うまい酒に満足した夜は、最後にお茶漬けかラーメンでも食べて気分よく帰りたいと思うことがあるでしょう。この選択は、自分の意思で決めたことだと思っているかもしれませんが、実はこれらの行動は自分の中にいるもう一人の自分が要求してきていることなのです。ビールを飲んでいるときに枝豆やピーナッツ、ポッキーやえびせんべいなど塩味のつまみに手が出るのも、同じくもう一人の自分のなせる技なのです。
私たちの食べ物に対する嗜好には脳から発せられる指令によって食べ物を選ばされていることが多いのです。
我々の体は正確な栄養成分の組み合わせで成り立っています。これらが少しでも崩れると死んでしまいます。だから、ある栄養成分が不足しそうになると、それを補おうとする仕組みが働きが脳から指令され、その栄養素を食べたくなるように仕向けるのです。
酒を飲み続けているとアルコールが十分に体内に入ったので、あらためて体内でエネルギーのために糖を作り出す必要がないとの情報が脳に送られて、脳は体内に蓄積されている栄養分を分解して糖を作る作業を停止させます。我々の体は大量の糖をエネルギーとして活動を維持しているのです。一番エネルギーを消費しているところは脳です。酒を飲んでいるとアルコールが体の代謝を高めますが脳が必要としている糖分が次第に欠乏してくるのです。酒は糖分を分解してアルコールにしたものだからです。
脳は酒を飲んでいると糖分も供給されてくるものと錯覚していたが、やがて糖の欠乏に気づき糖分を摂取するように指令を出してきます。酒を飲んでいる後半になって澱粉食であるお茶漬けが食べたくなるのはそのためなのです。
また、運動や山歩きなどで疲れてくると糖分が欲しくなるのも同じ現象ですが、糖分がエネルギーとなるためにはTCAサイクルという代謝経路まで辿り着かなければなりません。つまり、糖分はクエン酸まで分解されて始めてTCAサイクルに入ることができるのです。それならば糖分よりも手っ取り早く酸っぱいクエン酸を食べたほうが早くエネルギーに変換することが出来ることになります。運動選手が疲れたときにレモンの汁を口に流し込むのもエネルギー補給を早めるための脳からの要求なのです。
脳はエネルギー源がどのような食品の中に含まれているかは、過去に私が食べた食べ物から得た情報で記憶されています。だから、疲れたときには、甘いものを食べろとか酸味のものを食べろという信号を送ってくるのです。発育盛りの子供が甘いものを欲しがったり、老人が甘いものを避けるのも体が必要としているエネルギー量が違うからです。現在は糖分も澱粉食品も私たちの身の回りにあふれています。こうなると甘さに対する執着の仕方が変わってきます。20年ほど前までは人気の飲み物といえばジュースや甘いコーヒーなどであったのが、今ではお茶や水のペットボトルなどに人気があるのも、糖が身の回りにふんだんに出回ってきたために、体の要求するものが違ってきていることを示しているのでしょう。
ビールを飲むと塩味のつまみが欲しくなるのは、ビールの中に含まれる成分に関係しています。ビールは塩分(ナトリウム)がほとんど含まれておらず、カリウムの多い飲み物なのです。どのビールも大体カリウム濃度は血液の2倍くらい含まれていますが、逆にナトリウムは200分の1程度しかありません。だから、ビールを多量に飲むと、それらは吸収されて血液に入っていき、結果的に血液の塩分濃度を下げてしまいます。脳は直ちにその異変に気づき、塩分濃度を元の濃度に保つように余分な水分を体の外に出そうとします。するために尿の量が増えてトイレにたびたび行くことになるのです。そのときに尿と一緒に体内のナトリウムも外に出してしまうので、ますます体内の塩分が少なくなってしまいます。そのために脳はひたすら水分を排出して塩分濃度を保とうと、尿を出す指令を送り続けるのです。それと同時に脳は塩分のあるつまみを要求してくるのです。脳は過去のデーターの中から塩の振ってある枝豆やピーナッツなどをビールのつまみに要求してくるのです。そこであなたは、さも自分で気がついたように塩をまぶした枝豆を注文する、ということになるのです。あるいはビールを飲んだときに脳から枝豆を要求されていたことを知っているあなたは、ビールを注文するときに一緒に枝豆も注文しているのです。
私たちは太古の昔、海の中から生まれてきているので、私たちの体は海水と同じ成分を必要としています。私たちの血液も海水に似た成分で成り立っているのです。塩分、カルシウム、マグネシウムなどは私たちの細胞の働きを維持するためにも欠かすことが出来ません。ですから、その大切なカルシウムは骨に蓄積しておき必要に応じて取り出すことが出来る仕組みになっています。お腹の胎児の成長のために供給されるカルシウムは母親の体から出されます。出産した母親の歯や骨がもろくなることが起こるのもこの仕組みのためです。同じようにマグネシウムも細胞の中に蓄積しておくことが出来ます。しかし、塩分だけは蓄積するところがないので、絶えず外部から補給していかなければなりません。しかし、いつも塩分にありつけるとは限らないので、少し余分に摂取しておくような行動につながります。塩分は体に必要な栄養素ですから私たちの味覚は塩分をうまいものとして受け入れます。塩分の入った調味料が美味しく感じるのはそのためです。だからビールを飲みすぎて塩分が不足してくると脳は直ちに塩味を食べるように要求をしてくるのです。
あなたが気がつかないこのような脳からの指令に基づく行動はたくさんあります。そしてこのような脳と食べ物の嗜好の関係について多くの研究がされてきました。味覚について最初に解明しようとしたのは紀元前4世紀、古代ギリシャの哲学者アリストテレスだといわれています。彼は、味は7つの要素から成り立っており、それは、甘味、塩味、苦味、酸味、渋味、辛味、えぐ味であるといっています。近年になって、渋味や辛味は味ではなく刺激なのだとされており、19世紀の末頃には西洋科学では味は甘味、塩味、苦味、酸味の4つが基本味であると結論されました。これに不足している味があることを提唱したのが池田早苗などの日本の科学者たちでした。それは昆布や鰹節のだしから得られるグルタミン酸やイノシン酸などのうま味です。1985年の国際会議でこの提案は認められ現在では、このうま味を含めた5つが味の基本とされています。
人は生まれながらにして自分に必要な栄養素を味覚によって見分ける能力を身につけています。赤ちゃんは甘い砂糖水やうま味を口にするとうれしそうな表現をします。しかし、すっぱい酸味や苦味に対しては顔をしかめます。それは、甘さは糖分の存在を示すシグナルですし、うま味は蛋白質の存在のシグナルです。糖分は体のエネルギー源であり、脳のエネルギー源でもある大切な栄養素です。蛋白質は体を作り、体の働きをコントロールしている各種酵素の材料だからです。だからこれらに対して赤ちゃんはうれしそうに受け入れるのです。逆に、すっぱい味は腐敗を意味するシグナルであり、苦味は体に悪い毒素を意味するシグナルなのです。子供はすっぱい食べ物は敬遠しますが、自分の親など信頼する人が酢の物を喜んで食べている姿を見ながら後天的にすっぱいものを食べることを身に着けるのです。だから自分の身の回りに酢の物を食べる人がいなければ食べられない人に育ちます。苦い食べ物についても同じことです。ところが、このような苦いものや強烈な臭いの食べ物は食べ続けると病み付きになる傾向があります。
もちろん私たちの食の嗜好はこのような脳からの指令だけで決まっているわけではありません。欠乏すると生命の維持にかかわる状態に近づくと脳からの緊急指令が優先されますが、それ以上の部分については個人の過去の経験によって嗜好が異なってきます。
ところが、もうひとつ今もって解明されていない食べものの嗜好が残っています。それは油脂にたいする嗜好です。私たちは油料理にたいして非常に強い嗜好を示すのです。油そのものには美味さをあまり感じませんが油で調理するととたんに単独のものよりも美味しく感じるようになります。牛肉も霜降りのように脂が行き渡った肉がおいしく感じられますし、油の乗った旬の秋刀魚やぶりに美味しさを感じます。油を乳化したマヨネーズに執着をするマヨラーなる言葉もあります。このようなマヨラーを相手にしたレストランがあり、その店では自分用のマヨネーズをキープしてくれるのだそうです。なぜ人はこのように油脂に夢中になるのかは分かっていませんが、高いカロリーを持つ油脂を生体が求めているからだという説明もありますが、はたしてこれだけで説明できているのでしょうか。
現代の栄養学では我々が生きていくために必要な栄養素やその量が大体分かっており、健康に過ごしたいと思えば、それらを目安として食事に気を配っていけばいい。しかし、このような知識を私たちが身につけたのはごく最近のことで、それ以前には好きなものを好きなだけ、いや限られた食べものの中から必死に食べていた長い時代があったのです。そんな時代の人類の寿命は今と比べて格段に短かった。そして、人は生命を維持するのに必要な栄養を必死に求めながら人類20万年の歴史を歩んできたのです。つい数10年前になって初めて日本人は飽食の時代を迎えたのです。ですから、私たちの体はこれからも相当長い間は飢餓に備えた仕組みを持ち続けることでしょう。味覚は脳と直結して糖分、蛋白質などは必要量をコントロールしてくれるでしょう。しかし、塩分は絶えず摂取する仕組みになっているためにコントロールからはずされています。また、油脂も味覚の範囲からはみ出しておりコントロールの対象からはずされています。我々は飽食の時代にあってこれからは塩分による高血圧と油脂による肥満に対して戦い続けなければならないでしょう。