亭主の寸話31 『アメリカの稲作農業』

                                     

 先日、NHKテレビで世界のコメ生産国の様子を何回かのシリーズで映し出していましたが、その中で私にとって懐かしいアメリカの稲作農業の風景がとりあげられていました。多くの人たちはアメリカでコメが栽培されていることも知らないのではないかと思います。現に私もその景色を目の当たりにするまではアメリカで稲作が行われていることは想像もしていませんでした。

1980年代の半ばに、私は会社の仕事の関係からアーカンソー州立大学に短い期間ですが籍をおいていたことがありました。大学はアーカンソー州の州都であるリトルロックの街にあったので、週末にはときどき車でドライブをしながらアーカンソーの田舎を走り回りました。そこで私は初めて初夏の風になびく青々とした水田風景に出会ったのです。アーカンソー州はアメリカ南部の水郷地帯であり、そこには日本の田園風景となんら変わらない光景が展開されていたのです。私は後に知ったことですが、アーカンソー州の土壌は長い時代に亘りミシシッピー河が運んできた土砂が堆積したためか比較的粘土質の土壌で小麦や綿花よりも稲作に適していたようです。そのためにアーカンソー州は当時すでにアメリカの稲作の中心地となっており、私が通っていたアーカンソー州立大学がその稲作技術を指導している本拠地だったのです。今もアーカンソー州はアメリカのコメ生産量の半分以上を占めているコメ本場です。ただ、ここで作られているコメは長粒種が多く、アメリカ人たちの料理には適しているのですが、私たち日本人の口には適していません。アメリカ人たちはこの長粒種米をスープとあわせて食べるジャンバラヤなどに使っているようです。明治36年に報知新聞に1年間連載された『食道楽』(村井弦斎著)によると、アメリカではこの頃にはお米の料理がすでに200種類を超えているとのことです。私は日本から炊飯器を持っていって自炊をしていたので、隣町にある韓国人が経営している食材店まで出かけていってカリフォルニア産の「錦」というジャポニカ米を買ってきて食べていました。それは今から思い出しても結構美味しかったように覚えています。

 実は世界的に見ても彼らの長粒種米がコメ生産量全体の8割を占めており、私たちが普段食べている短粒種米は1割にも満たない少数派なのです。両者の中間の中粒種米というのもあり、これは中国などで栽培されていますが、短粒種米は日本、中国、韓国が中心のようです。カリフォルニア州で「錦」のような中短粒種米が作られるようになるのは中国や韓国からの移民が多く入植し、彼らがジャポニカ米を主食としていたことから生産がはじまったようです。しかしカリフォルニア州は降水量が少なく水田の水が不足がちなため、生産量には限界がありますが今もアメリカにおけるジャポニカ米生産の中心地となっています。

 

 私がアーカンソー州にいた頃がアメリカの農業政策のひとつの変換点だったように思います。以前にもお話したようにアメリカは1980年のアフガニスタンへのソ連侵攻に対する対抗措置として、ソ連への穀物の輸出停止に端を発した深刻な農業不況の真っ只中にありました。農業関連の企業や銀行が相次いで倒産し、ローンを組んでいた農地は売りに出され、その影響は多岐にわたって深い傷跡を残していきました。そして後にブラジル、アルゼンチンなどの強力な農業競合国を生み出し、アメリカ農業の苦難の道へと続く時期でもあったのです。その頃に書いた私のレポートが残っていますが、それを読み返しても当時の厳しさがよみがえってきます。

 アメリカの農業は海外市場を目指していたとはいえ、1970年以前は世界全体が自国の食糧は自給することを基本としていたので、敗戦国日本のような国は別としてそれほど輸出できる国はなかった時代です。だからアメリカの農業も基本的には国内の消費量を基準として、ある程度生産調整をしながら国内需給を保っていたのです。つまりアメリカも他国と同じように農業補助金など農業支援プログラムを適用していたのです。しかし、1973年にバッツ農務長官が打ち出した農業拡大路線がその後のアメリカ農業を大きく変えていくことになります。アメリカは国内の消費量を超える農産物に輸出補助金をつけて海外の市場に打って出たので、ヨーロッパを中心に多くの国では安いアメリカ農産物に市場を奪われ自国の農業が打撃を受けることになりました。アメリカに軍事面で対抗していたソ連もアメリカの穀物に頼らなければならない状況になっていました。このようにして伸びきっていたアメリカ農業の足をすくったのが、先ほどのアメリカの穀物輸出禁止措置後の農業不況だったのです。この辺のことは別のコラム、「大豆の話」に書いてあるのでそちらを読んでいただきたい。

私がアーカンソー州にいた1986年にはアメリカ国内のコメの在庫は史上最大の250万トンに達し、収容するサイロも足りなくて野積みされていたときでした。このときアメリカはコメに輸出補助金をつけて強引なダンピング輸出に踏み切ったのです。これが背景となって、前回お話したアメリカの対日コメ市場開放要求となり、わが国はガットウルグアイラウンドの農産物貿易交渉の場でミニマムアクセス(最小輸入枠)の受け入れへとつながっていくのです。

 アメリカの農業の強みはなんと言っても広大な農地による生産コストの低さにあります。現在コメ農家の平均農地面積は260ヘクタール、大農家では450ヘクタールといわれており、わが国の1.5ヘクタールとは比較にならない広さです。この広い農地を大型機械や飛行機を使って農作業をしているので、日本だけでなくてもこれに対抗できる国はどこにもないでしょう。この低コストのコメに輸出補助金をつけるといかにアジアの国々の低賃金といえども、長年続けてきた自国の稲作農業が根底から揺さぶられることになります。わが国はこれに対抗するために高い関税をかけてきたことは前回もお話したとおりです。しかし、この高い関税による輸入制限はWTOの趣旨に反するとして低減の方向が既に示されています。WTOは貿易の自由化が基本ですからどうしても農産物輸出国に有利に働きがちです。

 アメリカの稲作農業は長い間、輸出作物として捉えられており、生産量に対して国内の消費量は極めて少ないのが特徴です。広い農地で生産する安いコメに多額の輸出補助金をつけて海外市場を席巻していくために、アメリカのコメの輸出量は現在タイに続く世界2位を保っています。そしていまやアメリカは日本のコメ生産量と並ぶところまで来ているのです。日本のコメの生産量はよく知られているように、1967,8年の13百万トンをピークに現在では7百万トンまで半減しています。それは当時一人当たり年間126kgのコメを食べていたのが、今では64kgまでに半減していることによるためです。この日本人の米の食べ方は今や世界平均、アジア平均のコメの一人当たり消費量65kgを下回るところまで来ているのです。日本人の食事の主体はコメから徐々に麦類・畜肉乳製品へと移っていっています。これは日本だけの現象ではなくタイや台湾、マレーシアなどアジアのコメ産地でもすでに起こっており、中国でも所得が上がればコメの消費量が下がる、という図式に入っています。しかし、米の1ヘクタール当たりの生産量は3.6トンと小麦の2.5トンを上回り、しかも米には小麦の倍の有効タンパク質を含んでいるので、人類を支えていく力は米のほうがはるかに優れているのです。小麦を食事の中心に置くと、どうしても肉のような他の蛋白源が必要になってきます。

日本人がアメリカのコメに脅威を感じないのは、高関税に守られていることにもありますが、我々がジャポニカの短粒種米という世界市場でも限られたコメを好んでいるところにあるのかもしれません。しかし、今やコシヒカリの種子は世界の稲作国に行き渡っており、日本の市場開放とともに徐々に身近で目にすることが多くなっていくことでしょう。そのときまでに日本農業再生の道を見極めておかなければ、今のわが国の輸出産業が国際競争力を失ったときに次世代の子供たちが飢餓に襲われる恐れが生じてきます。

子供の時代、孫の時代を守るために、私たちは「農業を捨てた国民経済は成り立つのか」「人は都市と工場だけで生きられるのか」を詰問されているのです。

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