亭主の寸話 N『東アジアにつながる食文化』


 日本の文化が中国、朝鮮を通じて大陸の影響を受けていることは子供たちでも知っていることです。その中のひとつである食文化も当然のことながら中国、朝鮮の影響を強く受けています。しかしそれらは長い時代に亘ってわが国の生活の中に浸透していったために、どの部分がわが国の生み出した独自の食文化で、どの部分が中国、朝鮮の影響を受けているのかが分かりにくくなっています。毎日の食卓に並ぶ食材の中で、餃子やシュウマイは中国からの食べものであり、焼肉やキムチは朝鮮半島からきた食材ということは想像がつく。しかし、食べ方、調理器具となるとなかなか厄介である。今日はこの辺の話を紹介したいと思っています。

 東アジアの食文化の共通の基盤となっているものは、なんと言っても米と大豆を利用しているところにあります。しかし、厳密に見ると前回お話したように、東アジアの共通の食文化の基盤ともいうべき米文化にしても、わが国では独特の発展をしています。だから他の食文化も同様に細かなところではそれぞれの国で違った発展の道をたどっていますが、お互いに密接な関係で影響をし合って、大きな東アジアの食文化としてつながっているのです。

 そもそも平安時代の貴族は中国のまねをするのがカッコイイとして、宮廷での宴会の仕方からそこに使われる料理の仕方まで中国方式を取り入れて、それがわが国に定着していったようです。

 大きく東アジアの食文化として捉えたときに、まず取り上げなければならないのが米を取り巻く文化でしょう。米飯の食べ方では、以前にもお話した箸(はし)を使う文化があります。東南アジアの米文化の中にはご飯を食べるのに箸を使わずに手でつまんで食べる民族も多くいますが、東アジアでは共通して箸を使っています。この箸文化は中国が発祥で、もともとは箸と匙(さじ)がセットになっていたものですが、この文化を受け継いだ韓国と日本は異なった発展の仕方をしています。わが国では平安時代以降、匙の使用は消えてしまい、たとえ汁物であっても箸を使って食べるという姿になっています。ところが韓国料理ではご存知のように箸と匙が今もセットになって使われています。中国でも匙が消えて箸だけで食べるのが多いようです。わが国の箸には平安時代より、使った人の魂が宿るという穢れ信仰が付きまとい、各自が自分の使う箸を決めています。さらに自分だけが使ったら捨ててしまう割り箸という形へと展開していくのです。

 次に餅について触れておくと、東南アジアにはうるち米を栽培する地域と重複してモチ米栽培地域があります。さらにモチ米栽培地域の中に餅を搗いて食べる食文化を持っている地域があります。このように餅を食べる地域は限られており、あまり広くないようです。だが、日本の餅は外国からの導入文化であるかどうかは明らかになっていません。せんべいも唐の時代に小麦の麺を油で煎ったものとして伝来した後、米粉を原料とした現在の姿に変わったといわれています。同じく、うどんも中国からヒントをもらってわが国でつくったものです。

 日本食の代表であるスシも朝鮮の影響を受けた食べものである可能性があります。現在の新鮮な魚介類をにぎる江戸前寿司はわが国独自の食文化でしょうが、それらのルーツとなる「馴れずし」は日本海を取り巻く食文化の臭いがしています。魚介類、穀物、塩を組み合わせる「馴れずし」「シッケ」は日本では日本海側で発達しており、朝鮮では南部の日本海側の郷土料理となっているようです。日本語で「ごはん」を指す「めし」は朝鮮語の「米飯(メイ)」とつながっている言葉で、寿司は「酸し」からきており、すっぱいものを指しており、ごはん類がすえたことを西日本ではスイと呼び朝鮮語の呼び方と同じです。つまり、「酸い飯(すいいひ)」が「酸飯(すし)」となり寿司につながったのであろうとされています。すしという食べものがわが国に定着していった過程では朝鮮などの日本海周辺の文化が基盤となっているのでしょう。ご飯物は一般に箸を使って食べるのに、握りずしだけは箸を使わずに手で食べるのは、南方系の稲作文化の匂いが感じられるのですがどうだろうか。一方、ご飯の中に梅干を入れた握り飯は日本独特の食べ方です。

 また、食事を作る道具類には朝鮮の影響が多く残っています。釜は朝鮮語でもカマと呼ばれており、これが朝鮮文化に由来していることは新井白石も書き残しています。釜を使うカマドも朝鮮からもたらされたもののようです。鍋も朝鮮語のナムビであり、これらを使った一連の食事文化が渡来人と共にわが国にもたらされたのではないかと考えられています。カマドは煙突で煙を室外に誘導する仕組みになっており、室内で煙に悩まされずに調理が出来るだけでなく、火力の効率的活用の面からも画期的な厨房器具だったことでしょう。私は関西の生まれですが、子供の頃はカマドのことをオクドとかオクドサンと呼んでいたことを覚えています。クドは古い日本語のようで、平安時代にも使われています。しかしクドという発音は日本語としては収まりがあまりよくありません。朝鮮語で「クルドク」は煙突を指す言葉で、これがわが国に伝えられてかまどを指し、親しみをこめてオクドサンと呼んでいたことになったのではないかとも言われています。さらに、蒸す籠を「せいろ」とか「せいろう」と呼んでいますが、これなども朝鮮由来のもののようです。

 秀吉の朝鮮侵攻の後、多くの朝鮮人の職人を連れてきたことがわが国の文化、とりわけ食文化に貢献をしたことは疑いがありません。現在でも福岡、佐賀、鹿児島には朝鮮系の焼き物が多く、唐津焼、有田焼として美術陶芸品から日常品まで広く利用されています。茶碗はごはんを食べる食器を指しており、お茶を飲む食器は「茶飲み茶碗」と特定しています。つまり、茶碗の茶という言葉は飲み物の茶とは関係なく、朝鮮語の「磁碗(チャワン)」の呼び方に日本語の茶の字を当てはめたに過ぎないのです。そのほかの陶磁器で作った生活用品も茶碗と同じように、やはり朝鮮言葉に由来しているものが多い。たとえば徳利、丼、猪口、匙などもその類のようです。

 米とともに伝えられた大豆もわが国の食文化に大きな影響を与えています。そもそも大豆は中国東北部で生まれた可能性が高い食材であり、大豆の利用の仕方も中国が古くから進んでいました。それらは遣唐使や僧侶などによってわが国にもたらされたことは広く知られています。豆腐、味噌、納豆もそれぞれのルートでわが国に伝えられたものであり、醤油も中国、朝鮮にあった醤を手本としたわが国の調味料です。奈良時代になると鑑真和上が砂糖をわが国に持ち込んだとされています。また、室町時代になると多くの加工食品が紹介され、そうめん、ところてん、かまぼこ、ようかん、きしめん、まんじゅう、だんごなど現代の我々が和食として認識している多くがこの頃に中国からもたらされています。まんじゅうは「三国志」の諸葛孔明が考えたものとされており、南北朝時代に建仁寺の僧によってわが国にもたらされたようです。日本で饅頭といったらお馴染みの、中にアンが入った菓子を指していますが、中国で饅頭といえばアンのない、主食の蒸しパンであり、韓国では水餃子にあたります。これなどもそれぞれの地域で独自の発展が進んだものです。

 茶も鎌倉時代に栄西禅師が宋の時代に種子を持ち込み、わが国に抹茶を広めたとされています。また、抹茶と同じく禅宗と共に入ってきたのが精進料理、懐石料理であり、江戸時代には隠元禅師が普茶料理を持ち込んでいます。また料理に使う包丁も平安時代に中国から伝来したものであって、中国にいた料理名人の名前が転じたもののようです。

 酒は百済から持ち込まれたようです。当時の日本には口噛み酒というものがありました。これは見目麗しい女性が蒸した米を口の中に入れて噛みながら米の澱粉と唾液のアミラーゼを混ぜ合わせて壷の中に吐き出して貯蔵しておく。すると澱粉は糖化されて甘くなるが、さらに貯蔵しておくと空気中に漂う酵母菌が繁殖してアルコールに変化して酒となるのです。このような風習から自分の奥さんを「かみさん」と呼ぶようになったと言われています。しかし、このようにして作った口噛み酒は、東京農業大学の小泉先生によると糖分の多い甘い酒でとても酔うところまで行かないようです。また、大量に作ることも出来ず、古代の人たちも不満に思っていたところに朝鮮の百済から麹からつくる現在の酒の原型がもたらされたのでした。時代は応神天皇の頃であり、この技術が現在まで受け継がれていることになります。もちろん百済も大陸文化の伝来で身につけたものであり、どうやらルーツは東アジアの温暖多湿地帯でカビが生えやすいところから来たものらしい。それより西の方は乾燥地帯でカビが生えにくく、そのために麦を原料に麦芽を原料とするビールが発達することになるのです。このようにして稲作文化と発酵技術が重なって酒の誕生となり、日本まで北上してきたのです。だから酒を造る麹の呼び方も朝鮮語のコッジをコウジと呼ぶようにしたものと想像されています。また、黴をカビと呼ぶのも古代朝鮮語のカムピからだとも言われています。そうなると酒にも朝鮮語由来の可能性が考えられます。サケの古語はサカといわれており、その名残がサカズキ、サカツボなどの呼び方に残っています。朝鮮語では発酵する様子をサクと呼んでおり、サケの語源になったのではないかといわれています。

 きゅうりも朝鮮から来た食べものです。京都の綴喜郡に狛田というところがあって、ここに「瓜生田の遺跡」というのがあり、古代の瓜の発祥の地とされているところです。この地域には5世紀ごろに朝鮮(高麗)からの渡来人によって開拓された土地とされています。近くには「高麗寺址」があり、戦後までスイカや瓜の産地として知られていたところです。このウリという呼び方も朝鮮古語のオリが変化したものであり狛族がウリを持ち込んだことが文献でも残っています。また、ウリと共に漬物技術も持ち込まれた可能性があります。唐辛子も日本から朝鮮に持ち込まれ、豊臣秀吉の朝鮮侵略のときに再び日本に持ち込まれた、とされています。

 私たちのご祖先さんたちは我々が想像しているよりもはるかに活発に近隣諸国との交易を行っていた可能性があります。そのような中からいろいろな文化を吸収し自分たちの生活の場に応用しながら私たちの食文化につながっています。現代では我々が和食と称して食べているものの大部分は近隣諸国からの輸入食材で出来ています。握りずしがヘルシーフードとして海外でもてはやされている今日、食文化の伝播は昔よりも遥かに早く広く世界を駆け巡ることでしょう。


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