらで死んだとされて天麩羅の普及に水が差された格好になったのだが、徳川最後の将軍慶喜公は大の天ぷら好きであったことは有名。ただ、江戸城本丸では天ぷらはご法度であり調理ができなかった。その理由は揚げ物からの火事があったことによる。天ぷらは火と油を使うので火災の危険があったからである。ところが慶喜公は勝海舟を通じて天ぷらの味を知ってしまったようだ。下賎な食べ物とされていた天ぷらが最後の将軍慶喜公が愛好したことによって世間の見方が大きく変わったことは言うまでもない。最初の徳川将軍家康が天ぷらの普及に水を差し、最後の将軍慶喜が天麩羅の発展に寄与していたとは面白いめぐり合わせとしか言いようがない。