亭主の寸話 O『飢餓を救った麦文化』


 前回の茶話会でもお話したように、わが国の食の歴史は米を追い求め続けた歴史でもあったのです。しかし、その願望は長い歴史の中で満たされることはほとんどありませんでした。その原因は2つあります。一つは、わが国の耕地面積が人口に比べて狭かったことによるものです。米を求めて山の斜面をてっぺんまで棚田にして耕しても飢餓から逃れることは出来ませんでした。それはわが国の国土の多くの部分が山であり、人口一人当たりの耕地面積も山岳国スイスより少ない5aであるために米の生産量に限界があったことによるのです。もう一つの原因は、他の民族が主要な食料としていた肉食を仏教の影響で禁止にしてしまったことです。肉食は摂取カロリー量も多く、肉を食べることによって他の穀物の摂取を控えることが出来るのです。しかし、わが国は長い間肉食を禁じていたために米への依存度がさらに高まったといえるでしょう。仏教はインドに始まり、中国、百済を通じてわが国に入ってきました。しかし、その伝達の途中において、それぞれの国を通過するときには、その国の土着宗教と折り合いを付けながら広がってきたために、中国での仏教は儒教、道教の影響を受けて肉食を禁ずることはなくわが国に入ってきました。ところがわが国には根強い神道の思想があり、その穢(けが)れ思想が仏教と結びつき、肉食禁止令へと発展していったのです。

 カロリー量の多い肉食を禁止されると、カロリーの少ない穀物に頼らざるを得ず、必然的に民衆の米偏重が加速されていくことになるのです。幸いにも稲は連作が出来る作物だったので水田を毎年活用し続けることが出来たのでした。それでも江戸時代までの庶民の口には米は日常的には入らず、もっぱら雑穀、イモ類、魚類、野菜、海草で不足するカロリーを補っていたのでした。特にわが国の農民の飢饉を救ったのがサツマイモだったようです。このように狭い国土で肉食を禁ずることができたのも、わが国が気候の温暖な風土と周囲が海に囲まれていたからこそ可能であったのでしょう。逆に、北欧の気候では肉食に頼らざるを得なかったと考えられます。

 江戸時代の鎖国が終って目を外に向けてみると、まさに世界は列強諸国の植民地争奪戦の真っ只中であり、日本も台湾や朝鮮半島の併合、満州国の独立へと手を伸ばしていったのも不足する米を求めた行動であったといえます。このような米の供給不足をもう一方で支え続けたのが、うどん、そーめん、パンの原料である小麦であり、米に混ぜた麦飯としての大麦だったのです。

 いま、香川県では麺についてのいろいろな催しものが繰り広げられており、自慢の讃岐うどん文化を広く紹介しているところです。私も旧友と高松まで本場うどんを味わうために足を伸ばしてきました。わが国での麦の歴史は古く、弥生時代のはじめにはわが国に伝えられたのではないかとされています。古事記・日本書紀にも米、大豆とともに麦の誕生説話が書かれており、古くから貴重な食糧であったようです。しかしここに登場する麦は粒のまま食べる大麦の類であり、粉に加工してそうめんとして食べる小麦の登場はもう少し遅く奈良時代ではなかったかといわれています。うどんは室町時代以降の食べ物であり、中国の麺文化に触発された食べ物のようです。

 江戸時代には、各領主は自分の藩の農民に対して麦や雑穀を食べて米を年貢米として供出するように督促しています。1649年に幕府から出された「慶安お触れ書き」によれば、1.普段は米を多く食べないよう、雑穀を作ること。ダイズ、アズキ、イモなどの葉も無駄に捨てたりしないで飢饉に備えること。2.朝は早起きして草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄をない俵を作り、1日中ゆだんなく働くこと。3.タバコをすってはいけない。物見遊山にふけったり、茶をたくさん飲む女房は離婚せよ、とされています。

 この時代は経済自体が米本位制であり、藩の財政を支えるのも米を中心に賄っていたからでした。農民から年貢米をより多く取り立てるために農民を武士の次に位置づけたり、労働を神聖化して米を単なる必需物資としてではなく、崇敬の対象として「お米」と呼ぶようにするのもそのためです。この辺の話は前回お話した通りです。

 麦は米を収穫した後の田んぼを利用して栽培することが出来るため、米の収量を減らすことなく裏作として麦の栽培が出来たのです。グラフでも見られるように、わが国では終戦直後の昭和20年(1945年)の大凶作は別として、米の不足時代には麦を積極的に生産して国民の飢餓状態を支えてきた長い歴史があったのです。しかし、昭和30年代を境として国内が食糧の安定期を迎えるや、米に代わる次の食の主役が登場することになるのです。それはパン食であり、続いて登場したのが肉食でした。次のグラフにも見られるように、一人当たりの米の消費量が下降線を描き始めた時期が、小麦の輸入量が増える時期と同じであり、さらに肉の消費量がそれを追って上昇カーブを描き始めています。いや、逆にパン食が増え、肉食が多くなったから米の消費量が減少したと言ったほうが正確かも知れません。

 このようにわが国では、長い間主食の柱に米を置きながらも不足する部分は麦で補ってきました。大麦は主に米と一緒に炊飯できるように押し麦に加工して麦飯として食べられており、小麦はうどんやそーめんに加工されてご飯の代用として食べられたのです。わが国で栽培される小麦粉は中力粉といわれるもので、別名うどん粉として主としてうどん、そうめん、菓子の原料に使われ、後に登場するパンに適した強力粉は生産できなかったのです。パンの原料となる小麦はアメリカやカナダからの輸入に頼るしかなかったのです。最近は讃岐うどんの原料となる小麦も多くの部分がオーストラリアなどからの輸入に頼っていたが、輸入先の度重なる干害による小麦価格の高騰も相まって、地元の新しい小麦「さぬきの夢2000」に大きな期待が集まっています。

 わが国では戦後の食糧難のときには国民の1日の摂取カロリーが1380kcalしかなかった時代がありました。上野駅で1日平均6名の餓死者が出たのもこの頃です。このような状況下でアメリカを中心とした占領国群の小麦粉の放出がぎりぎりのところで国民の命を食い止め、コッペパンの配給などの形として表れたのです。そして学校給食にパンが導入され、それらが定着するとともに政府はアメリカからの小麦の購入を拡大し、少しずつ国民の主食が米から離れていったのでした。その後の小麦の輸入状況はグラフで見るとおりです。パンはいまや米の消費量に接近しており主食を宣言できるところにいます。

 パンが主役に躍り出るもう一つのきっかけとなったのは、米のビタミンB不足が栄養面でとりあげられたことによるものです。鈴木梅太郎博士の研究が発端となり、米よりも小麦のほうが栄養的に優れているのではないか、という議論が沸き起こりました。米からパンに流れていった人の中にはこのことを理由にあげる人も多かったのではないでしょうか。しかし、考えてみればおかしな話で、確かに米にはビタミンBが欠乏していますが、麦飯を食べることで補えるし、小麦粉で作るうどんやそうめんでも充分解決できることなのですが、なぜか答えはパンだけに集まっていくのです。

 パンが主食に近くなると、その原料の小麦の輸入が増えていくのは仕方のないことです。それは、パンの原料となる強力粉が国内で栽培する小麦からは製造出来ないからです。しかし、大麦とその周辺の麦の輸入も増えていることはわが国農業の怠慢と見られても仕方ありません。これらの多くは畜産飼料の原料として輸入されており、牛乳、肉の消費拡大がそれらを支えています。しかし、これらは稲作の裏作としてわが国でも充分栽培することが可能なのです。農家は政府が補助金で充分に支援をしてくれないと栽培しないのです。

 そうめんやうどんなどで使われてきたように麦は、長いわが国の食の歴史の中で米の陰に隠れて絶えず国民の栄養を支え続けてきた、言わば陰の功労者なのです。「貧乏人は麦を食え」といって物議をかもした首相もいましたが、本当は国民皆で麦飯を食べていたら食糧事情も栄養状態ももう少し望ましい方向に進んだのではないだろうか、とさえ思われます。

 イギリスの経済が破綻状態であった頃、鉄の女サッチャー首相が登場していくつかの財政再建政策を打ち出したことがありました。その中に高級なカナダの強力小麦の輸入を禁じて、自国で生産される質の悪い小麦を使ってパンを作るようにしたことがあります。ちょうどその頃に、私はパンの仕事でイギリスに行く機会があったのでよく覚えています。当時のイギリスのパン職人達は、イギリスの小麦粉でパンが作れる技術があれば日本のような高級な小麦粉を輸入している国では立派なパンが出来るはずだ、といっていました。イギリスの財政再建は国内産小麦のお蔭、とは言いませんが、わが国も自国の農作物をもう少し有効に使えないものか、と思わずにはいられません。

 いま、食品店の店先には押し麦や雑穀類を炊飯器に入れて白米と一緒に炊く十種雑穀や十五種雑穀の商品がたくさん並べられています。生活習慣病におびえる中高年の人たちになかなか人気があるようです。だけど考えてみれば、白米だけでなくこうしていろいろな穀物と組み合わせながら食べるのが本来の米の食べ方ではなかったかと思います。飽食の時代を迎えて私たちは初めて麦のすばらしさを認識したのではないでしょうか。


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