亭主の寸話38 『てんぷら店の移り変わり』
今でこそ天麩羅専門店は商店街の真ん中できれいな店を構えて高級料理として商売をしているが、これらはまったく戦後の光景であって、それ以前の天麩羅屋さんは街角の屋台と決まっていた。どうして昔は家の中で天麩羅を作らなかったのか、どうして屋台天麩羅から店舗を構えた天麩羅店へと変わっていたのか、2回目は天麩羅の店の変遷を辿ってみたい。
食物文化史を研究している平野正章氏は天麩羅が庶民の口に入るようになるのは天明5年(1785年)としている。この頃になると天麩羅屋台のことを書いたものが出てくる。それらを見ると最初の天ぷらはよしず張りの屋台で売っていたようだが、その天ぷらの中身がどんなものであったか、詳しくは分からない。しかし、最初のうちはあまり上等のものではなかったようである。江戸時代の屋台天ぷらは1串4文と記されている。その頃すでに人気のあったウナギの蒲焼が200文していたというから天ぷらはあまり上等の食べ物ではなかったことだろう。やはり初めのうちは長崎卓袱(しっぽく)料理の名残が尾を引いていたのかもしれない。驚くことに江戸においては天麩羅が屋台で売られていた時期は長く、現在のように店の中で天麩羅をあげるようになるのは太平洋戦争以降のことのようである。それには大きな理由があった。それはてんぷら油の粗悪さとてんぷらによる火災の予防によるものであった。
天ぷらが長く屋台で商売していたのは下等な食べ物とされていただけでなく、精製度の悪いてんぷら油にも原因がありそうだ。屋台の天ぷら屋からは白い煙が立っていたといわれている。もし座敷でこのような天ぷらを揚げていれば、その匂いだけで食欲を減退させてしまうだろう。屋台なら匂いを空中に拡散さしてしまうし、実害をそれほど被らなくても済むからである。江戸時代のてんぷら油はごま油が主体であったようだ。ゴマ油は神社仏閣での灯明の油として古くから知られていた。江戸初期まではゴマ油が燈火に使われていたが、中期になると燃やしても匂いが弱く煙も出にくいナタネ油が明かり用の油として使われ、ゴマ油は食用に使われるようになる。
ゴマ油は、ゴマを焙煎した後、圧搾して油を搾り出すのですが、この中には油以外の不純物も多く、そのためこれらごま油で加熱調理すると油煙が立ち込める。もしこの時代のごま油を使って部屋の中でてんぷらを揚げると部屋の中の調度品は油でべっとりと汚れてしまうことになる。匂いも強いため、締め切った部屋の中で揚げると耐えられなかったことだろうと想像される。屋台で揚げている匂いは1丁(110m)先まで匂っていったと書かれていることでもわかる。おそらく店内で天ぷらを食べさせたにしても天ぷらを揚げるところは店の前でやっていたのではないだろうか。ちょうど現在のうなぎ店が蒲焼を店の前で焼いているのと同じような姿が想像される。
屋台で売られていた天ぷらはあまり品のいい食べ物とは見られていなかったようで、当時の挿絵を見ても肩に手ぬぐいをかけた中年の女性や天ぷらを手掴みで食べている丁稚小僧、さらには二本差しの武士が顔を手ぬぐいで隠して食べている様子などが描かれている。どうやら武士が大道で立ち食いするのがはばかられた食べ物であったようだ。屋台の天ぷら屋にとってのお客といえば丁稚や武家屋敷の下男たちであったようで、それらの様子は江戸時代後期の滑稽本に多く登場してくる。また、この頃の読み物からは田舎者が江戸に来て初めて天ぷらを見た様子も書かれており、天ぷらの地方への普及が遅かった様子も見られる。
明治時代になると東京にお座敷天ぷらという商売が出てくる。これは椿油など比較的煙の出ない油を使っており、注文を受けたお宅の座敷へ出向き、手際よく人数分の天ぷらを目の前で作り、終わると持って行った道具、材料など物屑ひとつ残さずに全てを2つの箱に片付けてさっと引き上げるというもので、手際のよさも売りのひとつであったようだ。この商売はまさに個人技だったので2代目、3代目と続けることが出来ず、徐々に形を変えながら自分の店舗に座敷を作り客の目の前で天ぷらを揚げる様式に姿を変えていった。
明治維新後は道路の取締り規制で屋台が許されなくなり屋台は徐々に姿を消して家の中での商売に移り、いわゆる天麩羅屋が生まれてくることになる。現在の銀座4丁目の角にある「和光」は、その昔天麩羅屋「天金」があったところである。天金の常連客の一人が十五代将軍徳川慶喜公だったといわれており、お店では御殿にお好みのかき揚げを届けたり、お忍びで店に来ていたと言われている。慶喜公の好みは大ぶりの波の絵が描かれている鍋島皿に五寸ほどの大きさのかき揚を乗せたものであったといわれている。
「天金」はその後店舗の敷地を服部時計店に渡すことになり数奇屋町に引越し、ここで現代風の洋風食堂「ドンワン」を作り、天丼に吸い物椀を添えたので丼椀、と命名して1円で売り出した。これが評判を呼び外国人もしばしば立ち寄るようになり、天麩羅が高級料理へと変わっていくことになったとされている。
戦後「天金」は店舗を変えながら営業を続けていたが昭和46年に閉店、ひとつの役割を終えることになる。この天金の次男が国文学者で慶應義塾大学教授だった故池田弥三郎であることは有名。
明治初期には文明開化を向かえて天ぷらがようやく庶民の食べ物に定着することになる。この頃に天ぷらは屋台と内店とが並行して街に出るようになる。明治18年の「東京流行細見記」には有名天麩羅屋が35軒ほど挙げられている。こうして現在の天麩羅屋が生まれ、海外にまで展開していくことになるのである。
明治から大正時代にかけて東京での天麩羅の三大有名店は銀座の「天金」、新橋の「橋善」、浅草の「中清」といわれていたが、現在残っているのは浅草の「中清」だけとなっている。
大正12年の関東大震災で東京の天麩羅は大きく様子が変わった。建て替えられた天麩羅屋の店構えが立派になり、屋台天ぷらは面影を消してしまった。また、天ぷら油として大豆油が登場してくるのもこの頃からである。当初は大豆油も精製度が悪く色も濃かったが大震災で東京に天ぷら油が不足していたこともあり、大豆天ぷら油が清水港から大量に送り込まれその地位を確立していった。あたかもそれまで使われていた榧(かや)油、荏(えごま)油などの生産が地域開発と共に衰退していたところを補った格好となった。現在では天ぷら油の主体は高度に精製されたナタネ油、大豆油であり、これにゴマ油、落花生油などを加えて使われている。天丼が生まれてきたのもこの頃からである。
このようにして今ではどこへ行っても街並みの中に見られる天ぷら店であるが、その天ぷらがわが国を代表する料理のひとつとして世界に知られるようになるには長い苦難の道が隠されていたのである。しかしこれはなにも天ぷら店に限ったことではなく、寿司も蕎麦もすき焼きも天ぷら同様にはじめは下々の食べ物だったところから這い上がってきた力強さを持っているのである。だからこれらの食べ物には皆に親しみをこめて愛され続ける奥行きを持っているのかもしれない。