前回までメラミン事件と牛乳について、その背景にアメリカの農業が強く影響していることを述べてきたので、今回はアメリカ農業について私の感想を基準に話をしたいと思います。私は、仕事の関係から数回に亘ってアメリカの大豆農家を訪問したことがあります。それは五大湖の周辺の大豆の主産地をはじめとして中西部の農家、南部の農家など、主としてミシシッピー川の周辺の農家を回ってきました。
私たちはアジアの稲作農業についてはなんとなく想像することが出来ますが、アメリカの農業は大規模というイメージだけが強くて、いったいどんな働き方をしているのかその姿を思い描くのはなかなか難しいようです。もちろんアジアの農業といっても気候も土壌も日本と異なっており日本の農業の姿をそのまま引き伸ばして想像するわけにも行きません。しかし、同じモンスーン地帯に属しているために農業の規模、発想については似ているところも多いように思っています。子供の頃に私が育った家は四国の徳島県で古くから続いていた農家です。だからこのような伝統的な西日本の農家に根付いている農業に対する考え方は容易に想像することができます。
もちろん私が知るアメリカの農家も、そのごく一部の農家の姿を垣間見たに過ぎず、ほんの象の尻尾をなでてアメリカ農業の全体像を想像している危険性は否めませんが、それにしても日米の農業に対する姿勢の違いに驚いた強烈な記憶は今もって消えていません。
アメリカの大豆農家がその年の農作業の初めが種まきから始まることは日本とて同じことです。私がまずアメリカの農家の姿に驚いたのは、彼らの考え方です。アメリカの穀倉地帯の農家は基本的に小麦とトーモロコシと大豆を輪作しているのですが、最初にどの作物をどの程度の面積に栽培するかを決めなくてはなりません。その比率によって年間の農業所得が違ってきます。そこで、私が見た農家はいろいろな情報をコンサルタントから購入して自分の所得が最高になる組み合わせを考えていることです。たとえばそれぞれの穀物の秋の繰り越し在庫予想がどの程度になるのか、それもアメリカの在庫とともに世界の在庫も睨んでいるのです。これによってそれぞれの穀物の需給状況を想定して収穫時の穀物価格を予測するのです。また天気予報も購入して春の雨の予想から自分の農地の天候はどの穀物の播種に適しているのかなどを調べ、春の種まきの割合を決めます。日本の稲作農家にはこのような姿はありません。米を作ることを考えているだけでよく、天候の予想もわが国の米の期末在庫も考える必要がないのです。
つぎに目にしたのが収穫後の農家の対応です。収穫した穀物はいったん自分の家のサイロに貯蔵して置きますが、この穀物をいつ売るか、を真剣に模索している姿です。農家からの穀物の売り渡し価格は日々のシカゴ穀物相場に連動しています。そのためこのシカゴ相場に影響を与えているいろいろな要因、たとえば世界の穀物需給や天候予想、南半球の穀物の生育状況、さらには政治的な動きまでの情報を購入して売り時期を探しているのです。まさにそこに見る農家の姿は一人の企業家の姿として映ってきます。日本では収穫すれば直ちに農協を通じて出荷してしまい、その価格は政府の今年の米の買入価格に従うだけです。日本の農家が工夫する余地はほとんどありません。日本の農家は国であるお上(かみ)に頼りきっているのです。
アメリカの農家は積極的に政府を動かします。そのために農家団体はロビイストと呼ばれる専門家を雇って自分たちに有利な政策提言をし、国の方針を変えてゆく働きかけを続けます。国内に在庫が多くなれば海外に輸出できるように圧力をかけます。そしてそれらが日米関係の中で生かされていくのです。このようなアメリカ農業の体質はどこから来たのか、彼らの歴史の中から見ておく必要があります。
アメリカの歴史はたかだか200年程度であり、アメリカ農業の黎明期は1870年頃であろうと考えられます。アメリカに鉄道が敷かれて西部の大平原に鉄道が延びていった頃であり、そしてそれはまさに私たちが映画でおなじみの西部劇の時代でもあったのです。無人の荒野に鉄道を延ばした鉄道会社は鉄道収益を上げるために沿線に農家を入植させ、その農産物を鉄道貨物として輸送することを考えたのです。ちょうど日露戦争の後、満鉄の権益を得た日本が、満鉄の収益を上げるために沿線での大豆の栽培に力を注いだのと同じことです。しかし、当時のアメリカはまだ人口も少なかったために、国内で入植させる農家が少なかったのです。そこで鉄道会社はヨーロッパ、ロシアを回り、これら外国からの入植者を募って回ったのでした。多くの外国入植者が招き入れられたが、彼ら入植者がヨーロッパから持ち込んできた小麦の中に、クリミア半島から持ち込まれた「トルコの赤」と呼ばれる優れた小麦の種があったのです。この小麦がその後のアメリカ農業を活気付かせるきっかけになったとも言えるものでした。1900年頃になるとアメリカでは小麦の増産が続き、やがて国内小麦市場は生産過剰となり、小麦価格が低迷して農家の苦境が始まります。ちょうどブラックマンデーによる経済危機とも重なり、政府は余剰農産物の輸出へと傾いてゆくことになるのです。このように、海外から移入してきた農民たちを中心に、彼らは自分たちの農作物を有利に換金することにあらゆる努力を惜しまなかったのです。
1939年にアメリカ政府は小麦を余剰農産物として輸出し始めるのですが、この当時はほとんどの国が農業国であり、格好の輸出先を見つけることが難しい時代でした。輸出先を探しているうちに格好の輸出先が現れたのです。それは1945年に太平洋戦争に敗れた敗戦国日本が極度の食料不足となっていたのです。しかし、彼らは米を食べていて小麦を原料としたパン食ではなかったのです。しかし、アメリカには小麦が大量に余っていました。これを日本に売り渡す努力が始まったのです。その様子は当時のアメリカ側の担当者の手記にも残されています。こうして1947年からわが国でパン食の普及が始まり、1950年の小学校でのパン完全給食実施にまで一気に進められたのです。それらは1948年から始まったガリオア基金、エロア基金という2つの資金制度に裏打ちされたものでした。これらの制度は食糧や肥料などの物資を敗戦国に援助し、その見返りに援助物資に相当する通貨を国内に積み立てておくというシステムで、この資金はアメリカ政府の許可なしには使えないものでした。さらに1954年にはアメリカとの間で余剰農産物購入協定を結び、アメリカの農産物が次々と持ち込まれ、1960年の農林水産物121品目の自由化へと進んでいったのです。1960年当時の日本の食糧自給率は80%でしたが自由化されたことによって1970年には60%まで一気に下がってしまったのです。つまり1960年代の10年間でわが国の食糧自給率は20%低下したのですが、さらに20%低下するのにそれから40年もかかっていることから見ても、このときの自由化が如何に大きなインパクトを与えているかが想像されます。牛乳や肉食もすでにお話したようにパン食と平行して国内に浸透していきました。アメリカの推し進めるグローバルスタンバードは地域色豊かだった日本の農業を根底から変えてしまったのです。
日本は米が余ると減反政策で農地を遊ばせます。りんごやキャベツが採れ過ぎると畑に捨てます。わが国は国内で需給の調整をし、海外市場に目を向けません。もっともアメリカも1980年のアフガン戦争以来穀物の過剰生産に対して生産調整をしていますが、それらは海外市場を織り込んでのことであり、日本の生産調整とは見方が違います。最近になって日本の優れた果物が中国やアジアに少しずつ進出しているようですが基本は変わっていません。
アメリカの農業は売れるものなら何でも作る、ということも出来ます。かつては綿花の畑だったアメリカ南部の畑の多くは稲作水田に変わっています。これらの水田の中を車で走っていると、ここがアメリカか、と錯覚を起こすこともあるほどです。タイとともにアメリカは世界の米の輸出量のトップ争いを続けてきました。2000年になってベトナムにも後れをとるようになりましたがそれでも3位を確保しています。米食を基本としないアメリカがこれほどまでに米の輸出に力を入れているのも、アメリカ農業がビジネスとしてとらえられているからでしょう。採算が悪くなるといっせいに農地が売りに出ます。このようなことは日本では考えられません。1985年前後の穀倉地帯に売り地の看板が並んでいた光景は忘れられません。アメリカという国にとって農業は主要な輸出産業であり、農家個人にとってはひとつの事業そのものなのです。