亭主の寸話29 『アメリカ牛肉の安全性』

                                     

 茶話会の始めの頃に、日本の消費者の食に関する関心事は遺伝子組み換え作物であり、アメリカの消費者の関心はトランス型脂肪酸であり、EUの消費者はアメリカ牛肉のホルモン投与にある、と話したことがあります。今日はこのアメリカ牛肉のホルモン残留問題についてお話してみようと思います。

アメリカでは大豆、トーモロコシなど遺伝子組み換え作物が大量に生産されており、世界最大の遺伝子組み換え作物の生産国です。しかし、アメリカの消費者の間ではそのことについてあまり話題になっていませんし、日本では牛肉の成長促進ホルモンについても話題になっていません。またアメリカで大きな話題になっているトランス型脂肪酸についても私たちはテレビで聞いた程度ではないでしょうか。私は日本人の食用油脂の使い方は液状油脂が中心であり、マーガリンを多く使った料理や菓子類に偏らない限りトランス酸については心配することもないと思っています。しかし、牛肉に入っているとEUで騒がれている成長促進剤などの薬品についてはふだん考えたこともなかったのではないでしょうか。だから今回はその牛肉についての安全性を取り上げてみました。

私は1980年代半ば以降、仕事の関係でアメリカに出かけることが多かった。私は当時技術部門を担当していたのでアメリカの農業を見て回る必要はなかったのですが、私がアメリカに滞在しているときにアメリカから大豆などを多量に買い付けているわが社の担当部署の人たちがアメリカの穀物の生産状況を視察に来るときには彼らと同行して農家を見て回ったものでした。この頃のアメリカ農業は、1980年初頭のソ連によるアフガニスタン侵攻に対するアメリカの報復処置として、ソ連に対する穀物の輸出禁止とその反動による国内の穀物在庫の増大によって深刻な農業不況の真只中にありました。一方わが国は農業団体の圧力をバックにしたアメリカ政府から強力に牛肉の輸入自由化を迫られており、1988年にはついに牛肉・オレンジの輸入自由化に踏み切らざるを得なかったという時代でした。つまりアメリカ牛肉にとっては日本という新市場をこじ開けることに成功したばかりだったのでした。

日本市場が開かれたからといって即アメリカの牛肉がスムーズに日本の消費者に受け入れられたわけではなかったのです。日本の消費者が望んでいた牛肉の味とは松坂牛のように脂肪が乗ったやわらかい牛肉だったのです。よくサラリーマンがアメリカに出張してアメリカで大きなステーキを食べて帰って、「わらじのような」とアメリカ牛肉を表現していたのを覚えているでしょう。牧草で育てられている牛の肉は赤身の多い締まった感じのする肉だったのです。そこで日本向けに脂肪が乗った松坂牛のような肉を作るために始まったのがフィードロット方式といわれる、穀物で飼育する方法だったのです。先ほども言ったようにアメリカでは大豆、トーモロコシなど穀物の在庫があふれていた時代であったのもこの方式が定着する要因だったのかもしれません。このようにしてアメリカの中で日本の消費者向けに穀物で育てる肉牛の肥育方法が始まったのです。

私はアメリカの農村を回っているときにその光景を目の当たりにして、あまりに従来の牛の飼育方法とかけ離れている姿に驚きました。それはちょうど肉牛を工場生産でもしているかのような眺めでした。それらは放牧という姿とは程遠い、草も生えていない柵の中に沢山の牛が押し込まれて、トラックで運ばれてくる配合飼料を黙々と食べている殺伐とした姿でした。草の生えていない平坦な土の上に押し込められた牛の大群は運動する余地もない柵の中で黒い塊となって立ち尽くしているだけでした。日本の田舎で見かける、大きなゲージの中に押し込められて餌と水を与えられてただ卵を産み続けている鶏舎のイメージそのままの牛舎でした。このような施設をフィードロットと呼んでいて、旧来の牧草を食べるために放牧する方式と区別されており、アメリカでは1箇所で10万頭を越えるフィードロットもあると聞いています。

このようにして育てられている牛は牛特有の反芻というものをしません。牛は一般的に草を食べるとそのまま胃袋に納めておいてからゆっくりと腹這になり胃に納めてあった草を胃から戻して咀嚼して再び別の胃に送り込み消化するという牛独特の消化の仕方をします。最初に胃に送り込まれたときに胃の中のバクテリアによって分解が進められており栄養価を高める働きを助けているのです。ところが高カロリーの穀物で飼育されている牛にはこの反芻という動作がなくなるのです。牛にとってありがたいことなのか迷惑なことかわかりませんが牛の本来の消化機能が崩れていることは明らかです。

アメリカはいまや牛肉の生産量が世界の約2割を占めるほどにまで拡大しており、一大産業としての地位を確立しています。そしてこの大量の牛が食べる飼料穀物が膨大なために人の食糧が脅かされているという図式にまでつながっているのです。トーモロコシや大豆を食べさせると飼料代が高いからといって、しばらく前までは羊や牛の解体残渣や動物の死体まで蛋白源として与えられていました。しかし、英国でこれらがBSE(狂牛病)の原因とされ使用が禁止されたのですが、アメリカでは2003年のクリスマスイブに最初のBSEが発生しています。牛の食事形態を無視し、効率だけを考えた飼育方法に対する手厳しいしっぺ返しだったといえるのではないでしょうか。そもそも牛は典型的な草食動物です。その牛に蛋白含量が高いからといって肉食をさせるのは、一時的に肥育が進んだからといっても牛にとって長続きできることではなかったのでしょう。

アメリカの牛肉生産はあくまでも効率を追求する肥育方法に徹しています。その効率を求める手段の一つが話題となっている成長ホルモンの利用です。本来牛の寿命は40年ほどあるといわれていますがホルモン剤などで短期間に肥らせ、4年の飼育で肉に解体されてしまうのです。また、沢山の牛がひしめき合っているので1頭の牛の病気が直ちに他の牛に蔓延してしまうことになります。そのような病気の予防のためにあらかじめ抗生物質をどの牛にも与えておくのです。高たんぱくの飼料を与え、成長ホルモンを投与し、あらかじめ抗生物質を接種しておくというアメリカ牛肉をあなたはどう見ますか。この生産者に都合のよい高効率の生産方式はいまやオーストラリアや日本にも一部取り入れられているといわれています。

 このようにして効率的に育てられた牛肉を食べることによって私たちは成長ホルモン剤と抗生物質の脅威にさらされていることになります。このことをEUの消費者は声を大にして訴えているのです。成長ホルモン剤の影響が既に現れているという声がEUの中から聞こえてきています。子供の初潮期の低年齢化やある種の癌にその影響が見られる、というのですが医学的に両者の関係が現段階では立証されているわけではありません。抗生物質の投与についても、近年風邪を引いても抗生物質が効かなくなってきている、と体内で抗生物質に対する耐性が生じていることに警鐘を鳴らす動きもあります。アメリカ政府はこれら肥育用ホルモン剤を適正な使用と残留基準を設定することによって認めているのです。そのためにアメリカのほとんどのフィードロットではこれら成長ホルモン剤が使われています。これら牛肉に含まれる成長ホルモンや抗生物質の影響が本当にあるのかどうかはまだ霧の中といえるでしょう。しかし、自然の摂理を無視したこのような飼育方法にある種の不気味さを感じるのは当然といえるかもしれません。

 EUの消費者は、日本人が遺伝子組み換え作物を買わないのと同じように、アメリカ産牛肉をかたくなに敬遠しています。これらの動きは日本ではあまりマスコミでも取り上げていないので消費者の関心は薄いように思います。私たちもこのような背景を一応知ったうえで、アメリカ産牛肉を自分の判断で選択したいものです。

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