亭主の寸話 C『食べ物とけがれ思想』


 あなたはお父さんの箸(はし)や茶碗で食事をすることが出来ますか。ほとんどの人は他人の箸や茶碗を使って食事をすることに強い抵抗感を持っています。それは、きれいに洗ってあるかどうかとは関係なく、ある種のけがれのようなものを感じてしまうのです。その結果、ほとんどの日本人は自分の使う箸、茶碗、湯飲みなどを決めていて、他人のものを使ったり、自分のものが使われることに強い抵抗感を感じています。

 箸も茶碗も東アジアの稲作文化圏に共通する食事道具で、中国、朝鮮半島、日本のほかにベトナム、モンゴル、チベットの一部の人たちも箸を使って食事をしています。その他の東アジアの人たちは、私たちが寿司を食べるときのように手づかみでの食事が多いようです。世界には食事の食べ方に3つの基本形があるとされています。その中で一番多いのはなんといっても手食文化圏でアジア、中近東、アフリカに広がっており、地球人口の44%を占めているといわれています。我々の箸文化圏とナイフ、フォークスプーン食文化圏が共に28%ではないかと考えられています

 そもそも箸を使う風習は中国大陸の漢族から始まったといわれています。中国では紀元前300年頃の戦国時代にはすでに箸が使われていたようで、その後、箸の文化は周辺の国へと伝わり、わが国には遣隋使、遣唐使などによってもたらされたとされています。

 しかし、その後の歴史の中で箸に対する思い入れはそれぞれの国によって異なってきました。朝鮮半島では自分の箸を区別するということは全くありません。箸や食器が個人に属するという意識は生まれていないのです。中国でも日本のような強い抵抗感を意識していないようです。同じ箸文化が広まった国の間でどうしてこんな意識の差が生まれたのでしょうか

 東アジアではもともと箸と匙(さじ)をセットで使う風習がスタート時にはあったようです。日本でも中国の箸文化を取り入れた奈良、平安時代には一部貴族の間で匙を使った形跡が残っていますが、すぐに消えてしまい、わが国では伝統的に匙を使わない食事形態として受け継がれてきています。本来の食事機能から考えると、ご飯のような固形物ならいざ知らず、汁物を食べる時には箸よりも匙を使うほうが合理的と考えられますが、わが国では具の多い少ないにかかわらず汁物も箸だけで食べるのです。中国では北の麦文化圏よりも南の米文化圏のほうが箸に強いこだわりを持っているようです。中国では、古代はご飯も匙で食べていたようですが、今ではほとんどの人はお粥も箸で食べるようになっています。朝鮮半島では、韓国料理を注文するとわかるように、今も匙と箸が一緒に出され、ご飯とスープは匙で食べて、おかずは箸を使って食べます。中国と日本では13〜14世紀に匙の使用が消えてしまいましたが、朝鮮半島では今でも箸と匙がセットです。これには朝鮮半島の長い歴史に影響されたものであり、李朝の時代になってそれまでの高麗王朝の元で保護されて堕落した仏教を廃して中国の古代からの思想である儒教を国の基本としたために、食事形態も中国古来の箸と匙の食生活に戻っていったといわれています。このようにして朝鮮半島の独自的な食事形態が今も続いているのです。

 では、このようにこだわりを持つ箸や茶碗に対して、フォークやスプーン、さらにはスープ皿ではどうでしょうか。以前は誰が使ったか分からないフォークやスプーンなども私たち日本人は抵抗なく使っています。つまり、このようなこだわりは茶碗と箸に限っているようです。無意識のうちに身についたこれらの風習を、あなたは不思議に思ったことはありませんか。

 さらにわが国では、地方によっては人が死ぬと、葬儀の出棺時に、その人の生前使っていた茶碗を玄関先で割るという風習や、娘が嫁ぐときに門前で娘が日ごろ使っていた茶碗を割ってしまうという風習が生きているところもあります。これらは、使っていた人の魂が茶碗にこもっているために、死人の茶碗を割ってあの世へ思い残さず旅立ってもらうように、また、生家に思い残すことなく嫁ぎ先で幸せな生活を送ってくれるように、との思いから生まれた風習とされています。

 つまり、わが国では箸や茶碗のようにその人が日常使っているものには魂が乗り移っていると考えられているようです。このことが同じ箸を使う民族でありながら、日本人に特有な食事習慣として定着していったのではないかと思われます。
このような風習はわが国に古くから根付いていた「けがれの思想」に由来していると考えられています。平安時代には貴族たちがすでに箸を使っていましたが、この時代の人たちは、使った箸にはその人の魂が宿ると考えていたようでした。そこで使い終わった箸を折ることによって、再び魂を自分の方へ戻していた、といわれています。山の中や峠で食事をした貴族が使った箸を折って捨てたことから「箸折峠」などの名前が残っているところも多いようです。今でも食べた箸を折る習性が私たちの中にも残っているのを目にすることがあるでしょう。このように箸には使った人の魂が宿るとの考えが古くから日本の中に根付いており、他人の箸を使うのを嫌ったり、自分の箸が使われるのを嫌う風習が今も生きているのです。神社ではこれら神聖な箸を大切に扱うために箸台の上に置き、これが今の箸置きとして生き続けているのです。さらに、これらの穢れ思想から、日本では割り箸というわが国特有な箸も編み出しているほどです。割り箸では、他人が使ったかどうか一目瞭然で判断できるので日本人の穢れに対するこだわりを払拭することが出来るからです。割り箸の歴史をたどると、南北朝時代にまでさかのぼるようです。吉野に下った後醍醐天皇に杉の木で作った割り箸を差し出したのが最初とされていますが、今の割り箸とは少し形態が違うようです。

 このような日本人特有の食事についての穢れ思想は箸や茶碗にとどまらず、もっと私たちに幅広く浸透しているようです。食卓にご飯と牛肉のステーキが並んでいる光景を想像してください。子供は食べる前に母親から「お米を作ってくれたお百姓さんに感謝をしながら食べましょう」と言われ、「いただきます」と手を合わせることでしょう。しかし、「牛を殺して、肉を作ってくれた人に感謝しなさい」とは決して言いません。ここにも私たち日本人の中に根強く染み付いている血に対する穢れ思想が強く働いているからだとされています。日本人は古くから人や動物の血に対して強いこだわりを持っています。それは仏教が殺生を禁じたことによるとされています。ところが、同じ日本の中でも、狩猟生活が長く続いた北海道、中国の影響を強く受けてきた沖縄県では血に対するこだわりが大きく違ってきます。アイヌの熊祭りに象徴されるように狩猟を生活の糧としてきた北海道では血を穢れとは感じていない時代が長く続いていました。また、中国の食文化の影響を強く受けていた沖縄県では血も食糧として見られています。このように同じ日本といっても地域によって食文化が微妙に食い違っているのです。

 わが国に仏教が伝わってから中世の日本では殺生を禁じた時代が長く続きました。わが国だけでなく、多くの民族も宗教にかかわる食べもののタブーというものを持っています。豚肉が食べられない宗派、牛肉が食べられない宗派、鯨のようなうろこのない魚が食べられない宗派などあり、このような食のタブーを共有することによって民族を超えて宗教宗派の団結を固めている働きをしているのです。しかし、日本の穢れ思想はこれらとも違っているもののようです。

 それは仏教が殺生を禁じたからだけではなく、仏教が伝来してくる以前からこのような穢れの考えがあったようです。それは、平安朝まで続いていた都を移す「遷都」の歴史が示しています。帝が死ぬと新しい都を作ってそちらに移っていくのです。それは飛鳥板蓋宮あたりから始まって大津京、藤原宮、平城京、難波宮、紫香楽宮、長岡京、平安京と続いていくのです。大変な国家財政の負担になっても、穢れを除くほうが優先するために遷都を繰り返したのです。都に病気が蔓延しても、火災や水害が起こってもそれらは祟りがもたらしたものと考えられていました。平安時代になって仏教が穢れをはらってくれる役割を果たしてくれて始めて都は穢れから抜け出す手段をもつことが出来たのです。だから仏教では、怨霊を生むとして殺生を禁止したのです。

 この穢れ信仰というか、穢れを信ずる感情と共に古代からわが国の精神構造に強い影響を与えているのが怨霊(おんりょう)信仰と言霊(ことだま)信仰です。怨霊信仰とは政争などで無念の死をとげた人の怨念が災いとなって不幸を招くと信ずることであり、言霊信仰は、喋った言葉が力を持って実現をしようとする力に変わる、と信じることです。これらは両方とも現代の科学で考えると正しいこととは思われませんが、これらは病気や災害となって自分の身に降りかかってくると、長い間信じられていたのです。天神様を祭ったのも菅原道真の怨霊を恐れたためであり、出雲大社の大神殿も大国主命の霊を鎮めるために作られた、とされています。作家の井沢元彦はこのような怨霊信仰と根を同じくするのが日本最初の長編小説「源氏物語」であるとしています。

 源氏物語は光り輝く美貌の源氏を名乗る主人公が、読み手がうらやむ華麗なる恋の遍歴を重ねたうえに皇位につくという成功部分と、やがて失意のうちに出家を決意するという後半部で構成される大恋愛物語である。しかも、この小説が書かれた時代が平家全盛の時代であるからややこしい。なぜこのようなライバルの源氏と名前のつくうらやましい物語が、最も平家が隆盛な藤原道長の時代に生まれたのか。作者の紫式部は道長の娘、中宮彰子に宮仕えする身でありながら、なぜ源氏を主人公とする小説を書いたのか。しかも、紙が貴重な時代に道長が作者の紫式部に対して、源氏物語を書くのに必要な紙や硯を支給していたとさえいわれている。外国でこのような当時の権力に楯突くとみられる本を書けば焚書は免れないか、たいていの場合は作者の首が飛ぶところであろう。
井沢は、これは大国主命の怨念を鎮めるために最大の神社、出雲大社を建立したことと同じ、ライバルに対する賛辞であり、源氏物語も地方に散った源氏を立てることによって怨霊を鎮めたのではないかと考えている。しかも、このような怨霊を鎮める文学はこれだけでないという。紀貫之が書いたとされる「竹取物語」も、藤原の貴公子たちの求婚をかぐや姫が無理難題を突きつけて右往左往させる姿を見せ付けてこけにしている物語である。また、「伊勢物語」も藤原政権に対する嫌がらせのようなものである。このように日本古来の文学は、それを書くことによって怨霊を鎮めようとの思いがあったようである。

 言霊信仰も現代の日本人に深く根ざしている感情である。喋った言葉が力を持つので、病院では死を連想させる4の文字を病室にはつけないようにして避けている。入学試験を受けに出かける子供には、落ちることを連想させる言葉を避けて、勝ち栗など元気の良い言葉につながるように心がけるのです。古代の演劇でもせりふを喋ると登場人物が乗り移ってくると恐れたために、日本では外国に比べて演劇の発達が遅れたといわれています。だから歌舞伎で忠臣蔵を演ずるときには、役者たちは四十七士が祀られている品川泉岳寺に参拝をしてから演じており、滝沢馬琴の南総里見八犬伝を演ずるときには、まず茗荷谷の深光寺にある滝沢馬琴の墓に詣でてから演じている。能では亡霊の役を演ずることが多く、能面で顔を覆うことで始めて演じられるようになったといわれている。平家の亡霊が登場する平家物語は盲目の琵琶法師が語るのを聞くことによって言霊からのがれていたのです。

 私たちがフォークやスプーン皿では気にしないこだわりも、古来から続いている箸や茶碗となると属人的な強い感情を込めるようになってしまうのも、これら日本人の心の奥底に深く根付いている穢れ思想、怨霊信仰、言霊信仰とつながっているところがあるだけに、非科学的と理解をしていてもなかなか拭いきれないものとなっているのではないでしょうか。


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