亭主の寸話27 『野菜をもう一度見直そう』

                                    

 昭和30年代に田舎の農家で子供時代を過ごした私にとって野菜とは身の回りに絶えず生えている家庭内の食品であった。ほとんどの農家は自分の家で食べる野菜を畑で育てておき調理に必要なときに畑から必要量だけ収穫してくるというのが一般的である。当時は家庭にまだ冷蔵庫がなかった時代であり、野菜の新鮮さを保つには畑に植えておき、必要に応じて直接畑から収穫して調理するのが最も効果的であった。このような野菜との結びつきがあったので私にとって新鮮な野菜が絶えず食べられたというメリットがあった。しかしそれとは逆に、畑に育つ限られた野菜に頼らざるを得ないためにその季節に収穫できる我が家の限られた野菜で食卓が独占してしまうというデメリットも並存していた。春の筍(たけのこ)のシーズンになると朝から晩まで食卓の上には筍料理が並び、早くこの筍が消えてくれないかと心ひそかに思っていたものでした。筍の季節はまさに「雨後の筍」そのもので、一雨降ったあとには一面に筍が土の中から次々に顔を出しており、そのままにしておくとあっという間に手の付けられない若竹の林になってしまうから収穫しないわけにはいかない。かくて食卓の上が筍のオンパレードとなるのである。中国南宋の汪信民の言葉に『ば、百事すべし』というのがある。これは「いつも葉や根を食べるような粗食に耐えうる人物は何をしても成功するであろう」という意味である。もっと早くこの言葉に出会っていれば野菜ずくめの食事にも悲観していなかったかもしれないが、ことすでに遥かかなたの過去のことであり今頃知ったのではもう遅い。

 農家は現金収入の道も少なく、そのために出来るだけ食糧は自給自足して食費による支出を抑えようとします。だからいきおい食卓には野菜の割合が高くなってしまうのです。私は子供の頃このような食事を余儀なくされていましたが、そのような野菜の多い食事は貧しさの象徴であるとも思い続けていました。しかし、子供の頃の食習慣はその後の私の食生活に深く影響し続け、現在は東京で生活しているため野菜の価格が他の食材並みながらも野菜の多い食事から離れられません。東京生まれの家内からは草食人種と笑われているのですが、野菜をたっぷり食べないと食事をした気分になれないのです。どうやら家内のこの草食人種という言葉は最近はやりの「草食系男子」からきているようだ。草食系男子は肉食系男子に比べて温厚で誠実な人柄が特徴であるらしいが、私に対する草食人種はたんに野菜をよく食べる人、程度のことを指しているにすぎない。しかし、最近になって私のこのような草食人類を応援してくれるような情報が多くなってきているので気を強くしているところです。

 厚生労働省が推進している「健康日本21」では、日本人の野菜摂取量の目標値は1350g以上とされていますが、その後の「国民健康・栄養調査」によると日本人のどの世代もこの目標に到達していないのです。アメリカでは野菜と果物を多く食べている人ほど癌などの生活習慣病の発生率が少ないことを発見して「5 a day運動」を立ち上げています。これは1日に5皿以上の野菜と果物を食べようというものですが、これらの活動によってアメリカでは生活習慣病による死亡率が大きく減少したといわれています。

 野菜は私たちの体に必要なビタミンやミネラル、食物繊維などの供給源であり、これらの栄養素は免疫力をつけ健康的な体つくりの基礎となるとされています。たとえばビタミンAは皮膚や粘膜を健康に保ち、ビタミンCは血管、骨、歯などを丈夫にし、ストレスへの抵抗力を高めるとされています。また、カルシウムは神経の興奮を抑え、食物繊維は消化管の活動を活発にします。さらに癌の予防にも効果があるとされており、口腔、咽頭、食道、胃、結腸、直腸、肺の癌などが挙げられています。アメリカの調査では野菜を最も食べないグループに比べて、それよりも5割多く野菜を食べるグループはアルツハイマー型痴呆になる危険性は3分の1に軽減するとの結果も出ています。野菜の摂取は老化の原因となる体内の活性酸素を押さえ細胞の新陳代謝が妨げられるのを防ぐとも言われており、健康に対する野菜の役割はますます大きく認識されるようになっています。

 ところが一方ではこれら野菜が海外にその生産の多くを頼っている実態も浮かび上がっています。新鮮さが勝負といわれている野菜は身近な農村や都市近郊農家で作られているものと思っていましたが、わが国の野菜の20%は輸入によるものだとのことです。とくに食の安全で関心を集めた中国からの輸入比率が高く、輸入野菜の6割ほどを中国に頼っており、私たちを不安にさせているところです。野菜を栽培することは稲作よりも手作業部分が多く、はるかにきつい労働を要求されます。そのために農家の後継者不足が叫ばれている中で高齢者が栽培する野菜には限界があります。若者が野菜栽培に情熱を燃やせる環境にならなければ野菜の国内生産は衰退の一途をたどるしかないのかもしれません。消費者はひたすら安い野菜を追い求めています。消費者が安い野菜を追い続ける限り、当然のこととして労働力の安い中国からの仕入れに傾くことにならざるを得ないでしょう。現状はまさにその途上にあり、結果として野菜の国内自給率が下降の一途をたどることになるのです。

私たちは自分の健康のために野菜を食べようとするのですから、野菜に求める価値は健康に優れた働きであり、食品としての安全性が最優先であるはずです。つまり、その野菜がどのように作られているのかに注意を払わなければならないのです。

 では、中国での野菜栽培の環境はどのようなものか、新聞の記事から拾ってみると深刻な事情が浮かび上がってきています。中国科学院によると、工場廃水に含まれる重金属に汚染された耕地は2,000万ヘクタールにも及び、これは中国の耕地総面積の5分の1にもなっているということです。さらに農薬の使いすぎによってほぼ回復不能な耕地は1,3001,600万ヘクタールになっているという。たとえば揚子江デルタ周辺で栽培された米からは国際基準の15倍のカドミウムが検出されたり、上海周辺で取れる野菜の残留農薬を無作為で検査したところ最低でも日本の6倍に達していたというのである。そして現段階では残留農薬や重金属から中国の食材を守る方法は見当たらないというのだから問題である。中国は人口が多いため1人あたりの水資源は世界平均の3分の1といわれています。その水資源小国の河川や湖沼が汚染物質の垂れ流しに苦しんでおり、河川の7割以上、都市部の河川に限れば9割以上が汚染されているということです。

中国では、その急速な経済発展や工業化、さらに人口の都市集中によって毎年耕地が7%減少しているといわれています。これも内モンゴル自治区などで草原を遊牧禁止にし、農耕地に転換したものを含んでの耕地の減少であるから、従来の農地の減少は相当進んでいると見られます。これら遊牧用の草原は表土が10センチ程度しかなく、その下は砂漠なのでこの表土を耕すと2,3年で砂漠化してしまう。北の砂漠化と南の水質汚染、中国の作物栽培環境はまさにこのような重症に陥っているのが実態のようである。

私たちはどう安心できる野菜を確保すればいいのでしょうか。根本的な道は野菜農家の後継者が生産に意欲を沸かせられる環境を作ることでしょうが、消費者もこのことに気づくことが大切でしょう。しかし、なかなかうまくいかないジレンマの中から生まれてきたのが国内での野菜工場です。今、野菜工場が注目を浴びてきています。すでに大分県の久住高原や茨城県の土浦には大規模な野菜工場があり、現在国内で10工場ほどが稼動しているようです。野菜の生長に必要な光や温度、炭酸ガス濃度、肥料成分などを完全コントロールされた工場から無菌状態のレタスなどが出荷されているのです。無菌状態で栽培されるために野菜を水で洗わなくても食べられる、というのがこの野菜のキャッチコピーです。これらもひとつの道かもしれないが私は本来の野菜とはかけ離れていると思っています。なぜなら、人間は食べ物を通じて地球とつながって生きているのです。大地の微量成分を吸い上げて成長した植物を直接人が食べるか、家畜や魚を経由して人の口に入ることによって人は大地とつながって生きているのです。そして地球を通じて人は宇宙と結びついているのです。こうして地球の構成成分を栄養として私たちの体は作られているのです。窒素、燐酸、カリなど人間の浅知恵で計算した栄養素だけでも植物は育つけれども、それは本来野菜が持って育つ組成のすべてではないはずです。人の健康にとってはこれら地球の微量成分も重要な働きをしているはずです。植物工場はまだそこまで完璧には自然を学びきっていない。中国の汚染野菜と対極にある野菜工場も人の健康という視点で見ればまだ充分とは言い切れないところがあります。さらには最近になって食品流通組織も野菜生産に参入する動きが出てきており、農業分野への企業参加の道が広がってきています。

究極のところ、自分の体は自分が責任を持たなければならないので、どの道を選ぶか自分で選択することになります。1割安い輸入野菜を選ぶか生産者が保障している健康野菜を選ぶかは私たちの問題なのです。私たちは体を作る蛋白質や脂肪、さらにはエネルギー源となる脂肪、炭水化物に目が向きがちです。しかし、からだの健康を維持していくためには微量成分の供給源となる野菜の摂取が欠かせません。健康に優れた働きを持つ野菜をどれだけ食べるか、どのような野菜を食べるか、野菜を食べるときにはこの二つを考えなければならないようです。

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